【BNSK】月末品評会 in てきすとぽい season 3
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(時間外作品) ブラック・アウト ◆xaKEfJYwg.氏
投稿時刻 : 2014.06.01 08:16
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(時間外作品) ブラック・アウト ◆xaKEfJYwg.氏
ほげおちゃん


「今日は帰りたくないんです。だから」
 彼女の好きな梅酒のにおいがする。梅酒の甘いにおいは凍えた白い吐息とともに夜の空へ散っていく。
「……だから?」
 オレンジ色の外灯の下で彼女は立ち止まる。私も立ち止まって彼女から吐き出される言葉を待つ。どうやらお互い二十五になった今でさえ、子供のように欲しい言葉を期待してしまうどうしようもない私のようだ。甘ったるくなってしまったその唇で飾らない愛の言葉を囁いて欲しい。
 彼女はダウンジャケットの両ポケットに突っ込んだむき出しの手を取り出した。私は無意識のうちに彼女の柔らかな素肌から、手のひらの先から、かすかに動く指先から彼女の体温を想像してしまう。私はカシミヤのマフラーに口元を深くうずめた。
「ねぇ、ユキノ。私酔ってます」
 彼女の手のひらは空中でしばらく静止する。
「そう」
 その指先は往き場を失ってそのまま、私のマフラーをくるりと回りダッフルコートの胸元にすとんと落ちつく。そうして私の背中に抱きつくと、彼女のはにかんだどもり声が聞こえた。「彼女が緊張している」なんてちっぽけな事実が私の胸を満たす。耳元で吐かれる彼女の息が私のうなじをくすぐって堪らない。私だって帰りたくないのよ。シラフになりたくないの、あなたもわかるでしょう。あと少しだけ大好きなあなたの梅酒のにおいを味わって酔っていたいの。でも――
「私、酔うと記憶を失くすクセがあるんです。知ってました?」
「知ってる」
「聞いて欲しいことがあるんです」
「知ってる」
「まだ何も言ってないです」
「それも知ってる。……重い、背中から離れて」
 ――だって冬の北海道は冷える。まだ冬は始まったばかりなのだ。酔いだってなんだってすぐ醒めてしまう。このよこしまなひと時が彼女の心に残らないとは限らない。
 遠い昔の私は、いつだって優れた彼女に甘えてきた。二人だけの空間でただひたすら彼女の大きな体に抱かれて甘えるのが好きだった。なんでもできる彼女。勉強だって運動だって、人付き合いだってなんなくこなして、皆の憧れの存在だった。つまらない日常のなかでもヒーローだった彼女は、甘える私をいつだって優しく見つめていた。私を慰める術を知り尽くしている彼女は、それをいつだって最優先にした。私の知りうる人物のなかでは他の誰よりも強かった。
「もう一軒回りましょう。今度は酸っぱいお酒飲みたいです」
「仕事は?」
 ヒーローだった彼女は、私から素早く離れるとあの頃と変わらない微笑みを見せる。
「先月辞めました。また無職です。文無し待ったなしです」
「あんたそれでいいの」
「お金は無いと困ります。こうしてユキノと飲めなくなっちゃいますから」
「ちがう。十年とか、二十年先のこと」
「考えたことありません。だって――」
 遠くで揺れる地下鉄のシェルターの音が彼女の次句を隠してしまう。この時刻なら、たぶん最終の電車だろう。
 私は彼女の言おうとした言葉が知りたかった。確認したかった。しかし彼女の言おうとした言葉は、最終電車と一緒にどこかへ行ってしまったようだった。

 ▽

 私の椅子が、教室のビニル床を擦りつけて不快な音を鳴らす。
 座学中に突然立ち上がった私を、教室じゅうの生徒達が不思議そうに見上げている。教壇のむこうで教科書に視線を落としていた教師も顔を上げる。私は室内のありとあらゆる視線を一手に集めてしまったようだ。
「どうした? トイレか?」
 私は、教師の問いに答えないまま一人の女生徒に視線を向ける。
 彼女は、その他の生徒のように見上げることはせず、英語の教科書に目を落とし続けている。
黒板に書かれている英文章と教科書の例文を交互に見て、教師に指示された文章をどうにか読もうと努力していた。まるで私が立ち上がったことなんて、問題じゃないかのような態度だった。
今の彼女のなかでは、私のことよりも、たかが高校二年の英文の和訳が問題のようだ。
 ――どうして私に視線を向けないの? どうして背を向けたままなの?
 私は彼女の名前を言おうとした。彼女に不満があるのだ。
「……お手洗いに行ってもいいですか」
 でも言えなかった。どう言っていいのか、くしゃくしゃになった気持ちを表現する術を私は知らなかった。
 ばつが悪くなって、ドアまで歩き出す。ドアを力任せに開けて、また大きな音を響かせる。その威圧的な音が鳴り止むまで、その場に立ち止まってみた。
 彼女の後姿をちらと見やる。もしかしたら今度こそ私のことを見ているかもしれないという淡い期待を抱いたからだった。
 ……最後の悪あがきは叶わず、それでも彼女は教科書と睨めっこをしていた。
 教室を飛び出した私を追うものはなかった。どこか納得ができず、私は廊下を少し歩いてすぐに後ろ髪を引かれたように立ち止まってしまう。
 背後にある置き去りにした教室から、教師の落ち着いた声が聞こえる。
「ところで八重宮、まだ和訳は終わらんのか」

 ▼

 私と八重宮水佳は小学五年生のときに同じクラスだった。小学五年と六年の二年間が、私たちの何物にも変えがたい大切な日々だった。それまで接点のなかった私たちは、ある日の体育の授業で初めて話す間柄になった。短距離走のタイムを測定している最中、私は激しく転んで膝を擦りむいてしまった。痛いことは痛かったが、そのとき膝を擦りむいた痛みよりも、「良い記録を出さなければならない」失敗できない授業で大失敗をしてしまったことに私はパニックになってしまった。コースの真ん中で放心した私の手をどこからともなく現れ、引っ張って保健室に連れて行ってくれたのが八重宮水佳だった。彼女は保健室につくまで何も言わず、消毒液と絆創膏の場所を探り当て、私の膝頭に手際よく貼ってくれてはじめて口を開いた。なんと言ってくれたか覚えていないが、彼女の言葉を合図に決壊したように泣き出してしまったのは覚えている。
 家庭の事情で少し離れた中学校へ行かざるを得なくなってしまった私は、彼女に小学校の卒業式のあと私の部屋に泊まりにこないか、とお泊り会のお誘いをした。彼女は快く承諾し、私たちはその夜一緒の布団でずっと友達でいると約束をした。お互いに「あなたは大事な人」と確認したのだった。
 その日の夜、さよならを告げた彼女の顔を見て玄関で泣き出した私に、微笑んで手を振ってくれた彼女の姿を今でも思い出せる。
 しかし完璧な離れ離れではなかった。中学校模試の高得点者欄で度々彼女の名前を見かけたからだ。彼女の名前を見つけるたびに、私は勉強に打ち込んだ。高校の入学式で彼女と再会するために、できるだけドラマティックに再会するために勉強を続けた。ただ彼女と供にいる時間を願って、中学校生活を過ごした。
 結果を先に言えば、高校の入学式で彼女と再会することは無かった。私は学区内で一番の進学高に入学することはできたが、そこに彼女はいなかったのだった。彼女は学区内で一番ぱっとしない学区内唯一の女子高に入学していた。
 私はそれを小学校の友人に聞いて首を傾げた。友人は声を潜めてこう言った。
「家族で事故に遭ったんだって。お父さんとお母さんが死んじゃって、ヤエノミヤさんもしばらく目を覚まさなかったの。それから、ね。すごいキビキビしてたユウトウセイってやつだったけど、今はぜんぜん。それでもいい子っちゃあいい子なんだけどね。どうしたのかな」
 はやく、はやくあなたに会わないと、と私は思った。

 ▲

 こうなっては仕方なく、トイレに向うことにした私はトイレの場所がどこか分からないことに気付いた。酷く方向音痴だったので、長い間彷徨ってしまった。
 この女子高の校舎は、どうやらそれなりに歴史があるみたいで、古い校舎を第一校舎としてその周辺に三つの校舎が繋がっていた。曲がりくねっている廊下を歩いていくうちにトイレのマークが見えるだろうと思っていたが、そんなことはなかった。この学校は増改築を繰り返したせいで意図せず迷路のようになってしまったようだ。そのせいで、人通りのなく電灯もついていない通路にて、三年とおぼしき女生徒が一年とおぼしき女生徒に暴言を吐いている嫌な場面にも出くわしてしまった。
 終いには途方も無くなって、来た道を引き返すことにしたのである。

「笹草さーん」
 教室向かいの階段に腰を下ろし、踊り場の採光窓を眺めていると誰かに呼び止められた。振り向くと、見た覚えのある桃色のヘアピンをつけた短髪の女生徒が立っていた。
「あなたは……」
「大川あげは。あげはって呼んでね」
「私は、」
「知ってるって。同じクラスでしょう。そうでなくても、笹草さんってとぉーっても有名なんだから」
 あげはは、マスク越しから発せられるくぐもった声色でそう言って、私の隣に腰を下ろした。彼女の切りそろえられた前髪が揺れる。ちらとおでこのあたりにシールみたいなものが張り付いているのが見えた。
「……どう有名なのやら」
「転校生でしょう」
「それって、そんなに珍しいことなの?」
「ただの転校生じゃないよー? あの頭いい南高校から、なぜかこんなへんぴな学校に転校してきた謎の転校生。成績優秀、スポーツ万能、美人でスタイル良し。男子が居たら、放っておかないね。きっと」
「……」
「ホント、漫画みたい」
「それはどうも」
 あげはの前髪から覗くシールのように見えるプリント柄の絆創膏が、やけに不自然に映る。彼女は私の視線に気付いて、おでこを手のひらで隠した。
「さっきの授業中さ、ずっと八重宮さんのこと見てたでしょ」
 隠されてもなお、私はおでこを凝視し続ける。
「その絆創膏は?」
「これはいーの」
 今度は彼女の口元にあるマスクに視線を落とす。
「風邪気味なの?」
 彼女は明らかに嫌な顔をして目を逸らし、すぐさま強引に話題を戻す。
「じっと見てたでしょう? 白状したまえ」
「なんの話?」
「八重宮さん」
 私の呼吸は勝手に止まってしまう。
「やっぱり。八重宮さんと笹草さんの間に何かあったのかなーって思ってさ。追いかけてきちゃった。すっごい迷ってたねえ、トイレなんていくつもあったのに。考えごとでもしてた? でも歩くの早いんだもん、案内しようと思ったけど、途中で見失っちゃった」
 ぐいと擦り寄ってくる。あげはの顔をようく見ると、目元が腫れているのがわかった。
「笹草さんと八重宮さんの間に接点が見えないから、みんな不思議がってたよ? 八重宮さんってトロイからさ、笹草さんに何かしでかして、目ぇ付けられたんじゃないかとか……」
「違うわ」
「そうなの? なら私たちが気にしすぎなのかな。八重宮さんって人気あるからさ、じぃっと見てる人多いんだよ。ファンクラブまであるし……っていっても同じクラスの宮古さんと、山岸さんと……」
 あげはは指を折りながら日本人の苗字を挙げ続ける。私は溜息を吐いて、その行為をやめさせる。
「どこが人気なの。勉強だってできないみたいだし、だいいち『トロイ』んでしょう?」
「勉強なんてできなくても、いいじゃん」
「別に男っぽいってわけでもないでしょう」
 彼女は、そんな愚問始めて聞いた、とでも言うように饒舌に語りだす。
「あのね、優しくて、包みこむような淡い目がいいの。体が大きめだけど、威圧感ないじゃない?全体をしっかりと見てる」
 まるでお気に入りのアイドルについて話すように、楽しそうに、嬉しそうに言葉をつむいでいく。確かに本当にそんな人間がクラスにいたら、人気者だろう。彼女は饒舌さを失ってようやっと、お仕着せでない言葉を呟いた。
「いつだって、その目で困った人を見つけて、手を差し伸べてくれる」
 私は、彼女のおでこに張り付いた絆創膏や、腫れぼったい目元や、何かを隠すためにつけたであろうマスクを見てほくそ笑む。
「まるで手を貸されたことがあるみたいな言い方ね。そんなこと一度でもあるの?」
 彼女は答えない。いや、きっと答えられないのだ。
「そう。ヤエノミヤって人は、そんなにも人気なのね。でもここは女子高」
「関係ないよ。憧れるのは勝手でしょう」
 言葉が途切れる。あげはの肩が震えている。
「……そう。いじわる言ってごめんなさい。あんまりにも、私が抱く『ヤエノミヤさん像』とかけ離れているから驚いてしまって。そうね、ヤエノミヤさんはいつも、あげはさんに良くしているのね」
「……そうだよ」
 あげはは自信の欠片もない頷きをひとつつく。
「優しいんでしょう? ファンクラブが出来るほどに」
「……勘違いだったみたい」
「良く分からないけど、そうみたいね」
 私が微笑んで返すと、あげはは立ち上がって私を見下ろした。
「笹草さんはちっともだ」
 彼女はそういって、私に背を向けて教室に戻っていった。


「笹草さん。どうですか? 学校には慣れました?」
 彼女は微笑んで世間話をもちかけてくる。
「……」
 美術教室の周りを見渡すと、誰もが思い思いに、木造りのブロックを木目調の薄い板の上に置いていた。今後の授業で、このブロックをボンドで固定し、色を塗る。「未来」をテーマにした美術の立体の授業だった。
 向かい側に座っている彼女の板には、まだ一つもブロックが置かれていなかった。ブロックは板の傍に丁寧に整列されている。
「笹草さんは凄いですね。それは街ですか?」
 彼女は綺麗な指先で、私の手元に置かれた板を指し示した。確かに、ブロックを家と見立て配置していた。街といわれれば街なんだろう。合ってはいるが、私は頷きもしなかった。
 彼女は構わず話しかけてくる。
「ここに川を流して、ここにブロックを積み合わせて高い塔を作る。そしたらこの街そっくりだ。笹草さんは、勉強も出来てセンスもある。スポーツまでできますね……」
 私は、彼女の何も置かれていない板と、その傍に整列させられたブロックを眺める。
「だから?」
 口調がきつめになってしまう。こんな反応を彼女にしたいわけじゃないのにだ。
「さ、笹草さんは美人ですし……本当に憧れてしまいます」
 唇を噛み締める。彼女の表情を確認すると、それでもまだ微笑んでいた。堪らなくなって、配置されたブロックを板の上から全て払い落とした。落ちたブロックは床を跳ねて飛び散る。
「さっきから――」
 彼女は目を丸くして、口をぽかんと開けた。なぜ私がこんな行為をしたのか納得いかないのだろう。彼女はワンテンポ遅れて「あっ」と小さく漏らした。その「あっ」という言葉はきっと、気の障ることを言ってしまったのではないか、という気付きの声だろう。でも違う。私は――
「笹草さんって、どうして呼ぶの? ミズカは私のことを忘れたの?」
 彼女は、私など見ずに、落ちて散らばったブロックを丁寧に拾い集める。私はその後姿を見下ろす。
「ねぇ、昔みたいにユキノって呼んで」
 唇が震える。気持ちと折り合いがつかなくなっていく。
「私を見てよ。私、ミズカに何かした? したなら謝るわ。ねぇ」
 私の涙声に反応して、とうとう生徒たちが一斉に私達に注目する。
 彼女は拾い集めたブロックを、板の上に置いていく。どうやら私が作っていたものを再現しようとしているみたいで、苦心しながらブロックを一つ一つ置いていた。
「やっぱり私がやると、ダメですね。街にはとても見えない」
 申し訳無さそうに笑う水佳の顔を見て、涙が溢れ出てくる。
「ユキノ……さんが悲しい顔をすると、私、悲しくなってしまいます」
「……」
「そんなつもりじゃなかったんです。お友達になれないかと思ったんですけど……私、ユキノさんとお友達になりたくて……あの、気に障ったなら謝りますから」
 彼女は、眉を下げてすまなさそうに頭を下げる。私は違う世界に飛び込んだSF物語の主人公になったのだ、と思った。眩暈がする。空気が合わない。
 「お友達になりたい」というのが彼女の本心なのだ。私が怒る理由に心当たりがないのだ。本心から「すでにお友達である」私との時間を無かったことにしたいのだ。
 ――私は何を期待していたの? 私は彼女にどうして欲しかったの?
「なんで。こんなことのために、転校してきたんじゃないのに」
 放心した私は泣き崩れてその場でうずくまった。その際に足を椅子の角で切ってしまう。痛い。辛い。今までしてきたことが大変であればあるほど無意味になることが辛い。それ以上に、大切な人だと一方的に思っていたことや、私は彼女の忘れたい過去であることが辛かった。
 ――誰かこの世界から私を救い出して。息苦しいの。溺れてしまうわ。
 そうやって、みっともなくうずくまっている私の手がある手に引かれる。心のどこかにいる冷静な私が、授業の邪魔だわ、と判断する。そりゃあ避難させるわよね。何処へでも連れて行って頂戴。ここじゃなければ、どこでもいい。
 私の手を引いたのはヤエノミヤだった。彼女は、何も言わず手を引っ張って美術室から飛び出す。私は知っている。この後、私は保健室に連れて行かれるのだ。そして、彼女は消毒液と絆創膏を探り当てる。私のおでこに消毒液を塗って、絆創膏を貼り付ける。そして「びっくりした?」と笑う……彼女を期待している。
 目的地は予想通り保健室であったが、彼女は何も探り当てず、私をベットに座らせるとこの部屋を出て行った。養護教諭はいなかった。


 授業の終わりを告げるチャイムが聞こえて、保健室に入ってきたのは養護教諭ではなく、見知らぬ女性徒だった。彼女は周囲をちらとも確認せず、扉を閉めてそのまま真っ直ぐベットに座る私まで近づいてきた。
「水佳と同じ中学校だった吉野です」
 私はこくんと頷いた。
「話は水佳から聞いた。あの子ずいぶんと慌ててた。状況が上手く飲み込めなかったけど……きっと笹草さんは水佳と小学校のとき仲良かったんでしょう? それで大体把握した」
 この部屋はとても涼しい。でも、私の体温は徐々に上がっていく。頭はぼぅっとして、これから聞かされるであろう事実を受け入れまいとしている。吉野は口を開いた。
「なんであれ、水佳は小学校のことは綺麗さっぱり忘れている。事故に遭ったあの日から。それどころか、両親のことさえも忘れてしまっている。でも、彼女自身にはどこも悪いところはない。成績は悪くなったみたいだけど、それであの子の全てが変わったわけじゃない。だから、今までのことは忘れて、今目の前にいるあの子と仲良くして欲しい」
「あなたはヤエノミヤさんとお友達なの?」
 当たり前なことを聞いてしまう。
 吉野は頷いた。
「あの子は今、私の叔母がやっているアパートに下宿している。私もそこにいるから、良く話す。友達と聞かれれば、そうだと思う」
 これほど、遠まわしに肯定されたのは初めてだった。吉野はどこか普通の人と違うところがあるみたいだ。言葉の流れが、いたるところでせき止められている。スムーズではない口調。なんとなく、今の水佳を思い出す。
「思い出話ができなくて残念だった。それは素直に同情する。でも、あなたの期待を押し付けないで欲しい。これ以上あの子を振り回すのだったら、私は笹草さんを許さない」
 許さない……どうやら私は吉野に糾弾されているようだ。力なく、ええ、と呟く。
「ええ。どうやら私の思い違いだったみたい。私はこれ以上ヤエノミヤさんや吉野さんを困らせるつもりはない。大丈夫。大丈夫」
 繰り返し大丈夫と呟いて笑う私を見て、吉野は目を細めた。
「私の知っている大丈夫とは、笹草さんは程遠い。今日はもう帰ったほうがいい」
 微笑みを作ってみたものの、どうやら上手くできていなかったようだ。
「一つだけ教えてほしいの」
「……」
「私はこれからどうしたらいいのかな」
 吉野は私には出来なかった完璧な笑みを浮かべた。
「今日はもう帰ったほうがいい」


 職員室で担任を見つけて、早退するという旨を伝えると、担任は「八重宮となんかあったのか。
そういうのはできるだけ急いだほうがいいぞ」と言った。美術の授業中、錯乱した私のことを、あらかじめ水佳が担任に伝えたのだろうと推測した。担任は何故か優しく、今日はもういいということだけ伝えて、受け持ちの教室に戻っていった。担任の椅子の傍に、私の荷物が置いてあった。この荷物は、彼女が持ってきたのだろう、と思った。確かに、ヤエノミヤさんは全体をしっかりと見ている。その通り、今の私には教室に戻る元気は持ち合わせては居ない。


 私はバス停のベンチで三本目のバスを見送った。その間、どうして彼女に固執していたのだろうと考えた。大切な思い出があった。しかしそれは壊れてしまった。今の私の気持ちを上手く一言で表すなら、喪失感とでも言えばいいのだろうか。要するにがっかりしたのだ。がっかりした経験なんて数え切れないほどある。お気に入りのマグカップを割ってしまったことや、部屋にぴったりだろうと思って買った本棚が隙間に上手く嵌らなかったこととか。というか、始めから彼女がどこを受けるかリサーチしとけばよかったのだ。そうすれば変わった彼女にさよならをして、どこか別の高校で楽しいことを見つけていたところだったのだ。
 思い切って、道路を挟んで向かい側のバス停に乗ってみた。街の中心部に向かう路線だ。駅の遊び場で男を見つけることにした。
 出来るだけ小柄で細めな……シルバーアクセサリーなんかを見せびらかしている男がいい。
 駅の改札を抜けると、誰でもよくなって、私は手ごろな若い男に声を掛ける。思ったよりも背が大きめだったが、構わず腕を絡めた。香水の臭さが私を不快にする。そんな私の表情の変化に気付くわけも無く、男はただ喜んだ。
 その夜、終電では帰れなかった。

 ¶

 次の日、朝のホームルームが終わると、水佳が声を掛けてきた。私は出来るだけ笑顔を作って、やり過ごすことにした。
「どうしたの? そういえば、この前はごめんなさい。もうあんなヘンなふうにはならないから、安心してちょうだい」
 水佳は私の机の前で首を傾げる。
「ヘンなふう?」
 彼女のオウム返しにイラついてしまう。あなたの目には「ヘンなふう」に映ったのでしょう、と言いたかったがやめにした。
「とにかく、昨日はごめんなさい。ヤエノミヤさんには迷惑かけないようにするから、この辺にして」
 私は視線を窓に向ける。窓枠の外は山が見える、ただそれだけだった。
 水佳は視線を逸らした私の手を、不意に掴んだ。
「何するの」
「私、反省しました」
 私は唾を飲み込む。
「反省?」
「はい。正直、ユキノさん……」
 水佳は私に目配せをする。まだ呼んでいいのか、という確認のつもりだろう。どうでもよかった。私は頷く。
「ユキノさんの言いたかったことが分かりませんでした。ユキノさんとは違って、私はあまり頭が良くありません。運動だってできないし、トロイです」
「そうみたいね」
「もしかしたらいつかどこかで知り合っていたのかもしれないです。でも、私あまり覚えられなくて、忘れてしまっていたのだと思います。あの……」
 私は彼女の顔を眺める。ふと、頭の中である疑問が巡り巡る。
 ――どうして、覚えても居ない私にこの女は一生懸命なんだろう。
 本当に私のことを覚えていないのであれば、急に現れて感情をぶつけてきた私に恐怖しているのではないのか。普通はそんな危険な人物とは距離を置くのではないか。
「ねぇ、なんでそんなに必死なの」
 彼女は困ったように微笑んだ。
「分かりません。多分理由はないです」
「……」
「あの、これ」
 水佳はポケットから絆創膏を取り出して、私に見せた。それはシールのように見えるプリント柄の絆創膏だった。
「足ケガしてましたよね。まだ手当てをしていないのならこれ使ってください」
 私ですら忘れていたことを、水佳は心配していたようだ。言われて、私は足を確認する。ふくらはぎに一センチ程度の傷があった。彼女はその傷を認めると、その場で絆創膏を貼った。
「私、よくケガするので持ち歩いているんです。ユキノさん、もう一度じゃだめですか?」
 絆創膏を貼られながら、私はぼぅっと彼女の言葉を反芻した。
「もう……いちど?」
 彼女は楽しげに答えた。
「もう一度、思い出を作りましょう。これ以上ないっていうものをです。確かに、小学校の私と今の私は違うかもしれません。でも、きっと小学校と違う私とだったら、その頃以上の思い出が出来るかもしれません。どうでしょう」
 私は苦笑した。何を言っているのだこの女は、と思った。辺りを見渡すと、ヤエノミヤさんのファンクラブ会員と思しきクラスメイトがちらちらと羨ましげに見ていた。そうとは知らず、彼女は得意げに胸を張る。どうだ、参ったか、という様子だ。
 今まで悩んでいた全てのことがどうでもよくなって、彼女のくだらない提案を了承することにした。
「それが出来れば、それでいいわ」
「出来ます。努力します!」
 今私にとって確かなのは、彼女のくだらない提案に乗ったほうが、男とベッドで一晩ともにするより少しだけ面白そうだということぐらいだった。


 それから、私達は時々二人だけの時間を過ごした。残りの高校生活はあっという間で、やはり私の思い出のなかでヒーローだった彼女とは違う、新しい彼女と思い出が作られた。喧嘩をしては仲直りして、そのたびに彼女が謝って私が許した。同級生に告白された私の相談に乗ったのも彼女で、フラれたときに慰めてくれたのも彼女だった。
 フラれたときや嫌なことがあったときは決まって彼女とお酒を飲んだ。彼女は梅酒が好きで、私は彼女のために毎年梅酒を作るようになった。それがいつしか楽しみにもなった。
 あっという間に二十五になって、私は市立の図書館に腰を下ろして将来のことを考えるようになった。しかし彼女は違った。
 彼女は大学にも行かず、資格も取らず、定職に就かず、日雇いの仕事を転々としては生活費をなんとかやりくりしていた。もうあの頃の彼女はいない。時々思い返す。あの頃の彼女が生きていたら、私はどうなっていたのだろう。こうして二人で梅酒を飲むことができたのだろうか。
 今となってはこれで良かったのかもしれない。少なくとも私はそう思っていた。だって、彼女は私と思い出を作る約束をしたのだから。友達でいつづけるという約束よりも、もっと効力の強い呪いの言葉を彼女は吐いた。そう、定職につかない限り、呪いが解かれない限り私は彼女と居続けることができる。

 △

 最終電車が通り過ぎて、地下鉄のシェルターは鳴りを潜めた。
「もう一軒はさすがに無理ね。私の家で飲みなおす? まだ家にお酒あったと思うから」
 彼女は嬉しそうに笑って頷く。
「まだまだ飲みますよー」
 そうして私の手を引っ張る。私はもう一度マフラーに顔をうずめる。頬が熱くなってきた。どうやら私も酔ったみたいだ。


 私たちはコタツに入りながら、ケーブルテレビで放映されている映画を見た。ホラーなのかサスペンスなのか判断のつかない邦画でとにかく画面が暗く静かだった。彼女は大きな欠伸をふたつつく。テレビの右端に、二時と表示されている。
「もう寝る? お酒は今グラスに注いであるので最後です。本日の営業は終了致しました」
「ベッドで寝たいです」
 いそいそとベッドに潜り込もうとする彼女の腕を引く。
「服ぐらい着替えなさい。あんたが着ると思って買っといたあれ。その服は洗濯出しちゃうから。
何日それ着てるの」
「めんどくさいです」
「いいから。言うこと聞きなさい」
 彼女はふくれっつらで、仕方なさげに服を脱ぎ散らかす。私は溜息を吐いて、遠くへ飛んでいったねずみ色のシャツを拾いにいった。
 このシャツを着る彼女を良く見る。彼女のお気に入りなのだろうか、なんてどうでもいいことを考えながら、そのまま拾った服を洗濯カゴに入れ、彼女のために買ったパジャマを入れた箪笥を引いた。すると視界が真っ暗になった。
「だーれだ」
「あんたねぇ……」
 耳元で彼女の好きな梅酒のにおいがする。私の胸の鼓動がはやくなっていく。
「私、酔うと記憶を失くすんです。知ってました?」
「今日は面倒なほど酔ってるわね」
「聞いて欲しいことがあるんです」
「もういいわ。なんだっていって頂戴」
「私、小学校でユキノと遊んだこと。覚えてます。卒業式の夜にお泊り会したことも。同じ布団でずっとお友達でいようって約束したことも、ばいばいのときに泣いたユキノの顔も、それに手を振ったことも」
「……知ってる」
「いじわるしてごめんなさい」
 私は後から彼女に寄りかかられる。彼女の体重を感じる。まだ視界は明るくならない。暗転。ブラックアウト。

「兄が一人いたんです。両親に酷く虐められていました。兄は、頭が良くないから虐められているんだ、と笑ってました。でも夜中に泣いていたのを知っています。私は両親が親戚の法事で高速に乗ることを知りました。それで、タイヤに穴を空けました。その夜に両親は事故で死にました。タイヤのせいではなく、居眠り運転していたトラックと高速道路で正面衝突したみたいでし
た。タイヤはすぐ気がついて交換したみたいでした」
 私は彼女の言葉に耳を傾ける。ただ、嬉しかった。彼女の秘密に触れているということが。本当は彼女の目を見たかった。こんなブラックアウトではなく、真正面から彼女の全てを受け止めてあげたかった。しかし、それは彼女にとってはまだ無理なことだったようだ。
「多分、私が殺したのだと思います。兄も酷く傷ついて、首を吊りました。私には兄の気持ちは分からなかった。てっきり、両親を恨んでいるのだと思ったのです。でも違った。兄は両親のことを理解し、愛していた」
「そう」
「ねぇ、ユキノ、愛ってなんでしょう」
 私は迷うことなく答える。
「私はあなたを愛しているわ。世界中の誰よりも」
 彼女は苦しそうに返した。
「利口ってどういうことなんでしょう。勉強して身につくものなのでしょうか。私はユキノのして欲しいことは分かっても、ユキノの気持ちは理解できません」
 そういってやっと、視界を遮る彼女の手のひらが私の瞼から離れる。私は彼女のために買ったピンク色のパジャマをじっと見つめる。
「理解できなくてもいい。されなくてもいい。そう思えるのが、愛してる」
「じゃあ私は兄を愛していたと言っていいのでしょうか」
 振り返ると彼女は下着を着けていなかった。私はパジャマを彼女に手渡す。
「あなただけが納得できる愛を見つけなさい。それか、愛なんて古臭い言葉とっとと忘れて定職につきなさい」
 そういってから、彼女の裸体に目を滑らせる自分を自覚して、視線を逸らせた。彼女は受け取ったパジャマを身に着けて、私をベッドまで連れて行った。
「あの頃のように一緒に寝ましょう」
「あの頃?」
「……忘れてください」
 私はベッドのなかで、彼女を抱きしめた。明日になったら彼女はまた嘯くだろう。「何かいいました?」とのうのうとのたまうのだ。それでもいい。彼女がそうしたいのなら。
 私の胸のなかで、彼女は飾らない愛の言葉を囁いた。
「愛してます、ユキノ」

 END
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