【BNSK】品評会 in てきすとぽい season 10
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桜のおさとう
(大沢愛)
投稿時刻 : 2015.02.28 22:32
字数 : 10000
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桜のおさとう
大沢愛


              〇
 あれは幼稚園の年長組のときだった。私の家の近くに新しい家が建った。農家の平屋が多い一帯に三階建ての洋風建築は異彩を放っていた。「間部」という大理石風の表札が門柱に嵌め込まれ、銀色のレクサスに乗った一家が引っ越してきた。休日でもネクタイを締めたパパに背中まで届くウェービーヘアのママ。そして、さらさらの髪で屈託なく笑う男の子。引っ越しの挨拶回りで私の家を訪れたとき、「じゃあ桜ちゃん、うちの悠斗と同い年なんだ」と言われてなんだか申し訳ない気がした。
 私の母親は彼我の格差をものともせずに「間部さん」との間柄を深めていった。幼稚園から帰ってくると、母親に連れられて間部さんのお家によくお邪魔した。一階はフローリングの吹き抜けになっていて、螺旋階段が二階へと上っていた。ダイニングでお茶になる。ママ同士がお話している間、私と悠斗はテーブルに向かい合っておやつを食べる。私にはいつも紅茶を出してくれた。向かいの悠斗を見るとマグカップを飲みにくそうに傾けている。中身はホットミルクだった。食べ終わると、ふたりで螺旋階段を上って二階の悠斗の部屋へ行く。ベッドのある子ども部屋には背の高さの倍ほどの本棚と、おもちゃの入ったカラーボックスがあった。ベッドに座ると、悠斗はミルクくさい溜め息をついた。
「いいなあ桜ちゃん、紅茶飲ませて貰って」
 椅子に座った私は天井の高さが落ち着かなかった。
「悠斗くんも欲しいって言えばいいのに」
 言ったことあるよ、と頰杖をついて目を伏せる。長い睫毛が反り返っている。
「体に悪いからだめだって」
 ・・・何か言い返すべきだけれど、そのときの私はなるほど、とうなずいただけだった。
「いいにおいだよね、紅茶。飲んでみたいなぁ」
 悠斗はいつもいい香りがした。他の男の子たちは泥や埃、涎の臭いをさせていたのに。やってはいけないのは分かっていたけれど、ぎゅっと抱きしめてにおいを嗅いでいたい気がした。
「お店で売ってるよ。パックとかペットボトルとかで」
「そういうのって体によくない、それに香りもよくないってママが言ってた」
 幼稚園に通っていなかった悠斗は、私と一緒に地元の小学校に入学した。サッカーが得意だったおかげで男の子たちの間ですぐに人気者になった。放課後、サッカーをやったあと男の子の友だちと別れて家に帰る途中でよく一緒になった。幼稚園のころとは違って汗のにおいをさせていたけれど、不思議と嫌ではなかった。
「なんか、疲れるなー。いいやつらばっかだけど」
 ランドセルを背負った悠斗は額に貼りついた髪をつまんで言う。膝小僧には血が滲んでいた。
「今日、うち来る?」
「うん」
 鞄をうちに置いて、顔を洗って歯磨きして着替える。髪を整えてから悠斗の家に行った。
「お邪魔します」
 悠斗のママは、いらっしゃい、と言って迎えてくれる。幼稚園のころとは違って、お盆に乗せたおやつを子供部屋まで持って来てくれるようになっていた。部屋の中にはテニスラケットとボール、それにロジャー・フェデラーのポスターが貼られていた。部屋の真ん中に小さなテーブルが置かれ、向かい合って座る。悠斗は帰宅してすぐシャワーを浴びる。濡れた髪のまま、ホットミルクを飲む。週に三日、夕方からテニススクールに通っている。パパが学生時代、テニスをやっていたそうで、勧められて始めたそうだ。
「ぼく、やっぱサッカーとか好きじゃない。友だちとやるのは嫌じゃないけど、テニスコートに入るとほっとする」
 クッキーを齧りながら、だよね、とうなずく。
「悠斗、あんまりサッカー向いてない気がするよ」
 グラウンドで男の子同士ぶつかったり押し倒されたりしているのを見ると落ち着かなくなった。怪我が心配、というのもあるけれど、いまにして思えば羨ましかったのだ。
 ときどき悠斗を誘って上鳥山のてっぺんにある公園まで行った。悠斗の練習用ラケットと、母親にせがんで地元の文房具店でやっと買ってもらったラケットで擦り切れた硬式球を打ち合った。バウンドの大きな硬式球はすぐに頭上を越えて、フェンスの向こうへと飛んでいく。最初は訳が分からずに何度もホームランしてしまい、悠斗と一緒に崖を滑り降りてボール探しをした。悠斗が小枝や蜘蛛の巣まみれになるのを見て、私は本気になった。家でも素振りを繰り返して、何度もマメをつぶしてはテーピングを巻いた。トップスピンで悠斗の足元を狙えるようになったのは一週間後だった。右腕にも太腿にも脹脛にも張りや筋肉痛が来ていたけれど、悠斗が本気になって球に食らい付いてくれるのを見ていると胸が熱くなった。一時間ほど打ち合ったあと、東屋で休憩した。ポットのお茶を飲みながら、これでいつでも練習できるね、と言うと、悠斗は答えなかった。しばらくして、桜ちゃんとはもう打たない、と呟く。
「本気の球だと、きちんとしたコートでないと練習にならない。変なくせがつきそうだし」
思わず悠斗を見る。悠斗の本当に悲しそうな顔を見ると、胸のあたりで弾けそうだった怒りが瞬時に萎えた。
「そうか、じゃあ仕方ないね」
 汗でグリップテープが剝がれかかった私のラケットを見る。一週間前は新品だったのに、何べんも地面をぶっ叩いたおかげでフレームは傷だらけで、ガットは泥で黒ずんでいた。
 それからも悠斗の部屋に通った。昔のテニスプレーヤーの話を調べて話すと、悠斗は身を乗り出して聞いてくれた。ケン・ローズウォールのウィンブルドンでの最初と最後の試合について話したときには涙ぐんでくれた。
 悠斗のママがあるとき、私に言った。
「悠斗、ほかにお友達はいないのかしら?」
 たくさんいますよ、と言ったけれど、ママは納得しない風だった。
「四月からはもう五年生だから、男の子のお友達も連れてくればいいのにねぇ」

 二月も残り一週間、という日曜日に、上鳥山公園で悠斗と待ち合わせをした。東屋のテーブルにトートバッグを置いて、スカートの座り皺を確かめる。やって来た悠斗はダウンジャケットを着てマスクをしていた。バッグから包みを取り出して、テーブルに置く。
「誕生日、おめでとう」
 悠斗はマスクを外す。紅潮した顔で、ありがとう、と言う。包みの中身は手作りのサンドイッチだった。ポットからカップに紅茶を注いで、並べて置く。
「どうぞ」
 悠斗は相変わらずママの手作りのものしか食べさせてもらっていない。タマゴサンドも、卵やマヨネーズが心配だから、と禁止されていた。だから思い切り食べて欲しいと思って用意した。もちろん紅茶も。大丈夫、私が飲み続けても生命に別条はなかったし。
 タマゴサンドをおそるおそる口にして、悠斗は目を剝いた。
「こんなにおいしかったんだ」
 目を細めて口に入れる。紅茶の香りを嗅いで、外国のお屋敷みたいだ、と呟く。ひと口飲んで、顔を顰める。
「苦い」
 慌ててスティックシュガーを出す。袋が破れると嫌なので、プラスチックケースごと持ってきた。一本取り上げた悠斗が、桜だ、と言う。よく見ると、ハニースイートの表面に白い花びらが散っている。切れ込みのかたちからして間違いなく桜の花びらだった。
「じゃあ、桜のおさとう、いただきます」
 そう言って悠斗はスティックシュガーをカップに注いで行った。一本、二本、三本。入れ過ぎじゃないの、と言うと、悠斗は微笑んだ。
「だってさ、桜のおさとうだから」
 結局、五本の桜のおさとうを入れた紅茶を、悠斗はおいしそうに飲み干した。タマゴサンドも完食してくれて、最後にプレゼントのリストバンドを渡した。
「試合のとき、これをつけるよ」
「写メ送ってね」
 夕暮れの石段を並んで降りた。街並みがハニースイートだったことを憶えている。

 その夜、悠斗のママが家に来た。玄関先から上がろうとせずに大声で話して帰って行った。
 母親の話によると、こういうことだった。あのあと帰宅した悠斗は、激しく嘔吐して意識不明になった。もともと風邪気味のところに、吹き曝しの公園で何時間も過ごして体調を悪くしたらしい。しかも吐瀉物の中に家では食べさせたことのない卵黄が混じっていて、問い詰めたところ桜さんと会っていたことが判明した。食べ物には細心の注意を払っていたのに。しかも五年生になるというのに毎日のように部屋にやってくる。夕方からテニスがあるので、帰宅後は貴重な勉強時間なのだ。今回のことで、と言うわけではないけれど、以後は桜さんとのお付き合いはお断りしたい。
 すぐに悠斗の家に行った。玄関のチャイムを押しても、ドアスコープが瞬いただけで反応はなかった。
 週明けの小学校には悠斗の姿はなかった。二月、三月と欠席が続いた。
 何度も家に行ってみた。
「悠斗くんは大丈夫ですか? 悪くなったんですか?」
 インターフォン越しに何度も叫ぶと、低い声で、大丈夫です、と声がした。それ以上は何も答えてくれない。玄関を離れて建物を見上げる。二階の窓は雨戸が閉められていた。この時間なら窓を開ければ、机の前面に夕陽が当たるはずなのに。
 四月になった。五年生のどのクラスにも悠斗の姿はなかった。先生に訊いてみると、転校した、という。嘘だ、と思った。悠斗は引っ越してはいない。中学生になれば悠斗と一緒になれる。それだけを思いながら私の五年・六年は過ぎて行った。

 中学に入って、1組から7組までの名簿を五回通り見直したけれど、悠斗の名前はなかった。倒れそうな気持ちのところに、教室で奇声を発して騒ぐ連中がいたのだ。
「やかましい」
 思わず怒鳴ってしまった。いくつもの顔が睨みつけてくる。その中でいちばん肝が据わっていそうな一人に「ちょっとアンタ、こっち来て」と声をかけて廊下に出た。ざわつく教室の戸を閉めて、窓側の洗い場の前で向かい合った。
「なんか文句あるのか」
 どすの利いた声が頭上から降ってくる。いきなり手を出してくるような馬鹿でなくて内心、ほっとした。
「アンタら、気が付かなかったの。周りの席の女の子、泣きそうになってたよ。弱い女の子怖がらせるようなケチなことして嬉しい? 図体デカいなら器もデカくなきゃ、ただの阿呆だよ」
 肚に力を込めてゆっくりと言う。殴られるならそれでいい、と思った。表情が揺らぐ。子どもっぽい顔しているな、と思ったところで、先生に教室に入るよう、促された。戸を開けると、教室内が一瞬、静まり返った。席に座った大男は、泣いていた女の子に小声で、ごめんな、と言ってから机に突っ伏した。女の子は両手で膝を摑んで縮こまっていた。大男の名前が健介だというのは、そのあとの自己紹介で分かった。
 放課後、健介に呼び止められた。
「教室内で恥かかされちゃ、アンタも引っ込みつかないでしょ。別にメンツ潰したかったわけじゃないし」
 普通に話できてよかったわ、と言いながら手を振って別れた。それからときどき、一緒に〇〇行こうや、と言われて、不服がなければ付き合うようになった。健介のグループには他にも女の子はいた。華英や芹菜たちで、男の子に寄りかかるタイプの子たちだった。あるとき、仲間の昌人に言われた。
「健介、桜のことが好きなんだよ」
「そういうことは自分の口から言え、って伝えといて」
 直接の告白はないけれど私がそばに居ると目に見えて機嫌がよくなる。グループのやんちゃにも付き合った。先生たちの腰の引けた態度を見るにつけ「いい子」でいるのはばかばかしいと思った。普通の女の子たちからは距離を置かれた。健介の隣で泣いていた女の子は私に話しかけようともしなかった。
 夜中の集会へも何度か顔を出した。先輩のところへ顔見せに行く、と言って華英を連れて行った。翌日、華英の様子がおかしい。問い詰めて話を聞き出した。すぐに健介を呼び出して、何も言わずに張り倒した。
「アンタ、最低だよ」
 健介は黙ったままだった。昇降口の下足箱のいちばん奥の列は、風が吹くたびにグラウンドから吹き寄せられた土埃が舞い上がった。
「そんなこと、胸張ってやってるの? なら私を連れて行きな。行けるでしょ」
 小声で何か言っている。
「できない」
 そう聞こえた。もう一発殴ろうとしたとき、拳で目を拭った。
「桜は渡さない」
 洟を啜る音がした。
「じゃあ華英や芹菜なら渡してもいいのか? ふざけるな」
 下足箱を蹴飛ばしたいのを必死で堪えた。授業は始まっていたが、健介と私が教室からいなくても周りは意味ありげに目配せをしてそれっきりだろう。
「桜は、渡さない」
 こちらを見下ろす目は涙目になっていた。
「はあ? 何言ってんだ。女の子を差し出してご機嫌取りしてるやつが」
 私に何を言われても健介は言い返さなかった。タイミングの悪いやつだ、と思った。
 それから一ヶ月ほどして、健介が入院した。バイクで転んだ、と言う。昌人たちとお見舞いに行くと、ベッドの上の健介は包帯だらけの顔で微笑んで、ギプスをした左腕を上げた。他の連中が気を利かせて先に帰ったあと、病室でふたりきりになった。
「ケジメ、つけたから」
 シーツに目を落とした健介の顔は、包帯越しでも大きく腫れ上がっているのが判った。一八〇近い体軀で、ひたすら耐え続けたんだ、と思う。病室のにおいの中で、うなだれたまま時間が過ぎた。

              〇
 中学三年になった。健介たちもそれなりに進路について心配し始めた。健介は工業高校で、昌人や政道は市街地の私立高校、華英や芹菜は看護系の高校を目指すという。
 家の周りでときどき、悠斗のママと擦れ違うことがあった。挨拶すると、何も言わずこちらを見る。髪を染めてスカートを弄った私を見て、ああやっぱり、とでも言いたげな顔だった。
 中学の授業は、下位の生徒に合わせて進む。一時間の授業で意味のある内容は五分程度だ。見切りをつけた秀才くんたちは授業を聞き流して塾へ行く。中位の子たちは退屈している。下位の子たちは聞いてはいない。誰のためか分からない授業が今日も続いている。
「津原高校へ行くよ」
 私は市内一の進学校の名前を上げて宣言した。口笛を吹き鳴らして、桜なら行けんじゃね? おもしれーよ、絶対受かれ、と言われた。おそらく内申書の行動とか人物とかの評価はマイナスだらけだろう。受かるためには、文句なしの成績を取るしかない。
 先生たちには反対された。三番手高校なら入れるから、と説かれたけれど、無視した。この中学校への最後の嫌がらせのつもりだった。あいつらはろくな人生を送らない、と暗に名指ししていた問題生徒が、可愛い可愛い生徒たちを押しのけてトップ校に合格するのだ。私は勉強を始めた。もともと授業内容は聞くだけで憶えていた。問題演習をしながら記憶内容を整理するだけで成績は急上昇した。塾で実施される県内統一模試には髪を染めたまま参加した。秋口になり、ぼやけた顔で進路変更を勧めてくる担任に模擬テストの成績を見せると、何も言わなくなった。県下で9位、学校別では2位だった。とりあえずあと一人をぶち抜く。その目標は、最後から二番目の模試で果たされた。

 入試を迎えた。筆記試験は正直、間違えた箇所はないと思う。面接は染めた髪のままで臨んだ。理由を訊かれたので「私は中学三年間この恰好で通してきました。従ってその恰好を偽らずにお見せすべきだと思いました」と答えた。面接官同士が囁き合ったあと、「本校ではその髪は校則違反になる」と言う。「もちろん合格の暁には貴校の校則は遵守します。それが当然だと思います。万が一不合格でしたらこの恰好のままでいます。宜しくお願いします」一礼すると、面接はそれで終了になった。
 一週間後、合格発表掲示板に私の受験番号があった。その足でいつもの美容室に行き、こうオーダーした。
「黒染めして、なるべくダッサいショートにしてください」
 馴染みの美容師さんは声を殺して笑った。そういうオーダーは初めてよ、と言いながら小声で「津原に通ったんでしょ、おめでと」と囁いた。
 できあがった顔は、我ながら子どもっぽかった。ハニースイートの夕暮れを思い出す。鏡に映った姿がすこし潤んだ。

              〇
 津原高校に入ってから、毎日、悠斗の家の前を通ってバス停まで歩く。悠斗のママに会うと、微笑んで「こんにちは」と挨拶する。ママは笑顔で挨拶を返していたが、一週間ほど経つと笑顔が曇るようになった。黄砂のかかった空は、それでも春の陽射しを届けていた。
 高校の授業は静まり返っていた。しかも全員が予習・復習をやってきている。冗談に思えたが、乗ってみるのも悪くない、と思った。四月下旬の担任面接で、医学部志望なのか、と訊かれた。文系です、と答えたものの、そういう目で見られていることを感じた。
 七組の女の子たちとは無難に仲良くなった。出席番号順の席で、私の前に座っていた女の子は金髪だった。何だか負けた気がしていたけれど、自己紹介で振り向いたその子は言った。
「ウェリット夏菜子です。父がイギリス人です。不良ではありませんので、期待しないでください」
 ウェリットちゃんとはその日のうちに友だちになった。肌理の細かい肌に、青い眼、金髪、そして私と同じくらいの長身だった。はにかむような笑顔で、見ているうちに思わずキスしたくなる。私でさえそうなのだから、男の子たちはさぞたいへんだろう。三歳のときから日本在住で、見かけを除けば日本の女の子だった。
 可愛らしい顔立ちから、男ともだちくらいいくらでもいそうだけれど、付き合ったことはない、と言う。「相手を選んだ方がいいよ」中学の時の経験から真剣に言うと、ウェリットちゃんは「ちゃんと桜に見て貰うから大丈夫」と笑った。
 女の子の友だちと一緒に過ごす日々が続いた。一月の下旬だったと思う。ウェリットちゃんが珍しく相談があるという。
「好きな子ができた。一組の間部悠斗くん」
 はい?
 国立大附属中学から来たらしい。子どものころからテニスをやっていて高校入学と同時にテニス部で活躍している。今年はあと一歩でインターハイを逃したけれど来年は確実だ、と。性格は穏やかで顔立ちもいい、と。
 そうですか。
「バレンタインに告白するから、桜にも会って欲しいの」

 ウェリットちゃんが日増しにきれいになって行くのを、砂袋になった気分で見つめていた。そばにいるだけで我を忘れそうになる。健介が誰かを床ドンしたときもこういう気持ちだったのか、と思う。自制心の強さを拝みたい気がした。
 バレンタインデー当日は、悠斗の周りにひとが多過ぎて、チョコレートは渡せなかった。落ち込むウェリットちゃんを叱咤激励して、翌日、家の近くのバス停まで連れて行き、そこで手渡しした。悠斗は私を見て顔色を変えた。ウェリットちゃんの渾身の告白を穏やかに聞いて、連絡先を交換し、別れた。その場に崩れそうなウェリットちゃんを抱きかかえる。「言えたよね、私、言えたよね?」うんうん、がんばったよ、と言うと、涙をこぼした。真っ白な頰に伝うしずくは息を呑むほどきれいだった。
 一週間後の金曜日、上鳥山公園で会うことになった。
 当日になって、ウェリットちゃんの様子がおかしい。「行かない」と言う。理由を訊いても答えない。
「桜が代わりに行って」
 そういう大事なことは自分で行かないと駄目だよ、と言ったけれど、「桜、お願い」とだけ言って涙ぐんでいる。悠斗に聞きたかったけれど、私はメールアドレスも知らなければLINEにも加わっていない。時間は迫っていた。

              〇
 降りしきる雪の中ではさまざまなものが見える。居もしないものや踊り出す樹木。
 人影が近づいて来たときも、それが悠斗だと分からなかった。
 髪や肩に降りかかった雪を払いながら、お待たせ、と言う。
 言わなければならないことを言う。隣の切り株椅子に座ったところで口を切る。
「ウェリットちゃんの告白の答えを聞きに来たよ」
 手のひらで顔を擦る。最後に鼻を啜ってこっちを見た。目許は変わっていない。頰がすこしこけて男の子らしくなった気がする。
「断った、電話で」
 身体が熱くなる。振り払うつもりで、どうして、と叫ぶ。
「もう付き合っている子がいるとか?」
 首を横に振る。軒の外を舞う雪のおかげで頭がくらくらしてくる。睨みつけている悠斗の顔がしだいにぼやけてくる。
「なら、ウェリットちゃんと付き合えばいいじゃん。言っちゃあなんだけどめちゃめちゃいい子だよ」
 耳元が締め付けられる。私は悠斗に嘘をついたことがなかった。目尻までがぴりぴりと痛む。
「好きな子がいる」
「へえ。まさか私とかいう落ちじゃないよね」
 語尾が震えていたのは寒さのせいだ。だから悠斗の目が優しくなったのは気のせいなんだ。
「よかった、分かってたんだな」
 薄暗くてよかった。雪のせいで視界がちらちらして、互いの顔がはっきり見えなくてよかった。切り株椅子の角を摑む。どれだけ力を入れても微動だにしない。
「桜が居るのは四月から知ってたよ。でも、あんなことがあったし、それにもしかすると他に好きなやつができたかもしれないって思って、いままで黙ってた」
「ぶってもいい?」
 顔全体が脈打っているみたいだ。どうぞ、と顔を差し出されて、手のひらで軽く触れる。指先が融けそうに熱い。
「私が中学時代、どうだったか知ってるよね」
「うん、ママから聞かされてた」
 無言で睨みつけて来た顔を思い出す。
 手の甲に雪片がとまる。ちいさなしずくになったあとも、どこからか拾ってきた光を宿し続けている。
「ずっと好きだったんだ」
 胸から顔にかけて鼓動が伝わる。座っていてよかった、とぼんやり思う。高校に入って初めてできた友だちの顔を思い浮かべる。可愛くて、性格もよくて、替われるものなら替わりたい、と何度も思った。あの子と付き合う男の子がどれだけ幸せか、想像するのも怖かった。
「いつから好きだったの」
 言葉がちゃんと出ているかわからない。雪が静かに吸い込んで行く。
「最後に、ここで会った日」
 こめかみを針が真横に刺し貫く。あの日、具合を悪くして、会うことを禁じられたのだ。
「桜がぼくのいちばん好きなものを用意してくれた。誰もそんなことを気にしてくれなかったのに。叱られても、ぼくが欲しがっていたとも言わずに庇ってくれた」
 怖かったんだよ、と言いそうになる。怖かったから、言えなかっただけだ。本当ならちゃんとママに話して、好きなものを少しは食べられるようにすればよかった。そうすれば、悠斗のママだって、私を目の仇にして自分を保たなくてもすんだかもしれないのに。
 六年近く、何もしないでいたのは私だ。無理やり冷ました顔を上げる。
「やっぱり、やめよう。悠斗を危ない目にあわせたくない。ボコられるよ」
 雪が東屋の屋根を打つ音が耳鳴りみたいに聞こえる。
「健介のこと? なら大丈夫だよ」
 悠斗の声が、急に大人びて聞こえる。声変わりしたんだ、と思う。
「小学校のとき、ちょっとテニススクールで顔見知りだったんだ。あいつ、すぐやめたけどさ。あの子に電話して断ったあと、街で会ったんだ。中学校のことも聞いてたんで『桜と付き合うから』って言ったら、笑ってたよ」
 背中が熱くなる。あのばか、恰好つけやがって。ひとがこんなに大恥かいてまで頑張ってたのに。
「でもさ、最初のキスはやっぱり、初めての子がいいんじゃない? 私、無理だから」
 全力のパンチと引き換えに、唇を押しつけられたのは中二のときだった。顔を剝ぎ取って投げ捨てたい気がする。
 悠斗がちいさく頷く。
「いや、それ、ぼくも無理」
 理不尽だとは分かっているのに目の中で何かがちいさく弾けた。六年も会わなければ何があっても不思議じゃないのに。
「最後にあった日、憶えてるかな。サンドイッチ食べて、そのあと公園の中、散歩したよね。あそこの桜の木のところ」
 指差す先は雪で霞んでいた。
「枝につぼみがいっぱいついてて、まだ咲きそうになかった。そうしたら、早く咲くように、って桜が息をはあって吐きかけたんだ。何度も何度も吐いているうちに眩暈がしたのかくらっとして。地面に倒れる手前で抱き留めたけど、ちょうど顔が目の前にあって、それで。それが初めてだったから」
 指先で触れた耳朶が熱い。もうどうなってもいい気がして、笑いがこみ上げてきた。雪がさらに激しさを増す。ひとしきり笑ったあとで、悠斗に向き合う。
「ひどいね。変態だね」
 悠斗は黙ったままだ。ここで「ごめん」なんて言われたら張り倒すところだけれど、要らないことを言わないのは昔のままだ。
「そんな変態にウェリットちゃんは任せられないね。責任もって、私が番しとかないと」
 ウェリットちゃんの顔が浮かぶ。ほんとうにごめん。何度でも謝る。謝るけど、譲れないよ、ごめんね。
 雪が積もり始めていた。東屋の周囲が白くぽくぽくに変わっていく。おさとうみたいだった。見境なしに五つもカップに入れちゃって。見る目ないんだから。後悔しても知らないからね。

 喉から胸にかけて、不規則に痙攣している。ああ、私はずっと泣いていたんだ。足元に吹き込んできた雪が、しずくに触れてついと融ける。
              (了)
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