*――創文板 将棋祭――*
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サイダー
大沢愛
投稿時刻 : 2013.11.08 06:21 最終更新 : 2013.11.10 18:51
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- 2013/11/08 11:25:07
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サイダー
大沢愛


 傾いた夕陽が街並みの影を長く曳いている。「松の湯」の前の砂利道は人が歩くたびに埃が舞い上がる。「東金製麵所」の屋根に夕陽が隠れてから、立ちこめる埃は見えなくなた。おかげで縁台の上の将棋盤は見づらくなたけれど、それは向こうに座ている今野さんたちにとても不利になる。丸顔に眼鏡をかけた今野さんが角頭に金を打てきた。逃げる。桂が利いていて、あとは角道が通ている。今野さんの金は立ち往生だ。縁台に置いた三ツ矢サイダーの瓶を取り上げる。びしりと水滴がついていた。王冠を外してひと口飲んで、元に戻す。「木ノ内縫製工場」の終業サイレンが、砂利道に面した長屋越しに響く。

「おう、遅かたな」 
 小学校から帰てくると、魚河岸から帰ていた父が声を掛けた。
 浴衣姿で縁側に座り、祖母の漬けた沢庵を肴に冷酒を飲んでいる。両肩の筋肉が盛り上がり、襟元から分厚い胸板が覗いていた。ランドセルを畳に抛り、運動靴を脱ぎ捨てる。
「海事研修の準備があたから」
 通ていた小学校では毎年夏に五年生が泊りがけで海辺の町へ行く。水泳はもちろんカター漕ぎや地引網を行ない、夜には浜辺でキンプフイヤーが開かれる。近所のタナキやトオヤはこそりと爆竹を用意していた。夜中に屋根の上から投げるつもりなのだ。バレたらただではすまない。紙玉に火をつけて庭に投げて援護する手はずはできている。屋根に登らなかた意気地なし、の汚名を着せられないためにも十枚は用意しなければならない。母に言てもこづかいの増額は無理だ。かすかに期待を持て、父の顔を窺う。
「あのさ、父ちん」
 父の額から汗の玉が落ちる。下唇から顎にかけては髭に覆われている。コプに残た日本酒をひと息で飲み干す。シーシーと音をさせながら立ち上がる。
「よ、健太。風呂に行くぞ」
 大声で言う。台所にいるはずの母は何も言わなかた。タオルと着替え、それに石鹸が二人分、縁側の隅に並んでいた。
 玄関を出て、まだ日の高い道を歩く。近所の家ではまだ父親は帰てこない。うちの父は朝が早い。三時か四時には起きて出かけてゆく。そのかわり、昼過ぎにはもう帰てくる。小学校に入るまではそれが当たり前だと思ていた。会社に勤めている父親は夕方に帰てくる、というのが分かてからは、縁側で酒を飲んでいるか座敷で大の字になているかの父がなんとなく恥ずかしくなた。それでも、まだ日の高いうちから一緒に銭湯に行けるのは嫌ではなかた。タナキやトオヤと遊んで遅くなたときには三人で行く。女湯を覗こうとして怒鳴られたり、フルーツ牛乳を白牛乳に見せかけて十円ごまかすのは楽しかた。でも、子どもだけで湯船に浸かていると、どことなく肩身の狭い思いがしてくる。父の大きな身体のそばにいるときには、自分もひと回り大きくなたような気がした。
 砂利道を銭湯の前まで歩く。こづかいの話をすると、父はふん、と言たきり黙た。「松の湯」の向かいには駄菓子屋があり、縁台が出ている。ふだんは子どもの遊び場だたが、陽が傾いて来ると大人に譲らなければならない。たいていは金物屋の今野さんが将棋盤と駒を持て来て、将棋大会になる。対戦相手はいろいろだ。わざわざ駒を持参するだけあて、今野さんは強かた。五百円札を賭けての将棋で、見物するひとも出て来る。
「佐野さんよ、やてくかい」
 父の顔を見た今野さんが声を掛ける。もしかすると、と思う。父がぼくの肩に手を載せる。
「もちろんだ。ただし、ちとヤボ用があるんで、息子を代打ちさせるぞ」
 今野さんに言いながら耳元で囁く。
「二時間稼げ。そうしたら今日のぶんの五百円をやる」
 黙て頷く。父は笑顔になり、駄菓子屋に入て三ツ矢サイダーを一本買て、ぼくに渡した。子どもはふつう、ラムネしか飲ませてもらえない。量も多くて高価なサイダーはお客用だ。それを一人で飲んでもいいというのは本来なら破格の扱いのはずだた。冷たい瓶を頬に当てながら、縁台に腰を下ろした。
「じ、がんばれな」
 そう言い置いて父は砂利道を真直ぐに歩いて行く。肥満体の今野さんはタオルで肩から胸にかけての汗を拭きながら駒を並べ始めた。

 ぼくが物心ついたころから、父は縁台将棋をやていた。銭湯そちのけで将棋に熱中する父のそばで、じと駒の動きを見ていた。王を取られたら負け。飛や角は強力な武器、金はオールラウンダーで銀は曲者。桂や香は意外に使いにくい。見ているうちにだんだんわかて来ると、そのうちに勝敗の流れが見え始めた。あるとき、父が打とうとしたところでつい言てしまた。
「それだと負ける」
 父は怪訝そうな顔でこちらを見たが、今野さんは険しい顔になた。
「じ、どうすりいい」
 父の言葉に、僕は言た。
「7三銀」
 その日、父は今野さん相手の連敗を脱出した。将棋が終わり、汗まみれの身体で銭湯に駆け込む。上機嫌の父は、初めて三ツ矢サイダーを飲ませてくれた。いつものラムネの倍はある。おかげで晩御飯があまり食べられず、母に叱られた。
 それからは縁台に向かう時には必ず、父の隣にはぼくがいるようになた。勝負どころになると父はぼくの顔を窺う。今野さんは顔を顰めて、他人の力を借りねと勝てねのか、と言た。その時、父は縁台を叩いて怒鳴た。
「これは俺の息子だ。俺の一部に聞いて何が悪い」
 埃ぽい砂利道で長々と続く将棋が、初めて好きになた。
 五月に入たころからだた。父はぼくに将棋の大部分を任せるようになた。
「真打は最後に登場するもんだ。それまでは前座の仕事」
 そう言て、いつもは風呂上りに買てくれる三ツ矢サイダーを渡してくれた。
「じ、小一時間で帰て来るんで、よろしく」
 父の姿が消えてから、ぼくは苦虫を噛み潰した顔の今野さんと向き合た。周囲の大人たちは囃し立てたが、表情は変わらない。小声でぼそりと言う。
「あのな、ボウヤ、負けたらトウチンじなくてボウヤに払てもらうからな」
 今野さんは縁台の上に胡坐をかいた。大きめの猿股から中身が覗くのをときどき指で収め直す。飛車口を開けて、隙間の空いた陣形を破て侵攻する。今野さんは駒音が大きい。音が繰り返されるにつれて、表情は引き攣て来た。
 父が戻て来た時には今野さんは将棋盤を畳んで帰ていた。父はあたりを見回してタオルと着替えを持ち直す。今野さんにもらた五百円札を目の前に広げてみせる。父は言た。
「早過ぎる。もうちとゆくりやれねのか」
 父の身体は銭湯に入る前なのに汗のにおいがしなかた。そのまま向きを変えて「松の湯」に入て行く。折り皺のついた五百円札を持て余したまま、ぼくはしばらく砂利道に立ち尽くしていた。

 それからだた。父はぼくに縁台将棋の代打ちを命じるたびに、時間を指定するようになた。たとえ相手がどんなに弱くても「二時間」と言われれば二時間、引き延ばさなければならない。指定された時間になると父は必ず現れて、最後の数手を打て勝ちを収めた。五百円札は父の懐に消え、ぼくには三ツ矢サイダーが与えられた。
 何度も飲むうちに三ツ矢サイダーには飽きてきた。バリースオレンヂかコカ・コーラが飲みたい気もした。それでも、急に飲み物を変えてしまうと験が変わて決められた時間を守れなくなてしまうかもしれない。そう思うと、刺激と甘みしか感じられなくなても三ツ矢サイダーを飲んで盤面に向かうしかない。
 戻てきた父はいつも柔らかい匂いがしていた。母の布団にもぐりこんだ時の匂いに似ていたけれども、どこか違う。トオヤの家には歳の離れた兄貴がいて、奥さんを迎えていた。遊びに行たときに、間違えて奥さんの部屋に入たことがある。母の部屋とは違う調度のなかに、何とも言えない甘い匂いがしていた。少し似ている気がした。
 父がどこに行くのかは分からなかた。仕事場の魚河岸にしても、ぼくは行たことがない。ただ、戻てきて対局を交替して打ち終えたあと、どこか気の抜けたような顔をしているのは気になた。将棋に勝つことは、父にとてそれほど重大なことではなくなていた。それでも、負ければ五百円を払わなければならない。五百円あれば、中華そばなら十杯は食べられる。父が毎日稼いでくる日銭にはそれほど余裕はないはずだた。ある時、いつものように「松の湯」の暖簾をくぐろうとした父が何かを落とした。拾い上げてみる。今しがた、対局相手から巻き上げた五百円札だた。ポケトに入れて、男湯に入る。父はいつものようにお湯を頭からかぶり、湯船にゆくりと入ていた。銭湯から上がり、暗くなた砂利道を並んで歩いた。縫製工場の女工さんたちが汗の匂いをさせてすれ違てゆく。父はうるさそうによけながら、石鹸箱を鳴らしてみせる。五百円札については何も聞かれなかた。電線の隙間に浮かんだ月は、脱衣場の明かりよりも暗かた。

 小学校からの帰りが遅い日が続いた。家に帰ると、母が台所で明りもつけずに夕ご飯の支度をしていた。ぼくの方を振り向きもしないで、父は銭湯からまだ帰らない、という。タオルと石鹸を持て暮れなずむ砂利道を走た。駄菓子屋の前の縁台には今野さんが、見慣れないおじさんを相手に将棋を指していた。「松の湯」に入る。脱衣場の籠を見る。父の縞柄の猿股はない。浴場に入る。湯気に覆われた中に浮かぶ赤ら顔をひとつひとつ見つめた。父の顔はなかた。身体を洗うのもそこそこに湯船から飛び出し、服を着て外に出る。薪を燃すにおいの彼方に、見慣れた背中があた。父だ。小走りに追いつく。タオルと石鹸箱を抱えて歩いている。声を掛けられず、歩みを緩める。角の電柱の向こうに背中が消える。ぼくはそのまま立ちどまた。振り返る。縁台の人影はもう見えなくなていた。

「二時間、な」
 囁いて、父は縁台を離れた。今野さんは隣におじさんを従えている。丸刈り頭で薄い唇を尖らせて、ときどきヒウ、と音をさせた。
「久米さんは将棋のアマ段位を持ているからな。しかも俺の幼馴染で、兄弟みたいなもんだ」
 いつもはぼくの顔を見るたびに嫌そうにしていたのが、ひどく余裕ありげだた。父は久米さんと今野さんが組むことについて、何も言わなかた。父にとては勝負がつくまでの二時間が何よりも大切だた。その二時間のあいだ、ぼくがなぶりものにされて敗北したとしても、ふん、の一言で終わるだろう。駒を並べ終えて、今野さんは迷わず先手を取た。耳元で久米さんが何か囁いている。ぼくが一手指すたびに、馬鹿にしたように尖らせた唇を鳴らした。
 三ツ矢サイダーを口に含んだ。口の中がぴりぴりと痛む。一手指すたびに、瓶の表面を指で撫で、水滴を指先に広げる。
 久米さんの入れ知恵のおかげだろう。今野さんの打ち筋は冴え渡ていた。一手見落としたぼくは飛車を献上することになた。将棋盤の向こう側に、さきまでぼくの陣を守ていた飛車が置かれている。ふやけた指先で王冠に触れて、小さく切てしまう。口に含むと、鉄錆の味がした。このまま負けてしまえば二時間はとても持たない。
西日が電信柱の上を照らしている。将棋を指しているあいだに時計を見たことはない。二時間はどれくらいの時間なのだろう。今野さんを相手に充分に守りを固めた上で反撃に転じ、詰め切るとほぼ二時間だた。負け将棋の時間は分からない。今野さんに耳打ちした久米さんが、唇を笛のように鳴らす。
「大丈夫だよ。トウチンの言う通り、二時間かけて負けさせてやるからな」
 今野さんが声を上げて笑た。おやじさんがはりきるのには充分だろう、と呟く。
 盤面を見る。二時間かけて負ける譜面は思い描けない。ぼくにできるのは、二時間かけて勝つことだけだた。崩れた陣形を繋ぎ合わせる。取られた飛車の先端がこちらに突きつけられていた。

 薄暗くなた縁台に一人で座ていた。砂利道に目を落として、通り過ぎる足元を見つめる。埃だらけの下駄だたり、破れた靴だたりした。電柱から伸びた電灯が黄色く見える。
「健太、どうした」
 顔を上げる。父だた。右手にはきちんとたたまれた着替えと乾いたタオル、それに石鹸箱が載ている。ぼくの右手には三ツ矢サイダーの空き瓶が握られていた。
「将棋、どうだた」
 駄菓子屋はもう雨戸を閉めていた。空き瓶を入れる箱も仕舞われている。
「勝たよ」
 あれだけ水滴にまみれていた表面はすかり乾いて、生温かかた。
 久米さんは途中から、縁台を離れた二時間の間、父がどこで何をしているのかをまくし立てた。周囲に集また人たちが制止しても止めない。ぼくはただ、指し続けた。久米さんの言うことは半分も分からなかたけれど、父が軽蔑されることをしているのだけは分かた。それでも指し続けた。久米さんの言葉に周囲から遠慮のない笑い声が挙がるようになても、ぼくは指した。王手がかかても、まだ何か言おうとした。次の一手は指されない。無意識に三ツ矢サイダーの瓶を摑み、瓶底を縁台に叩きつけた。大きな音がして、衝撃で駒が跳ね跳ぶ。ひとこ唇が鳴りやんだ。今野さんはしばらく言葉を失て、こちらを見つめる。我に返たように五百円札を差し出し、将棋盤を片づけて去て行た。砕け散ても構わないと思ていたのに、三ツ矢サイダーの瓶には罅ひとつ入ていない。
「お前は強いなあ」
 ぼくの頭を摑んで揺さぶる。いつもは頭を握り潰すほど強い手のひらが、なぜか虚ろに骨張ていた。何も言わずに黙て座ていた。
「遅くなたな。風呂に入ろう」
 そう言て、暖簾に向かて歩き出す。汗臭い父は久し振りだた。夕闇の空気は埃のにおいがした。暮れ残る空に煙突の煙が立ち昇る。砂利道を歩く人の影に、父の背中が見え隠れする。縁台の上に三ツ矢サイダーの瓶を丁寧に置いて、立ち上がてあとを追う。

                            (了)
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