【BNSK】品評会 in てきすとぽい season 8
〔 作品1 〕» 2  7 
犬の愛
投稿時刻 : 2014.11.16 00:40 最終更新 : 2014.11.18 14:47
字数 : 9380
5
投票しない
更新履歴
- 2014/11/18 14:47:18
- 2014/11/16 14:44:56
- 2014/11/16 00:40:22
犬の愛
すずきり


上 ルルの喜怒愛楽な日

 私は主人にルルちんと呼ばれている。チンは敬称の類いであて、本名はルルである。なんとも耽美な響きである。玉を転がしたような、嘆息を禁じ得ない秀逸なる名付けだ。主人は美的感覚に優れている。また、敬称のチンを合わせると、今度は鈴のそよ風に鳴たような耳心地の良さ。ううむ、ルル・チン、良きかな良きかな。
 敬愛する主人の香りが残ておりはせぬかとフローリングに鼻をくつけて歩く。爪が床板に当たて歩くごとにきたきたと音が鳴る。初めは全く癇に障る音で不快であたがもう慣れた。それにこの爪音も悪い事ばかりでない。人間は視点が随分高いから、彼らの膝下ほどの高低に存ずる我ら犬は、ともすれば彼らの死角に入りがちである。この間キチンの曲がり角でついうつらうつらして、腹這いに眠てしまた際に、主人の御子息が私に気付かず、危うく腹を蹴飛しそうになた事件は記憶に新しい。すんでの所で御子息が踏みとどまたから、軽く足で叩かれたくらいで済んだが、誠に肝を潰した。心地よく眠ていたのに、一メートルは飛び上がて、思わずリビングを二週走り回た程である。そんなこともあるから、寧ろ軍靴音高く踏みならすが如く、爪でフローリングを叩いて自らの居場所を人間にアピールするのは一つの安全策なのである。
 静謐なる居間に辿り着く。庭を一望できる窓際に寄て外を眺める。犬にも偉いのと偉くないのがいると見えて、庭の小屋には図体がでかいばかりのゴールデンレトリーバーが眠ている。こいつは偉くない犬である。我が家の警備兵に過ぎぬ。不審人物が視界に入るや、わんと鳴くのが使命である。一方、私は生まれてこのかた安寧たる居城に主人と暮らし、寝床を共にするくらいであるから、ゴールデン君より余程偉いと考えてまず間違いない。
 主人は現在、外出中である。日曜だというのに朝早く慌ただしく身支度を整えると、我らに食事を与えー無論、我々犬はいつでも何でも食べたい性分だから、食事に夢中になてしまたー気がついた時には既に遅し、玄関のドアが締まる音がした。犬たちはお留守番というわけである。
 ゴールデン君は気にも留めず恬然と皿をぺろぺろ舐めていたが、私はそのことについて非常なる不満を抱いている。この感情を憤慨と名付けても全然羊頭狗肉にはならんであろう。平生愛嬌を振りまく我が相貌も、今日ばかりは鬼も圧する虎の如き面相になていまいかと怪しまれるほどである。試しにちと鏡を覗いてみたら、やはり愛らしいトイ・プードルの柔らかい毛並みが輝いているだけだた。やあ可愛らしい。・・・しかし高ぶる怒りは本物である。
 私は主人を裏切り者と罵らねばならない。
 ー今日はドグランに行く日では無かたか。
 この日を私がどれだけ楽しみにしていたことか。昨夜あれほど私が腹を空に向けて忠誠を誓たのは、しぽを惜しげ無く振りに振て主人の手を舐めたのは、ドグランに連れて行てもらえる悦びの発露なのに違いなかたのだ。
 怒りのエネルギーを床に放出するが如くしばしカートにごろごろ背中をこすりつけた後、私は御子息の様子でも見に行く事にした。階段を駆け上り、半開きの戸をくぐる。神経質な御子息は部屋をいつも綺麗に片付けている。しかし事によれば、これは私の為にやていることかもしれん。
 確か私がこの家に来て間もない頃は、御子息の部屋はそれなりに散らかていたと記憶している。と言ても、脱いだ靴下なり学校のプリントなりが床に投げてあるという程度であたが。その頃の幼き私は、好奇心の赴くままに、何でも口に入れては飲み込んでいた。ある夜の事、御子息が机に向かているのを尻目に床に寝転がていると、うかり落としたと思しき消しゴムの欠片が我が鼻先に転がて来た。私は反射的に一も二もなくそれを飲み込んだ。味気ないし噛み応えもない様だ等と思ているや、御子息は私がそれを食たのに気付いたらしく、猛烈な勢いで私の顎を掴み、口の中へぐいぐい指を入れて来た。私は訳が分からずいやいやしていたが、しばらくしてようやと私が既に消しゴムを飲み込んでしまたのだと気付くと、御子息は聞いた事も無い大声で主人を呼んだ。非常な表情で、何か狼狽している様だた。如何程高級な消しゴムを食てしまたのだろうと私は内心気が気で無かた。「ルルが消しゴムを食べた!」と御子息が言うと、「そのくらいは大丈夫でしう」と主人は答えた。しかし御子息は引かず靡かず「胃に悪いかもしれない」とか何とか言て、私を病院に連れて行かせたのである。消しゴムが胃に悪いかどうかは知らないが、病院というのは非常に私の胃に悪い。あそこで良い思いをしたためしが無い。それはともかく、どうやら御子息は私の身体に気を遣てくれたらしかた。無論消しゴムごときでどうもなりはしなかたが、あの御子息の動揺と見ればこちらの方が気の毒になた。私の身の心配をしてくれるのは嬉しいがどうも過保護な様子である。以来、御子息の部屋の、私の口の届く範囲には何も転がておらんという分けだ。
 日曜の昼前であるからか、御子息はまだ休眠中である。大学受験とかなんとかの為に毎夜遅くまでかりかりやているらしいが、さすがに日曜日は我ら犬同様にごろごろするのだろう。
 実を言えば主人の無い今、無聊の癒しに付き合て欲しかたのだが、しかし起こすのは気が引ける。一応挨拶がてら、ぴんと飛んで御子息のベドに乗り込む。膨らんだ布団をのそのそかきわけて枕元へ到達したところで、私はぎとした。
 御子息の額に、何か白い横長のものが貼りついている。しかもその顔は赤く火照り、うすら汗をかいて苦しそうだ。ー何か病気らしい。
 そと鼻先を汗ばんだその頬に当ててみると、成る程いつもより熱い様だ。慰みになるかわからないが頬を何度か舐めてみた。あまり刺激して御子息を起こすのは本意でないので私は部屋を後にする。そして推測する。思うにあの様子は何年か前に主人が罹たことのある風邪という奴のせいだろう。健康体そのものの御子息も、これは毎夜の無理が祟たと見える。
 気の毒な事だ。しかも自分にはとりわけ助力できることも無いのだから、尚更気の毒だ等と思案している内に、主人の車のエンジン音が遠くに聞こえて来た。どうやら主人が帰て来た様だ。ドグランの屈辱の件はすかり頭になくなていたが、主人が来た事を思うと怒りが再燃してきた。否、先よりもその火勢は増したと見て良い。ドグランは大目に見る事も百歩譲て出来ようが、御自らの息子が臥せている時に屋を空けるとは如何なる不義か。
 が、しかし犬の本能には逆らえない。やはり主人が帰て来たというそれだけで嬉しくて敵わん。玄関の開く音と共に私は尾を振りくんくん鳴きながら出迎える。
「ただいまー
 と主人は言いながら私の顎を白磁のごとき美麗な手で撫でくすぐる。私はたまらず仰向けになる。暴れ回る尾は床を叩いている。しかし主人はさと立ち上がて買物袋をリビングへ運んでいてしまう。私は仰向けのまま玄関に取り残された。いささか不満を覚えつつも私は後を追て主人の脛にすり寄りながら忠誠心を露わにする。普段は決して、こんな媚びた真似はせぬ私ではあるが、留守番の後だけは如何ともし難い程はしいでしまうのだ。冷静になるまでしばらくかかる。
 主人はどうやら御子息の風邪に今朝気付き、色々のものを大慌てで買いに行たらしい。買物袋からは薬品の様な匂いもした。人間用の病院は営業していない日もあると聞く。そのために御自ら看護せざるを得ないというわけだろう。主人は私やゴールデン君の主人としても、また御子息の母親としても甲斐甲斐しいことこの上ない性質の持ち主であるから、息子の風邪に罹た日とくれば全く怠る事をしないに違いない。
 してみれば、ドグランが後回しになてしまうのも宜なるかな。私は怒りの矛を収める。
 主人は粥を作り、水や薬などを盆に載せて御子息の部屋へ運んだ。
「お腹すいてない」
 御子息はベドに横になたままぶきらぼうに言た。
「ちと食べなよ。そしたら薬飲んで寝ていいから」
 私は不安げに両者の顔を見比べるしかできない。粥からは垂涎を禁じ得ない香りが漂ているが、ここは我慢すべきだろうと己を戒める。しかし、もしかしたら余たのを貰えるかもしれんと希望は抱いておく。
「冷めちう前に食べなよね」
 主人は盆を机の上に置いて部屋を出て行てしまう。私は主人の後を追たものか、御子息の元に残て励ますべきか迷たが、結局残る事にした。粥の運命を見定めねばならない。
 御子息は大義そうに布団をはぎ、億劫そうに椅子に座た。水を飲み、匙を手にした。きちんと食べるつもりらしい。思えば御子息は全く真面目で孝行者である。母親の言う事に逆らたのを見た事がない。主人と忠犬という私の持つ関係以上に親子の関係に信頼のある事は間違いない様だ。おかげで私の分の粥は残りそうもない。
 そうとわかれば食事を端から眺めているのも迷惑だろうと私は主人のいるリビングに戻た。主人は野菜と果物のジスを作ろうとしていた。キチンの上で様々の食材が切り刻まれてはミキサーの中へ放り込まれている。私は主人の足下で上目遣いしてみる。持ち得る愛嬌を惜しまず発揮する。而して私は人参を賜た。
 くわえた人参を食べる場所を探してリビングを歩いていると、窓の外のゴールデン君と目が合た。気まずい事この上ない。しかしこれは私の人参だ。「食い意地が犬の意地」と近所のセントバーナードの好々爺も言ていた。私はすぐさまむしむし食べてしまた。
 すると慈悲深い主人は庭の窓を開放して、ゴールデン君が屋内に入れる様にした。警備兵のゴールデン君も、一日中屋外に置かれる事はほとんどない。ゴールデン君は控えめに長い毛の尾を振て、私の佇立するリビングへ入り込んだ。私はとりあえず「よう」と挨拶してみた。ゴールデン君は「うん」とだけ返して、主人の居るキチンへのそのそ歩いていくので、私もそれに従てまた野菜か果物の切れ端を頂こうと考えた。しかしすぐミキサーが非常なる轟音を響かせだしたので私とゴールデン君はそろて飛び上がて、リビングのソフの裏に非難した。
「この音には慣れないね全く」
 私は言う。
「そうね」
 とゴールデン君は不安そうにソフから頭を覗かせてキチンを見つめる。よほど野菜の切れ端を貰えなかたのが口惜しいのだろう。
「ねえ、タクミちんは?」
 ゴールデン君は閑話休題とそう言た。タクミとは御子息の名である。いやに馴れ馴れしい雌犬だ。
「病に臥せている。しかし心配ない。あの野菜と果物の汁を飲むと、頗る元気になるらしい」
「そうなの? じ、わたし見て来る」
 ゴールデン君は言うが早いがすと立ち上がて二階へ駆け上て行く。それと同時くらいに、ミキサーの音が止む。キチンを覗くと、主人は橙色のとろみのある液体をグラスに注いでいた。是非とも味見したいが、チンスはないだろう。野菜ジスを注ぎ終えた主人はそれを二階の御子息に運ぶ了見らしい。私もその後に付いて行く。
 斯くして、御子息の部屋に我が一家の全員が集まる事となた。
 御子息は半纏を着てベドの上で上体を起こして本を読んでいた。顔が赤いのでなんだか心配である。私は御子息の膝の上に丸くなてみた。己の体温で暖めてやろうという作戦である。ゴールデン君は顎をベドの端に乗せて、思慕に濡れたその眼を御子息に向けていた。主人は御子息の机に野菜ジスを置いて、こう言た。
「風邪の時くらい勉強はよしなさいな」
 叱責とも、哀願ともとれる声音だた。
 御子息は聞く耳持たぬ様にじと眉も動かさないで本に眼を落としてる。風邪なぞなんのそのといた風だ。
「ねえ聞いてる?」
「・・・聞いてるよ」
 不承不承と答える御子息。しかし本を読むのを止めはしない。主人はその態度が気に食わなかたらしい。
「受験勉強大変なのはわかるけど、身体壊したら元も子ももないのよ」
 と強く言う。なるほど道理である。御子息の態度も、甲斐甲斐しく風邪の世話をされている者のそれではないし、どうも不穏である。私もゴールデン君もそわそわしだす。
「国立じなきいけないんだから・・・勉強しなくちうがないじないか」
 御子息はそう返す。学資というのは随分かかるらしい。御子息が言ているのは、そういう問題のことだろう。二人親子二匹犬のこの家庭に負担をかけたくないという意地らしい。これもこれで御子息の道理であて、孝行者のなせる頑固であろう。しかし家族のためを思て努力していても、今こうしている様に意見が合わず不和を為してしまうというのは、端から見ていると何とも歯がゆい。
 母は子の身体を心配している。子は母のためにその気遣いを捺してでも勉強しようとしている。互いは互いのためを想ている。しかしこれが合致していないのである。意地がぶつかりあて主人と御子息は無言の内にぴりぴりと攻撃し合ている。部屋の空気が重く冷たく感ぜられる。時計の針の音だけが鳴り響くこの静寂が私は嫌いである。
 何故この親子は素直にならないものか、事情は知らぬ。
 しかし私には何も出来ない。ただ寄り添て見守るだけだ。これが犬の道理である。
 この静かなる争いは長く続かなかた。主人が折れたためだ。
「じあこれ飲んで、早めに寝なよね。おにぎり作ておくからお腹すいたらキチンで食べて」
 主人はまるで何もなかたかの様にそう言うと、ささと部屋を出てしまう。これで互いの意思疎通は満足なのであろうか? 部屋には宙ぶらりんな、虚しい争いの爪痕だけが残たような気がした。きと御子息にもこの虚しさがわかている。主人が部屋を出るや否や、あれほど意地張て読んでいた本をささと閉じて、野菜ジスを一気に飲み干す。大きく息を吐きながら空のコプを机にことりと戻すと、御子息は立ち上がて部屋の照明を落とした。
 それからひとしきり、御子息はゴールデン君と私を優しく撫でた。毛並みの一つ一つを確かめるような穏やかさだた。本当は母親に捧げるべき優しさが行き場を失て、私たちに向けられたような、そんな慈しみを覚えたのは勘ぐりすぎであろうか。
 気がつけば夕方だた。一階に降りると、主人は夕飯を作ていた。キチンで包丁をふるている。私は先の事で主人が気を落としていなければ良いがと、その足下にくつく。私に気がついた主人は見下ろして言た。
「そろそろルルちんも夕飯だからね」
 やたあ! と私は尾を振る。


下 老犬の愛

 車のエンジン音でわたしは目覚めた。この音ははわたしの飼い主である椎名ユミの軽自動車だろう。夢とうつつの境界線上で、わたしは遠ざかて行くその低い唸りを聞いていた。
 日は既に昇りつつある。年老いたわたしはもうあまりに多くの習性を失ている。獲物を追うはずの足はもはや朝晩の散歩にしか用いない。わずかな物音にも目覚める敏感な耳は、エンジンの音にようやと反応する。全身が重たく、終日犬小屋に腹這いになるしかない。偶然に目覚めたけれど、どうして起きている必要があるだろう? 再び安穏としたまどろみに入るに如くはなし。
 すると私の住む庭に面した一階の窓ががらがらと音をたてて開かれる。タクミちんが、今起きたという顔をしてそこに立ている。わたしは鍵のされていない小屋の戸を鼻で押し、庭にでる。寝間着姿の彼は窓枠に座り、おいでと手を振る。わたしは従順に、その手の中に吸い込まれてゆく。


・・・・・


 わたしが椎名家にやてきたのは十余年前のこと。椎名ユミにはまだ夫がいて、タクミちんは他の人間と同じとは思われない程小さく、そして純粋だた。タクミちんとわたしは、まるで姉弟みたいに、一緒に、並んで育た。最初はわたしのほうが大きかた。同じ四つ足で歩いていたタクミちんはとても遅く、はらはらするほど危なかしかた。わたしはいつでも彼のよたよたとおぼつかない姿を見ては、怪我をしないかと心配していた。それは飼い犬の領分を越えた、滑稽な庇護欲と言える。いま思えば、冷笑を禁じ得ないほど、わたしは愚だた。
 愚は災いする。
 ある日、タクミちんが椅子によじ上ろうとしているのを、わたしは見つけた。椎名ユミは家事仕事でもしていたのか、近くに居なかた。やぱりわたしははらはらしながら、彼の後ろ姿を眺めていた。眺めていただけなら良かたが、わたしは、彼に危険が及んだ時には、助けてやろうという、使命感を抱いていた。無謀な使命感は、余計なお世話とも勇み足とも呼んで、相違ない。
 タクミちんがよじ上ろうとしていた椅子の上には、ケースに収納されたアイロンが乗ていた。テーブルの上を掃除していたのだろう、その椅子の上には畳まれた新聞紙とか、テレビのリモコンとかが、やはり椅子を一時的な置き場所として雑多に置かれていた。
 わたしは、タクミちんの手が、そうした色々が乗せられた新聞の端に触れたと思た。その次の瞬間。気がつけば、身体が動いていた。全てがスローモーンに見えた。引張られた新聞が落ちる。その上に乗ていた色々のものが落ちる。アイロンがバランスを崩す。
 わたしは四肢の肉が、骨が、痛む程、駆けた。タクミちんとの距離は数メートルも無かた。床板には大地を掴もうとした爪痕が残たかもしれない。それでも構わなかた。わたしは滑る床の上を全力で飛び、タクミちんの後ろ首を深く咥えた。犬の親が子犬を運ぶ時にする常で、本能的にそうしたのだと、言う他無い。しかし確かに彼を咥えたわたしは全速力で、アイロンの落ちる危険地帯から、彼を運びだしたのである。
 ついさきタクミちんが居た場所で、けたたましい音が響く。アイロンのプラスチクのケースは欠け、破片が飛び散る。アイロン本体は床に一度はねて、ごろごろと床を滑る。リモコンや何かが、それを装飾するように床に転げ落ちる。
 一瞬で騒音は過ぎ去り、逆にぞとする程の静寂が訪れる。
 危機一髪だた。と、わたしは思た。
 その時、やとこの事態に気付いた椎名ユミの夫が、リビングのこの現場に顔を出した。スリパを履いた足で散らかた床をさらに蹴散らす勢いで、彼はわたしに近づく。
「くそ! 離せ!」
 彼は言た。彼は言いながら、タクミちんを引きはがす様にして、わたしの口から取り上げた。タクミちんの首には、わたしの歯形が、赤く残ていた。そしてやとさきの大きな音のシクから我に返たタクミちんは、大声を上げて、泣き出した。
 そこへ、ユミが緊張の面持ちでやてきた。
「どうしたの?」
 彼女は散らかたリビングの惨状と、むせび泣くタクミちんと、わたしとを怪訝に見比べた。目撃者不在のリビングで、散乱した様子と泣きじくる子どもと、乱暴に首を噛んでいたわたしを見て、彼らは何を推察しただろう?
「お前、犬はちんと見ておけて言たろう!」
 夫は、青筋を立てて怒鳴た。抱きかかえられたタクミちんは、怒声に驚いたのか、今度は静かにしくしく泣き始めた。
 わたしはとにかく、混乱していた。その後椎名家でどんな話がされたのか、わたしは知らない。わたしはその日、家の物置部屋に閉じ込められていた。おそらく一晩の間、埃くさい、狭い部屋で困惑しながら、ただその部屋の暗さに怯えて過ごした。翌日、わたしは物置から解放されて、ユミに引かれながら、真新しい、塗装臭い庭の小屋に入れられた。鉄の檻が周囲に施されている。わたしが使ていた餌の皿と、水の皿がそこへ置かれているのを見て、わたしは・・・。
 数年の後、夫は家から出て行た。わたしは何も、何も出来ずに窓の外から椎名一家の不幸をじと毎日見ていた。夫が居なくなてからは、ユミはわたしを家の中に入れようとした。しかしわたしは、もう彼らに愛される自信を失ていたから、ある程度屋内でユミとタクミちんに触れ合うと、犬小屋に戻りたくなた。そこに居る限り、わたしは何もできないが、何も起こさないで済む。
 幼い頃の蜜月を、タクミちんは覚えているだろうか? 覚えているとしたら、わたしのよそよそしい振る舞いを、どう思ているだろう?
 わたしはこの間、ユミとタクミちんとの不和を見た。喧嘩でも何でも無い、ただの意地の張り合いだた。大学受験を控えた息子、父も無く、他所の子ども達と同じ様に育てられるだろうかと不安に襲われ続けたユミ。父がなくとも、一人前の人間に育つと母に応えたい故に、自分の弱さを見せたくないタクミちん。こんな歪な親子関係をわたしは、ずと窓の外から見て来た。
 わたしも、母も子も、全てが何かを欠いていて、感情を素直に見せられない。椎名家はずとそんな具合だた。
 けれど、とわたしは思う。


・・・・・


 わたしはタクミちんに率いられて家の中へ入た。
 リビングに参考書を持て来て、タクミちんはせせと手を動かしたり、首を回したりする。彼が座ている椅子は、あの椅子である。雑多に椅子の上に物が置かれることは例の一件以来一切無くなた。ユミは甲斐甲斐しい母親なのに違いなかた。
 それから、何時間も穏やかな時が過ぎた。リビングには鉛筆がノートを掻く音と、ソフに寝転がるわたしの鼻息だけが響いている。
 この時よいつまでも続けかし、と思た矢先に、車のエンジン音が近づいて来た。ユミとルルがドグランから帰て来たらしい。わたしと、タクミちんが玄関の開く音に反応したのはほぼ同時だた。
 それから「ただいまー」とユミ。そしてしかしかと床板を掻きながら尾を振り振り、せつくようにリビングに飛び込んで来たのは、無論ルルである。穏やかな時間はこいつによて打ち砕かれた。
 ドグランがどれだけ楽しかたか知らないが、舌を口から垂らしながら、らんらんと眼を輝かせ、「いや、ひと走りしてきた。実に良い運動だた」などと息切れながらわたしに言う。
「それは良かたわね」
 とわたしが返すのを聞いたかいないか、ルルはタクミちんの足下に駆け寄り、その膝の上によじ上る。
「ちと、ルル、ルル」
 タクミちんは慌てるが、構わずルルはタクミちんの膝の上に飛び上がり、彼が広げていたノートの匂いなどを嗅ぎ始める。タクミちんは素早く文房具をしまて、ノートも参考書も閉じてしまう。ルルが帰て来るといつもこうだ。ところ構わず、人にすり寄ては、尾を振り、ぺろぺろと舐め、無償の愛と忠誠を誓て飽かない。
 この馬鹿正直者がこの家に来てからというもの、わたしも、ユミもタクミちんも、大いに振り回されて、苦笑いを湛える他無い。
 ユミはドグランの荷物をさげてリビングに入て来る。ルルはタクミちんの膝の上から飛び降りて、まだまだ身体を動かしたいとばかりにリビングを走り回る。ルルから解放されたタクミちんは立ち上がて大きく伸びをする。
 ソフに寝転がりながらわたしはふと、自分の尾が、愉快そうに左右に揺れているのに気がついた。
 


おわり
← 前の作品へ
次の作品へ →
5 投票しない