アイドル「兄は私のマネージャー」◆1ImvWBFMVg
巨大な一面のガラスの前、少女が一人立
っている。
少女の視線は先ほどからガラスの向こうに注がれ、一ミリも動かない。もうかれこれ
一時間はこうして過ごしている。
「また見てる」
少女の横、少し離れた暗がりの場所から少年の声が起きた。どこか不機嫌そうな響
きが耳に付いた。
でも少女は振り返らない。ガラスの向こうにある巨大な人間の頭部と対面し、その形
をした天辺を見据えたままでいる。巨大な頭部は、ちょうど少女の身長くらいはある
だろうか。
「もう寝てるよ。そんなの強制自動シャットダウンすればいいのに」
巨大な人型が呼吸し、その息づかいで頭部が上下していた。どうやら少年が言うと
おり寝てしまっているようだ。
少女の目からも、巨大な頭の下に敷かれたその腕が見えている。胴体から先は見えな
い。巨大なそれは突っ伏す形で寝ていた。
恐らくだいぶ疲れていたのだろう、着の身着のまま眠りに着いた様子が見えた。だら
しなく開いた口元からは涎が垂れ流しになっている。
「……もう、汚いなぁ」
その様子を眺めながら少年は嫌そうに顔を歪めて吐き捨てた。少女は黙っていた。
「ねえ。ニュー。ニューってば!」
少年は何度も少女の名を呼んだ。少女の意識をガラスの向こう側の人間から引き離
したがっていた。
「ニュー!行こうよ!」
しかし少年の試みは通じないようだった。少女は一切反応を示さなかった。少年は
拗ねたように唸り声を上げた。
「分かったよ。勝手にすればいい。そろそろ朝だからね。また忙しくなるんだから
ね」
少年がその場を去っていく。だが暗がりの向こうに行ってしまっても、少女はガラ
スの前を動こうとはしなかった。
やがて暫くした後、ガラスの向こう側の巨大な頭がゆっくり動いた。
「ニュー……大丈夫……きっと上手く……だよ。心配ない……。うぅ……ん…スー」
巨大な頭は、くぐもった不明瞭な声でブツブツ呟くと、また寝息を立て眠り始め
た。呟いた寝言は、今一要領を得ない一方的な内容でおおよそ理解不能だった。
だがその時、少女は始めて表情らしい表情を浮かべていた。それはほんの微かでは
あったが、ひどく暖かく人を安心させる様な、柔らかい微笑みだった。
少女はそのまま動かなかった。やがて時間が過ぎ、時計の針が正午を越えても、少
女たちが居る場所には何の変化も見られなかった。
その場所は、まるで日の光が刺しこまない所にあった。その為、時間の経過は容易
に分かる環境になかった。部屋の角にある、大きなデジタル時計だけがせっせと働い
ていた。
少女が身を固めて動かないその場所は、ひどく奇妙な空間だった。そこは一見、彼
女が住んでいる部屋の様にも見えなくも無かった。だが部屋と言うには一切の生活感
が無く、愛着などといったおよそ自然に染み付く物が感じられそうになかった。
何しろ人が暮らして行くための必要な要素が見当たらなかった。食べ物や飲み物は
おろか水道さえない。
そしてその上、部屋の続きや出入口といった当たり前の要素がスッポリと欠けてい
た。あるのは部屋自体と、その片側を占める巨大ガラスの枠だけだ。あとは枠の外の
巨大な人間の姿。
むしろ巨大なガラスの枠の世界だけが、その強い存在感を主張していた 。
まるで一つの目的の為だけに造られた、仮設の実験施設の様だった。その他の部分
は、舞台のセットと同じくあくまでも張りぼてでしかない。
事実ガラスの枠の範囲内から外れてしまえば、あるのはどこまでも永遠と続く、無地
の剥きだしの廊下だけだった。
そんな奇妙な場所で、少女とその巨大な頭は、いつまでも固まり続けていた。時間
は永遠に流れ続ける様に思えた。だがいつしか変化は訪れた。
「……ううん」
ガラスの向こう側、巨大な頭がゆっくりとその動きを見せた。ひどく重そうな首を
持ち上げ、正面に向け顔を起こしたのだ。
数秒後、巨大な人間の大きな上体が、ガラス一杯に姿を覗かせていた。まぶたが開
かず、ひどく眠そうな表情だった。
「……もう昼か」
若い男だった。もちろん頭だけではなく身体もあった。見た目は、成年は過ぎてい
そうなどこか風采の上がらない青年だ。張りのない顔付きをした巨大なだけの男だっ
た。
男は欠伸混じりに身体を伸ばし、気怠そうにまぶたを擦っている。頭の横には、強い
寝癖が着いている。
男はやがて、まぶたを擦っていた手を下げ、下の場所にある機械にその手を添えた。
すると『カチッ』っという小気味よい音が響いた。
「お兄ちゃん、遅いよもう!」
突然のことだった。今まで固まっていた少女の身体が、途端に動きだし、生き生き
と活動を開始しはじめたのだ。
まるで男が出した小さな機械の音に、生命の息吹を吹き込まれたかの様だった。
「言い訳ばっかして、お兄ちゃんてばもう!」
しかも喋るばかりでなく、活発なさまで手足を使い、精一杯に感情を表現して見せ
ている。少女は不機嫌な様子でさえ何処か可愛らしかった。
一方の巨大な男は、ガラスで区切られた向こう側に構えている。かしましいといっ
た感じの少女の様子を鋭い眼差しで逐一追い掛けていた。
何やら機械を叩いて操作していく男。巨大な黒いマウスパッドが握られている。
その操作がもたらす物なのか、ガラスの下の方にカーソルが表示され、先程から文
字が浮かんでは消える様子が流れていった。
『いつもはそっちが起こしてもらってるんだから。今日ぐらいはいいだろ』
その文に素早く反応するように、少女が返答を重ねた。
「知らないんだからね!せっかく久しぶりに取れたオフなのに……ほら~、仕事の時
みたいにテキパキ準備してよ〜」
また下のガラスに文章。『せっかくの休みなんだからさ、ゆっくりしよう』という
内容。きびきびと手を動かし、慣れた手付きでカーソルを動かしクリックした。
すると少女は怒ってしまった。先ほどより一層不機嫌になり、眉間にシワを寄せて
いる。もはやガラスを睨みつけてしまっている。
「……お兄ちゃん?本当に分かってる?……今日は出掛けるって……あれだけしっか
り約束してたでしょ