【BNSK】月末品評会 in てきすとぽい season 5
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カーテンのない部屋 ◆AvAB7qCJFc氏
投稿時刻 : 2014.08.02 22:16
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カーテンのない部屋 ◆AvAB7qCJFc氏
作品感想転載くん


 木島の部屋にはカーテンが無かた。そのため、向かいのビルからは部屋の様子がまるまる見通せた。彼はときおり思い出したように、遮るもののない大きな窓の方を見ることがあた。そうして、まるで動物園みたいだと思うのだた。羞恥心はもとより無かた。見られて恥ずかしいものなど、何も持ていない。
 木島には職が無かた。遠く離れた妻には、単身赴任だからと話していたけれど、二人で別居について話し合た秋の夜には、既に失職してふた月が経ていた。
32歳の夏、証券会社に勤める彼は、年相応の職位にいた。この先もずと、勤め続けるつもりでいた。ただ衣食の足りた生活を望んでいるだけだたが、ある日突然、彼のタガは外れてしまた。何がきかけだたのか、思い出すことももうないが、ちとしたきかけで彼の理性は彼の体を押さえつけていることができなくなた。それは事故のようなものだた。
気がつくと、彼は向かいに立つ人間の顎に向けて拳を放ていた。拳を食らた初老の男は、下顎を割られ、くず折れるようにして木島の革靴の甲に突伏した。
クマゼミが鳴く夏、油のような熱射が充たす空の下を10キロほど走たあとに、ぬるい麦茶を一杯飲み干すと、すぐにバンデージを巻きなおしてグローブとヘドギアをつけた。後輩の一人はスパーリングを終えて、ぐたりとベンチにもたれている。
「おい、いつまで寝てる」
木島は後輩の頭をグローブで小突くと、リングへと向かう。彼の拳は誰よりも硬かた。それが自分という人間を、他の人間と区別するひとつの印だたのだと彼は思う。

「遅くなりました。待ちました?」
「いや」
木島は壁の時計をちと見てから、そう答えた。2本の四角い針は午後8時すぎを指している。女は閉まる扉を小鳥のようにかわし、ヒールのある靴を脱ぐと、木島の部屋へちこちこと上がり込んでくる。黒いプリーツのスカートがひらひらする。
「もう飲み始めてました?」織部はオーク材のテーブルの上に立てられた2本の缶を見ながらそう言う。
「少しだけ」と彼は疲れたように答えた。それから、「ワイン、冷やしてある」と言て、冷蔵庫の方へ向かた。途中で、丁寧にマニキアの施された指先が、彼の脇腹に触れた。彼は何の反応も示さずに、ワインとスモークチキンを取り出してキチンへ行き、手早くコルクを抜いてしまうと、彼女へ向かて瓶を差し出した。
「グラスは、」と木島。「知てます」と織部は瓶を受け取り、食器棚を開ける。大きな平皿を取り出し、手渡す。木島はそれを受け取ると、振り返り、黙々と肉をスライスして皿に並べていく。

 25歳の織部は、屈託なく語た。はにかみもせず、ときどき目をしばたかせながら仕事の話をする彼女を見ると、木島は自分がどんどん老けて行くような錯覚に囚われた。うらやましいとは思わない。ただ、自分が弱くなていくのを感じるだけだ。
空調の効いた部屋は暖かかた。革張りのソフに並んで腰かけていると、織部は自然と心安らぐ気持ちになる。そのまま寝入てしまうこともしばしばで、そんな織部を眺めていると、木島は逃げ出したいような気分に駆られることがある。

「なんだか、動物園、みたいですね」と織部が切れぎれの声を漏らす。木島はそれには答えずに、彼女の腰の肉を一層強く掴む。彼の体のすぐ前方で、悲鳴のような声が上がる。柔らかいな、と彼は思う。
そこでは全てが見られていた。妻の不在の視線が、向かいのビルから差し向けられていた。たとえビルの彼らがその部屋にまたく注意を払ていなかたとしても、やはり不在の視線は木島を見ている。どのような行為の最中であれ、そのまなざしは彼の輪郭をけざやかに保ち続ける。

電話が鳴たとき、女は不安だた。どのような不可解な経路を辿るにせよ、きと自分の秘密は暴かれるのだと信じていた。彼女は唾を飲み込むと、左手を腹部に添えながら電話に出た。胃が痛むのだ。
「もしもし」
「久しぶり。二日ぶりかな? いま仕事から帰たところだよ。もうだいぶ寒くなてきた。君は?」
「元気」と彼女はそれだけ言てしまうと、ベドの縁に腰掛けたまま姿勢をわずかに変えようとした。シーツの上の大きなシミはまだ消えずに残ていた。
それから二人は夫婦らしい会話をした。食事、世間、最近観た映画などについて、親しげな声でささやき合た。二人の部屋は遠く隔たていたが、同じように薄暗くて、同じように汗の匂いに満ちていた。
二人の男女が辿た経路は、最初の一点で強く結び合わされた。二本の線は蛇行しながら、いくつかの点でまた接触した。それらはあるポイント、結婚という境を越えたところから、すこしずつ蛇行の幅を大きくした。二匹の蛇は互いに絡まり合いながら、どこまでも螺旋を描いて伸びて行たが、やがて接点を減らしていき、ついに別々の薄暗い一点に辿りついた。その傍らには、写真に誤て写り込んだ髪の毛のように、ふた筋の影がぼんやりと寄り添ていた。
二人の間に子供はいない。それはどちらのせいなのか、判然としない。偶然なのかどうかも分からない。ただ彼らは話し合いの末に、原因の追及を拒絶しただけだた。

 最後に木島の部屋をたずねた翌週、織部は銀杏並木の下を歩いていた。空は高く晴れ、肌寒い風が落ち葉を撫でている。黄色なものとわずかに青みがかたものとを無邪気に踏みちらしながら、彼女は駅へと近づいていく、マフラーの裾を軽くはためかせながら。目の前には川が流れ、そこには石造りの橋が架かている。
欄干に薄手のコートの両肘をついて、彼女は途中で買たあたたかい紅茶に口をつけるが、ほとんど味がしなかた。「無糖だからだ」と彼女は思た。ホと湯気を吐き出して、携帯電話を確認するが、大学時代の友人からのメールと広告ばかりで、木島からの着信はない。
「嫌われちたかな」と独り言をつぶやくと、その言葉はただ秋の空に溶けていて、誰にも聞かれることがなかた。

木島は土を掘ていた。
車を止めて国道沿いの林の中へ、黄味がかた街路灯を背に浴びながら分け入た。雲が高空の強い風に流されて、半月と星がちらちらしている。
木島は携帯電話の光を頼りに、その林の奥で、素手で穴を掘ている。昔、俺の拳は誰よりも硬かた、と彼は思う。それから一通り納得のいく大きさの穴を掘てしまうと、今度はその中にいくつかの小物をバラバラと投げ込んでいた。キーホルダーのついた合鍵、一眼レフで撮られた写真、プリペイド式の携帯電話……
穴を埋めてしまうと、彼はその手をシツでぬぐい、車の中に戻た。部屋はすでに引き払てあた。元々それほど物も持ち込んでいなかたから、彼の荷物はすべて数個の段ボール箱に押し込められて、後部座席に積んである。
妻の元へ戻るつもりはなかた。どこへ行く当てもなかた。ただ、いくばくかの貯蓄と、段ボール箱と、彼の肉体だけが残た。木島はエンジンをかけると、アクセルを踏み込んだ。黒い車体が静かに国道の流れに乗る。そして、その車はどこかへと走り去て、赤いテールランプが見えなくなるころには、月も星も、もう瞬いてはいなかた。

織部はカーテンの無い部屋の前に立ていた。間をあけて3度呼び鈴を鳴らしたが、3度とも何も応えるものはなかた。表札もなかた。それで彼女はあきらめて、キと踵を返すと、エレベーターに乗りこんで、その建物を出た。
外へ出ると、来たときと同じように冷たい風が吹いていた。その風が彼女のマフラーを再び自在にはためかせた。もう二度とここに来ることはないだろうと彼女は思う。そう思うと少し泣きたいような気持ちになた。しかし一方で、檻の中から突然解き放たれた動物のように、不定で、ささやかで、背信的な自由を感じてもいた。
「明日からまた仕事だ」
彼女は独りごとを言た。その言葉は風に乗て、どこかへと流れていく。
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