多々良浜
「捲土重来、ここが正念場ですな、兄者」
直義がそう言うのを聞いて、馬上の尊氏は弟の緊張と興奮を感じ取
った。
直義は普段、兄弟二人っきりの時を除いては尊氏のことを「兄者」とは呼ばない。
あくまで自分は尊氏の臣下であるという態度で接してくるのである。
六波羅を攻めた、あの日から。
いや、子供の時分から、直義は兄である尊氏を盛り立てる役回りばかり務めてきた。
生真面目なのである。
それは、尊氏には足りない部分であった。他にもいくつか尊氏には足りない部分があったが、それを見事なばかりに補ってくれたのが直義だ。
この弟がいなければ、己はずっと前に死んでいたかもしれぬ、そうよく思うのであった。
「腹を、切る」
己が鬱の気にやられ出家や自害を宣言した時には、いつも諌められた。
この弟に諌められなければ、本当に腹を掻っ捌いていたかもしれぬ。
直義がいるからこそ、今日の己がある。
そう思うと、不思議と心強い気がしてくる。兄弟で天をこの手にするのだ。
「左様、この一戦を我が物とし、一挙に都に駆け上がって見せよう」
尊氏は骨喰の太刀を引き抜くと、軍勢に向かって鼓舞するように天を突く。
嫌な風だな。
菊池武敏は天を見上げる。そしてゆっくりと視線を落とす。
足利の軍勢を見やり、己の軍勢との違いを感じる。
数は圧倒的にこちらの方が上、十倍近い。数で押し潰せば圧倒できる。
だが、烏合である。
日和見どもが宮方優勢と感じ、自分についてきているだけだ。
士気もそれなりでしかない。
どこか、脆い。
足利方に内通している気配もうかがえ、味方と言えど信の置けぬものも多い。
父も兄も宮方のために戦い、死んだ。だが、他の連中は日和見、六波羅が落ちて慌てて宮方についたような者たちばかりだ。頼れるのは阿蘇ぐらいであろう。
だが、勝つ。
武敏は兜の緒を締め直し、前衛に突撃の命を下す。
建武三年三月二日、筑前国多々良浜、戦が始まった。