子供時代
直子お姉さんが僕の前に現れたのは、小学四年生のときだ
った。お姉さんは僕のお母さんのお姉さんにあたる伯母さんの子供で、親元を離れて僕らと一緒に住むことになったのだ。何故そうなったのか、詳しい理由は教えてもらえなかった。一緒に住むことになったから、というお母さんの一言の説明だけで。直子お姉さんと僕は、七つ歳が離れていた。
お姉さんの第一印象は、おかしなくらいしっかりした人だった。
伯母さんが黒光りする自動車を僕らの家の前に停めて、「じゃあよろしく頼むわね」と一言声を発し、お姉さんとそれに付随する荷物をぽいと捨てるように道端に置き去りにした。そんなことがあった直後なのにお姉さんは凛として、「これから少しの間お世話になります」と淀みなく僕らに挨拶したのだ。そのとき、まるで先生が家庭訪問に来たような居心地の悪さがしたのを僕は覚えている。
お姉さんには、家の空きとなっていた一室が割り当てられた。元々、将来生まれてくるはずだった僕の妹が使う予定の部屋だった。
僕は最初しばらく、お姉さんとはあまり口を利かなかった。僕は昔からよく人見知りをするタイプだったし、お姉さんをこの家に対する侵略者みたいに思っていたから。またお姉さんもあまり話をしようとしてこなかった。僕とだけじゃなく、お父さんやお母さんに対しても。群れを外れてなお孤高でいようとする一匹狼みたいだった。
お姉さんに対する印象が変わる切っ掛けになったのは、習い事の剣道での帰り道のことだ。
僕は毎週水曜日と木曜日に、自宅から少し離れた警察署の剣道教室に通っていた。学校が終わってから支度して、だいたい午後6時くらいに帰路に就く。僕は寄り道するほうじゃなかったので、コースは決まっていた。路地をとことこ歩き、鳩の糞の跡が酷い電車の高架下を通り、ドーム状の滑り台が真ん中にぽつんとあるだけの殺風景な公園の前を通り、家に着く。まだ夏の暑い時期を少し過ぎた頃で、千切れた雲と、本当に焼けたような色が空に広がっていた。
僕はその公園で、初めて家の外で活動するお姉さんを見た。セーラー服を着ていた。それは朝でも目にする姿でとくに珍しくもなかったけれど、その姿で球蹴りをしていたのだ。サッカーどころかフットサルだとしても人数が足りていないし、何よりゴールがあるのかすら分からない。ただ、僕と同じかそれより少し小さな少年達と、必死になって球蹴りをしていた。セーラー服が汚れることも、スカートが振り乱れるのも構わないぐらい真剣だった。そして僕が観察している限り、お姉さんがボールを操っている間は、一度もそれを奪われることはなかった。
僕は立ち止まり、お姉さんと少年達を見入られたようにじっと見つめていた。お姉さんが顔を上げ、僕と目が合う。
お姉さんは「しまった」という顔をこちらに向けた。お姉さんが狼狽する顔を見たのは、後にも先にもその一度きりだ。少年達が間もなくお姉さんの様子に気づき、その原因と思わしき僕のことを一斉に見た。僕は非難されているような気がして、その場を一歩も動けなかった。
不意にお姉さんの顔に、ぱっと笑顔が咲く。
「勇樹くん! 一緒にサッカーしようよ!」
僕はかぁっと頬が赤くなっていくことが分かった。名前で呼ばれたのはそのときが初めてだったのだ。むず痒くなった僕は、一目散に逃げ出した。お姉さんの「あっ」という声が聞こえたけど、聞こえなかった振りをして。
その日を境に、お姉さんの態度は変わっていった。僕だけじゃなく、お父さんやお母さんに対してもだ。だけど一番大きく態度を変えられたのは、やはり僕だった。
お姉さんは必死になって僕の気を引こうとした。僕の服についた糸くずを取ろうとしたり、ピンと跳ねた僕の癖毛を直そうとしたり。数少ないお小遣いで買ってきたお菓子を僕に渡そうとしたり、一緒にゲームをしようといってきたり。僕と仲良くしようと言うよりは、僕を仲間に引き入れようと、必死になっていろいろ画策しているような……
そのくせゲームでは、一度も手を抜いてくることがなかった。
お姉さんは対戦ゲームが好きだったのだけど、毎回ぐうの音も出ないほどコテンパンにやられた。しかもそれはただ純粋に力を競うのではなく、あの手この手を使ってこちらを蹴落とそうとしてくるからタチが悪かった。
「もう嫌だ!」
レースゲームにてお姉さんがわざと順位を下げて僕にお邪魔アイテムをぶつけてきたとき、僕はついに怒ってコントローラーを放り出してしまった。
「ご、ごめん、勇樹くん……」
お姉さんは僕を怒らせると、いつもバツの悪そうな顔をした。本当に申し訳なさそうにするのだけど、それでいて毎回忘れたように意地の悪いことをしてくるのだ。しかも仲直りの方法として毎回何か食べ物を買ってくるというのだけど、必ずそのどれもが僕にとって大変魅力のあるものだった。小学生の時分は、何でも大抵のものは欲しいと思うのだろうけど……
しかし僕は昔から自分でも認める強情で、たとえ相手が魅力的な提案をしてきたとしても、素直にそれを受け入れられないのだった。
お姉さんはいつも俯くと、毎回決まった文句を口にした。
「勇樹っていう名前、私好きだな。ふつうユウキのキって、気力とか気合いの気で書くじゃない? だけど樹木の樹って、なんていうかさあ……勇ましく立っている一本の木。そうイメージしちゃうんだよね。ただ一つそこに、自分を持ってじっと立っているの」
いつかお姉さんは僕に笑顔を向けて、「君にぴったりの名前だ」と言葉を付け足した。お姉さんはどうやら、人の名前を褒めることが人を褒める最大限の言葉だと思っているらしかった。そしてそれは、少なくとも僕に対して効果はあった。僕はそのように自分を褒められると、お姉さんのことを嫌ってはいけない、何だか天を味方につけられたような、どうしようもない気分にさせられるのだった。
僕らはそうして幾度かの衝突と仲直りを繰り返し、共に過ごす時間は少しずつ長くなっていった。
僕がお姉さんについて分かったのは、普通の人と変わっているということだった。他人と違うものを好むというよりも、他人が既に卒業しているものを好んでいる。単純に一言で言えば「子供っぽい」で済むのだけど、そこには子供心に僕らとは違う、何かの哀愁が漂っているように僕には感じられた。ふたりで子供向けアニメ映画を見に行って、ある女の子が別世界に行き色々な人と関わって、最後は戻ってくるという物語だったのだけど、エンディングのシーンでお姉さんはぼろぼろと涙を流し泣いていた。このまま全身の水分が出きってしまうんじゃないかと思うぐらい、凄まじい泣き様だった。同じ会場でもう一人、孫を連れてきたと思われるお婆さんも泣いていた。子供向け映画がたまに大人の心を打つことがあるけれど、お姉さんにもどこかそのような、老幼交わった歪な感受性を秘めているように思われたのだ。
僕にとって小学四年生、お姉さんにとって高校二年生の日々はそうして過ぎていったのだけど、学年が上がるとその様相は少しずつ変化していった。お姉さんが受験勉強するようになり、僕と過ごす時間が減っていったのだ。もちろん一日中顔を合わせないわけじゃなく、食事中のときとかはまるで本当の家族みたいに一家で談笑したりした。だけどお姉さんは確実に自分の時間を作って部屋に籠るようになってしまい、それを邪魔することはとても憚られることのように思えた。それに相変わらず僕も強情だったので、お姉さんが僕に構ってこない限りは僕も構ったりしない、そういう不文律を課していたのだ。
「高校を卒業してもずっとここにいてもいいのに」とお母さんが言ったけれど、お姉さんの答えは「社会に出る前に、一度ひとりの力で生活してみたいんです」というものだった。お姉さんは奨学金を得て、自分ひとりの力で大学に通うつもりだったのだ。当時は一体何をやっているんだろうと思ったけれど、今となれば少しお姉さんの気持ちが分かる気がする。人の心は天変地異みたいに、どのような思いが去来するか……そしてやってきたものを受け入れるにしろ受け入れないにしろ、その影響を受けないわけにはいかないのである。
僕は前よりもずっと剣道に打ち込むようになっ