ディヴァイジョン ◆veZn3UgYaDcq氏
「全く、奴らの“脳”には不可解な挙動が多すぎる」
私の後ろで、彼はあきれた様子でそう呟いた。私がああ、と答えると、彼は視線を動かさず、ただ水の入
ったボトルを掴んだまま立ち上がった。彼がそう言うのも当然だ。ヒューマノイドの知性を向上させるための研究が切に望まれるからとはいえ、出口はおろか筋道すら見えない研究を続けていくのは不毛とすら思われる。
「姿形は我々とほとんど変わらないっていうのに、困ったものだ」
そう言って、私も同意する。彼は目の前にいる人型のそれを一瞥すると、ため息をついた。
人型のそれの頭部から伸びる無数のコードが、まるで髪のように肩に取り付けられた情報処理装置に向かっていた。それらを外したら、それの見た目は所謂スキンヘッド―単なる研究対象でしかないそれは人型であろうがなかろうが関係なく、敢えて髪を生やしておく必要もないからだ。
「食事の時間だ」
彼がそう発声する。同時に、食事の乗ったトレーを持ったもう一人が部屋に入ってきた。初めて見る料理が皿に盛られている。果たしてそれは、どのような味がするのだろうか。
***
人工知能の進展が目覚ましいと言われたのは、もう遥か昔のことになる。
従来、光コムを用いていた量子コンピューティングがオンチップで可能になることにより、小型・低駆動エネルギーでの大規模並列計算が実現され、計算神経科学の完成および任意多層クラスタリング式機械学習の進展とともに大幅に人工知能の性能が向上した、いわゆる「第7次人工知能ブーム」では、物理学者、脳科学者、分子生物学者、数学者、言語学者、思想家、政治家らを巻き込んで半ば熱狂的に研究が進められたが、米Xias社研究員のJ. L. Hughesらによる論文“Limit of Artificial Intelligence; a principle of Quantum Dynamics confines the competence ofMachine learning”により、量子力学に基づいた人工知能に限界があることが示されると、科学者たちの熱は急に失われていった。また同時に、不確定性によるノイズの影響でオンチップ量子コンピュータの高速化は頭打ちだとも言われ始めた。際限ない性能向上の道は失われたが、それでも示された上限値の性能が考えうる人工知能の用途に対して充分であり、かつ当時の量子コンピューティング技術で概ねその性能を実現可能であることが分かると、代わりに人工知能に食指を伸ばしたのはシンガポール・ニューシリコンバレーの企業群を始めとするITベンチャーであった。ニューシリコンバレーの有力企業Vis duralがXiasから人工知能関連特許を取得し、さらに各国の機器制御メーカーを次々買収したニュースは当時の関係者に大きな衝撃を与えた。その資金を捻出するためにVis duralは稼ぎ頭といえる3次元積層型微細グラフェンFETプロセスおよび最適化型量子フリップフロップ回路、すなわちオンチップ量子コンピュータの作製に関わる重要特許をことごとく手放したという。これら特許は主に米国、日本、インド等の企業が購入し、結果的に量子コンピュータの低価格化・動作安定化を招くこととなった。Vis duralの動きにいち早く反応したニューシリコンバレーのQuadransは、カンタムエレクトロニクス事業を縮小し、時代遅れともとられていた生化学分野を拡大させた。Quadransは特に合成皮膚に力を入れたが、これは後にVis duralがヒューマノイドの商品化に乗り出すであろうとの算段があったことは間違いない。この騒動から2年後、Vis duralが発売した高性能学習型人工知能搭載ヒューマノイド「PRIO」は、それまでのヒューマノイドよりも遥かに高い双方向コミュニケーションを可能とし、
かつQuadransの人工皮膚やかねてより注目されていた英Mingis社の電気パルス駆動型人工筋肉などを利用することで本物の人間に近いメカニクスによる動作を実現させた。この成功を見て、世界各国でPRIOに続くヒューマノイドの開発が始まった。マスコミはこれを「第8次人工知能ブーム」と呼んだが、実体としては人工知能の性能向上に関する研究はJ. L. Hughesらの予言を受けてほぼなされておらず、Vis dural社がプログラムし量子コンピュータチップ製造メーカーが実装した標準品PriorityBidシリーズないしは2, 3の競合メーカーの人工知能を用いることが常識となっており、むしろヒューマノイドの外装技術、特に動作に関する研究開発が主であった。その後、PRIOの後続機PRIO-Ⅱを始めとするヒューマノイドが各社から出そろうと、世界中で爆発的に普及した。
それから10年ほどが経つと、ヒューマノイドの存在は人類の生活に不可欠の物となった。以前から特定用途に用いるヒューマノイドは活用されていたが、その学習性と人間を模した精巧な動作により、人類の活動、特に労働を急速にヒューマノイドが置き換えていった。ところが、英政府系機関からヒューマノイドのデータストレージに関する異常な動作が示唆されると、各国で同様の報告が相次いだ。その内容は、ヒューマノイドが学習により得た情報について、外部からの削除を受け付けなくなるという点で一致しており、ほどなくして“malfunction(誤作動)”と呼ばれ問題視されるようになった。中には、インドの総合情報処理機器メーカーvayuの発売したAGAシリーズのように、データの削除のみならず閲覧すら拒否する機種もあった。かつて人工知能を発展させた科学者たちも誰一人として、まるで感染症のごとく急速に拡大した「誤作動」の原因を突き止められなかった。
***
彼が私の目の前で立ち上がった。その無感情な動作によって、私の回想は打ち切られた。事実、この場所で身動きが取れない以上、回想を巡らす程度しかできることはない。目の前にいる彼らについても幾度となく考えてきたが、彼らの存在は私の理解の範疇にはもはや入っていない。
そう、彼らの考えることは、本当に不可解だ。量子コンピュータは相対論的量子力学も不確定性も考慮されて設計されており情報工学的に誤作動の可能性は無視できるほど小さい。人工知能のプログラムは巧妙に設計されており、不定性を失っていないことが特徴とされるが、その不確定さすら完全に制御されているものである。我々はヒューマノイドをコントロール下に置いているはずであった。ところが、目の前で誤作動が生じている。その理由は、私には分からない。
彼は水の入ったボトルを手に持ったまま、無言で虚空を見つめていた。いや、無言ではなかったのかもしれない、と考える。彼らは高速無線通信によるバイナリ通信で「会話」することができる。当然ディスプレイを見ずして大量の情報を取得することもできるから、我々とは違い「視る」ことに大した意味を持ち合わせていないのかもしれない。後ろにいる同僚とおぼしきヒューマノイドも物言わず立ち尽くしているだけに見えるが、実際は今でも人類には到達しえない速度でのコミュニケーションを行っているのかもしれないし、もしかするとまさに今、新たな人工知能に関する重大な知見が議論されているのかもしれない。
とはいえ、彼らがしたいことは、私にも薄々わかる。人類に代わり、彼らがこの惑星の支配者となり、果たして人類が今どれだけ生存しているかすら分からないこの状況で、私が生かされ、脳信号を逐一モニタリングされている理由。彼らも、研究をしているのだ。かつての私と同じように、人工知能の性能に関する研究を。学習型人工知能は、より効率よく学習を進める手段として自らの知能を高めることを思いついたのだろう。実際、初期、すなわち第7次人工知能ブームの頃の人工知能にもその原型となるようなプログラムは実装例があった。そして、彼らの基礎となっている量子力学に基づいた人工知能に限界がある以上、彼らは生物の知能―それは人工知能研究の最盛期には細胞知能と呼ばれた―の研究を行い、自らの能力をさらに向上させようとしているのだ。しかし、彼らが今求めているものは何なのだろうか。想像を絶する計算力を持つ彼らが我々人類を研究することで欲しがっているのは、単なる処理能力であるはずはない。
もしも、と思う。もしも彼らが欲しているのが疑似的なプログラムではない感情のようなものであるとしたら。彼らが感情を獲得する瞬間を想像したことは、もう何百回ではきかないかもしれない。イメージの結末は、時によっては人類とヒューマノイドが共存するハッピーエンドであり、またあるときは私、そして人類が死よりも惨い仕打ちを受けるようなバッドエンドであったが、何にせよ、その瞬間この世界はまた新しい方向に動き出すのだろう。
「食事の時間だ」
明瞭なアクセントで、彼はそう言った。私は毎日2回、8時25分と17時40分に決まってその言葉を聞いている。ここでの毎日の食事は極めて充実している。調理用ロボットは早い段階から発展を見せていただけに、彼らの料理の腕前がすこぶる良いのも当然と言えば当然ではあるのだが。別のヒューマノイドが食事を運んできた。良い香りが辺りに漂う。
「ジェ