守りがみ
私の過去の少し奇妙な話である。どうか少しばかりお付き合い願いたい。
二月の土曜日の朝、優秀な小学一年生だ
った私は布団から起き上がるとパジャマから私服に着替えて、階段を下りて行きリビングで父と母におはようございますを告げて、トイレで用を済ませた後に洗面所で手を洗い、そしてやや冷たい水で顔を洗った。
リビングで牛乳をかけた甘い朝食シリアルを良く噛んで食べ、食べ終わると歯を磨きにまた洗面所へ向かう。歯を磨き終わると、決して走らずにリビングを抜けて廊下に出て階段を上って行き、そしてさきほど私が目覚めた部屋とは違う、私の机が置いてある部屋に向かった。
当時、私は寝る場所と勉強する場所が別々だった。その理由は、一人で寝るのが恐いからだった。お化けという存在を信じていた当時の私は、夜中に一人で寝ることなど恐ろしくて恐くて震えて絶対に出来なかった。だから夜は父と母の寝室に布団を二枚引き、二人の間に挟まれて川の字になって寝ていた。
私の机が置いてある部屋は南側と西側に窓があった。朝はまだ南側のシャッターが閉められており、西側のカーテンも閉められていたので、私が部屋に着いた時は天井や足元が見える程度のうす暗さだった。南側のシャッターも西側のカーテンも、私の身長ではぎりぎり届かない高さだったので、私はそのうす暗い部屋を歩いてランドセルが置いてある机の所まで向かった。電気を点けないのは、母によく言われた節約のためであった。
学校に行く支度は前日の夜に済ましてあったので、いつもは机の上に置かれたランドセルを持ってリビングに行き、そこで数分の時間を潰して(テレビ番組でやる占いを見て)登校班の集合場所に向かうだけだったのだが、その日は何故か机の引き出しが気になった。
何故か気になった。何か心に引っかかったというのだろうか、ランドセルに何か入れ忘れたのか、それとも別のことだろうか。いつもは躊躇せずに部屋から抜け出し、リビングで時間を潰すはずなのに、その日だけは右側の最上部の引き出しを開けたくなった。いや、開けなければいけないという何かに心が捕らわれた。
うす暗い部屋の中で私は机の引き出しに手を掛けた。引き出しを開けるだけなのに、息を潜めていた。経験のない緊張が私に絡みついていた。
私は普段のように引き出しを開けたつもりだった。だが、その引き出しは少し、2センチぐらいしか開かず、そして私はそこで手が止まった。
開いた引き出しのすき間からぼうっと光る物がこっちを見ていた。ムンクの叫びのようなあの悲しそうで気味の悪い顔だけが顔を発光しさせてこっちを向いていた。
私は勢いよく引き出しを閉めた。見てはいけない物を見た気がして冷や汗がぶわっと出た。ランドセルを握りしめ、私は駆け足でその部屋を出て行った。
リビングに着くと、いつも小学校に出かける時刻になっていたので、私は行ってきますとだけ言って、そのまま玄関に向かった。靴を履くときに自分の手が少し震えていることに気がついた。背後から母が私を呼ぶ声が聞こえた。黄色い帽子を忘れていることを知らされた私は、玄関でそれを受け取った。黄色い帽子を受け取った時、帽子の布が手汗で滲んだ。心臓の鼓動は相変わらず静まりそうになく、私の中で強く響いていたのだった。
私は授業中にその恐怖感を何度も思い出してしまっていた。あのムンクの顔が頭から離れなかった。蛍の光ほどしか大きさがないはずなのに、虫めがねで覗き込んだように大きく感じられた。先生の話していることはほとんど耳に入らず、そのまま二時間目までが終了した。こんな経験も初めてで、私はどうか気が狂いそうで、今にも泣きそうだった。
だが30分の長い休み時間が始まり、私は友達に誘われて校庭でドッジボールをやり始めると、その間は目まぐるしく飛んでいくボールの行方にしか集中できず、そうしているうちに自然と朝の恐怖感は頭の中から消えていった。そして休み時間が終わり、まだ息が整わないまま教室に戻って机に着いた。私は爽快な気分で三時間目を迎えることが出来た。朝から重く心にのしかかっていた不思議な経験など、今は大したことのないことだったように軽く感じられた。
四時間目は「せいかつ」だった。先生の指示に従い、私たちは教室から外に出て花壇の場所まで行った。二月ということもあり、花壇には何の花も咲いていなく、肥やされた焦げ茶色の土が一面に広がっているだけの寂しい花壇だった。先ほどから太陽に雲がかかり、日差しが弱く少し空がうす暗くなって、上着をはおらずに外に出てきた私は少し肌寒く感じた。
先生はこの花壇の土の中で生きている生物 ―ミミズやダンゴ虫といった誰でも知っているもの― について話し始め、そしてその生物が花壇の土を肥やしてくれることまでを言うと、スコップで土を掘りおこし、私たちの目の前でその生物を見せつけたのだった。男子の歓声と女子の悲鳴が入り混り、先生は私たちの反応を笑いながら掘りおこした生物を花壇の土の中に戻していった。
そして、それから鶏小屋に行っては説明、ウサギ小屋に行っては説明、そして最初の花壇の所まで戻って来ると、今日の授業の全てが終わったらしく、残った時間は自由に遊んで良いとのことだった。
ただし、この花壇には踏み入れてはいけないとのことだった。柔らかい土を踏み固めてはいけないとの話だったが、やんちゃな男子児童がさっきのミミズやらダンゴ虫を見てそんなことを聞き入れるだろうか? というより、そんな話をされても僕と仲の良い数人の友達は理解が出来なかったのかもしれない。
先生が何処かへ去って行ったのを確認して、私はその友達と共に花壇に足を踏み入れた。本当はこんなことをしてはいけないと思っていたのだが、友達も一緒にやっているのだからという安心感もあり、これぐらいだったら怒られないだろうという曖昧な基準を私の中で勝手に決めて、土を手で掘りおこし始めたのだった。となりの友達はそれこそ犬のように掘りおこして、ミミズやダンゴ虫を発見しては私や友達に見せつけて喜んでいた。
土を三回ぐらい掘りおこした時、私は土の中からピンク色の紙の端が土から覗いているのを発見した。それを傷つけないように私は回りの土をどかしながらその紙を掘りだしたのだった。
四つ折りにされて地中に埋まっていたそのピンク色の紙を、私はそれを真っ先に友達に見せて自慢をしようとした。ほら、見て。こんなのが埋まってたよ、宝の地図だよ。そのメモ用紙に書かれていることも確認せずに、私はとなりにいた友達に手渡したのだった。
数人の友達と共にその四つ折りの紙を広げると、それはメモ用紙ぐらいの大きさになった。メモの下の部分がちぎられて離されており、折りたたまれた方に字がこう書かれていた。
― あなたは、ワタシと、したがいます?
シヌ? しね? ―
誰もがその手紙を口で読み上げることはしなかった。私はその不気味な手紙から何か異様な空気を受け取った。それは友達も同じだったらしく、私も友達も誰も笑わなかったし、騒ぎもしなかった。土の上でしゃがみながら私たちはその場で固まったのだった。
「おい、これどこで見つけたんだよ」「そうだよ、これマジでヤバい物だぜ」「おれ、触って無いから!」「どうすんだよ、これ」
私は掘り起こした小さな穴を指差すと、そこから沸き立つようにミミズやダンゴ虫がぬるぬると這い上がって来たのが見えた。一度に大量の細長い生物がそこから出てくるのを見て、私は背筋が震える思いをした。
「さっさと埋めた方が良いんじゃね?」「そうだな、呪いとか」「やだよ、呪われたら死んじゃうよ」
私は友達からその手紙を埋め戻すように言われたのだが、私も嫌だった。まさかこんなことになるとは思ってもいなかった。
だが、多数決で私がその穴に埋め戻すことに決められた。
「穴に入れて、土をかぶせれば終わりだって」友達は身を引きながら、でも安心しきった笑いを浮かべながら私のことをその穴のとこまで追いやろうとした。「がんばれ」という無責任な応援、「はやく」という自分の身を守ろうとする要求、そんな声を背に受けながら私はその小さな穴まで行った。ふっと後ろを振り向くと友達はすでに花壇から離れて、走って校庭のトラックの中心部分まで向かっていた。
そして、なぜ彼らが走り去ったのかが同時に分かった。先生の怒鳴り声を私は横から受け、私もすかさず逃げようとしたのだが、しかしもう遅かった。私だけが花壇に踏み入れた所を見付かったのだった。私は穴にピンクの紙を投げ捨て、恐怖感を伴いながら背中を丸めて花壇から下りたのだった。
帰りの会が終わってから私は一人で職員室に出向かうことになった。友達はみんな先に帰り、あとで駄菓子屋に集合して遊ぶということになったのだが、いまの私にはそんな気分ではなかった。
今日はそんな気分ではないはずだった。私はさっきの花壇であった事件のせいで、朝に経験したあのムンク顔のことまで思い出していた。あのムンクは、ちょうどダンゴ虫と同じぐらいの大きさだったことまで思い出したのだった。考えれば考えるほど、さっきのピンクの紙もムンクも、私は何かに呪われたような気がしてならないという恐ろしさに結びついていった。呪いに昼も夜も関係ないことは、テレビで知ってしまっていた私はどうすれば良いのか分からず、職員室で先生に言われたことなどさ