能無し
男は、イエスマンと呼ばれていた。
同僚にも、顧客にも、妻にさえ侮られ頭を下げ続ける毎日。時には客の壊した品物のせいで売上が合わぬと同僚に怒鳴られた。またある時には同僚の失態を取り戻すべく行かされた接待現場を妻に目撃され逃げられた。離婚の際提示された多額の慰謝料にも、当然のように男は「イエス」と答えるのだ
った。
男はだんだんと心を病んでいった。そして、それと比例するようにピアノにのめりこんでいった。幼いころの手習いで基本的な技能は有していた男であったが、この頃になると家にいる間は寝食も忘れて鍵盤をたたき、職場では右手の親指と中指で机をはじきながら、「一音足りない」とそう呟いてばかりいた。
男のようすは大変不気味であった。社の人間には煙たがれ、あることないこと妙な噂が立った。
とうとう、彼は会社を解雇された。不況のあおりを食らったその小さな会社の、体の良い厄介払いであった。
職を失い、やがて心の支えのピアノまで差し押さえられた男が向かったのは近所の楽器屋だった。
「一音足りない。一音足りない」そう言いながら展示用のピアノを狂ったように演奏する姿は話題となった。彼のまわりに集まる客は彼の音に酔いしれ、ふと何かを思い出したかのように慌てて店を飛び出す。そして不思議そうな顔でまた店内へと帰ってくるのだ。まるで、たった今思いついた何かを忘れたとでも言うように。
しばらくして、ぶつぶつとひとり言を唱えながら奇妙な曲を弾く謎の客はその店を出入り禁止になった。
楽器屋の店員によると、謎の客が来店するようになってから、ある者はジャズ奏者として大成しようと思い立ち、十万もするサックスのケースを買ったところでふと我に返ったという。ある者はとある国の軍隊に志願し、数日後慌てて取り下げたという。またある者は、ズボンの後ろポケットに拳銃を仕込んだまま大統領の演説を聞きに行き、何もせずそのまま帰ってきたのだと匿名SNSで大げさに吹聴してまわった。ある日突然、殺人衝動が湧いたのだと。そして誰もが口をそろえて、それもこれもあの謎の客のせいだと言った。
弾くべき鍵盤を失った男はある崖の上に立っていた。とある目的を実行する場所として有名なそこで、男は焦点の合わぬ目で「ミ、ド、ミ、ド」と呟いていたが、やがておもむろに懐からナイフを取り出し自らの頭に突き立てた。男はしばらく千鳥足をもって足元の土を削り、真っ逆さまに海へと吸い込まれていった。
男の最後の言葉は「ド、ミ」であった。
その手についた脳漿がくうちゃりくちゃりと音を立てる様子を嬉しそうに見つめながら彼は沈んだ。崖の上に残された血痕は、まるで「ノー」と書かれているようにも見えた。
ちょうどその頃、とある国のとある子ども部屋で、男児の作ったドミノが軽快な音を立てて倒れだした。倒れるドミノを目にしたとある男は街頭で資本主義を批判する演説を垂れ、とある男がそれを拳銃で撃ち、またとある男は軍隊を引き連れてそれを私刑し、それに反発してSNSで集った団体と彼の軍との抗争は世界中に広まっていった。
力を持たない人間たちの希望は、もはや、とあるジャズサックスアーティストの奏でる明朗なメロディと、来世に期待し自らの頭をナイフで貫くことしか残されていなかった。