メタモルフォーゼ
一週間後、私たちの運命は変わる。
秋のけはいが濃くなるにつれて、教室の中はなんだか言葉少なになり、休み時間もみんな机に座
って傷だらけの机面をぼんやりと眺めていた。担任の小沢先生は教室内の自分の机から私たちの様子をうかがっていた。いつもプーマのジャージで、男の子にお尻を撫でられては真っ赤になって怒る。先生になって三年目、初めて六年生の担任になった。つまり、私たちのような子どもの相手をするのは初めてだ。大人はいつも自分の体験から子どものやることを簡単に決めつける。でも、これについてはそうはいかない。体験そのものを憶えていないからだ。
夏休みの間、私たちはお父さんやお母さん、お兄ちゃんやお姉ちゃんが「どっち」だったのか、さんざん噂し合った。そうしていないと気持ちが壊れてしまいそうだった。プール開放後の校舎の陰で簀子に仰向けになりながら、小沢先生はたぶん「変わった」んじゃないか、とみんな一致して言った。
「でも、何だったんだろうな」
隼太が声を潜める。隼太は本気で心配していた。それについては私も興味があった。いつも女の子の胸やお尻に触ってばかりだった隼太が今度は触られる側になって、目に涙を浮かべているさまを想像すると、可哀そうというよりもなんだかどきどきしてくる。
「見た目どおりだったんじゃね? そういうケースもあるみたいだし」
桃矢はいつもそうやって白けさせる。家がお医者さんで、頭が良いと自分では思っているけれど、実はあんまり賢くないと思う。頭の良い子はただでさえ反感を買いやすいと自分でわかっているから、例えば耀司みたいにみんなで遊んだりするのをメインにしたり。平気でひけらかして付き合いも悪いんじゃ、実はバカなんじゃないかってみんなに思われるのも当然だ。
「私、すっごい楽しみだよ。全然怖くない」
麻耶が水着袋を頭上トスしながら笑う。特に男の子たちはこっそり顔を見合わせる。とにかく身体を動かすのが大好きで、四年生までは体育の時間は無敵だった。町で行われる「記録会」にはいつも出場していて、賞状を貰っていた。田舎住みの私たちがトロフィーや盾、メダルの実物を初めて見たのは全部麻耶が獲ったものだった。五年生になってから麻耶は少し変わった。もともと背は高かったけれど、目に見えておっぱいが膨らんできた。いままで運動ではかなわなかった男の子たちはここぞとばかりにからかい始めた。麻耶は笑い飛ばしてプレーしていたけれど、サッカーでもバスケでも、ここぞというときの当たりをわずかに避けるようになった。一度、片付けの終わった体育器具庫で、歯を食い縛って泣いていたのを見てしまった。麻耶はむしろ変わってしまいたいのかもしれない。でも、それだけじゃないことくらい、女の子同士だもの、わかる。
咲は何も言わず、手のひらで首筋を煽いでいた。もしかすると咲は「変わらない」側なんじゃないか、とみんな思っていた。やせっぽちで、四年生と言っても通りそうな背丈だった。もちろん「変わった」からといってそれまでよりも良くなるとは限らない。でも「変わらない」子はそのままだ。私たちのほとんどが抱えている不安の中には小さな期待のかけらが輝いている。「変わらない」子は輝きを持たないまま育って行く。それだけの話だけれど、たとえどんなにつまらなかったとしても遠足に行けなかった子の気持ちは変わりはしない。面と向かって訊くのは、いくら麻耶のおっぱいを平気で触る男の子にも無理だった。
わたしたちの夏休みは、そんなふうにして終わった。
九月の中旬になると、放課後みんなで学校裏手の丙川に行くようになった。河原にしゃがんで手近な石を取り、水で湿してそれぞれのナイフを研ぐ。せせらぎの中にしゃりしゃりという音がとけてゆく。この中には「変わらない」ことを選ぶ子だっているはずだ。それでもみんな、すくなくとも表面的には一心にナイフを研いでいる。
刃先の具合を確かめる。切れ味そのものはあまり関係がない。それでも、せっかくのナイフが曇っているのはとても恥ずかしい。
森の梢に夕陽が隠れるころ、みんなは立ち上がり、言葉少なに家路に向かう。薄暗い道は足元が危うい。虫の声が四方から迫ってくる。気がつくと芳樹と美希がしっかりと手を繋いでいた。猛と蓉子も。翼と陽菜も。それぞれ、相手が決まっているのだ。相手選びにはあまり意味がない。「変わった」あとは誰が相手だったかは忘れてしまう。もしかすると、顔も見たくなくなるかもしれない。翔と岬はこのごろ、物陰で唇を重ねている。そういうのはやめたほうがいい、とみんなが思っている。ときどき記憶が残っていて、あり得ない相手と関係したことが重荷になって精神的に壊れてしまうこともあるそうだ。私はだるくなった足を引きずりながら、みんなに遅れないようにがんばる。ふと左を見る。瞬がいた。私の相手だ。目を逸らす。色を失った地面には、深い穴に見える影が広がっていた。
その日が来た。
学校は午前中で終わりになった。給食を食べて解散になった。それぞれが相手と手をつないで、ばらばらに出てゆく。一人だけの子、「変わらない」子は最後まで教室に残って、こっそりと帰って行くらしい。小沢先生は耐えきれなくなったのか、終わりの礼とともに職員室へと足早に去って行った。
瞬が私の手を握る。目を伏せて立ち上がる。視野の隅に咲がいた。やっぱり、と思うけれど、掛ける言葉は見つからない。瞬の腕に背中を押されて教室を出る。廊下のにおいはなんだか息遣いを思わせた。
校門を出ると、それぞれの場所へと別れてゆく。晴れた日だった。陽射しは夏みたいだったけれど、膝の裏を撫でる風はひんやりしていた。小川に沿って、夏草の茂みが続いている。とんぼが、つい、と耳元をかすめる。電線のとぎれたところで、道を外れて草の中へと分け入った。スカートから出た膝を草の葉先が薙ぐ。ときどき鋭く痛む。もしかすると最後になるかもしれない。痛みがひとしきり走ったあと、じわりと痒みに変わるのを心で追いかける。
草が途切れた。
四畳ほどにわたって刈り込まれて、座れるようになっている。瞬が鞄からシートを取り出した。二人で広げて、靴を脱いで上に座る。
鞄を膝に抱えて、しばらくの間、空を見上げる。トンビが舞っている。雲はない。二人きりだ。瞬は体育座りで、組んだ指が真っ赤になっていた。
鞄を開けて、ナイフを取り出す。それから、ゆっくりとブラウスのボタンを外してゆく。瞬は顔を背けて、シャツを頭から抜いた。骨張った胸に、ちいさなつぼみが二つ見える。私はタンクトップの裾に手を掛けたまま、しばらく固まっていた。トンビの鳴き声がする。草の向こうから風が抜けて、ちぎれた穂が目の前をよぎる。その瞬間、脱ぎ捨てた。手のひらで隠したくなるのを堪えて、ナイフを手に取る。刃先に触れると、河原のセミの声が蘇ってくる。
これを、つぼみの間に。
瞬がナイフを握っている。お互いに胸の真ん中を刺し貫けば、それで終わりだ。胸に穿たれた傷から、その場で「変わる」こともあれば、家に帰って翌朝までにゆっくりと「変わってゆく」こともある。そうなれば元の記憶はなくなり、新しい身体に沿って生活が始まる。ナイフを交わす相手は、信頼できさえすれば誰でもいい。男の子同士、女の子同士というケースもあった。私は瞬を選んだ。瞬以外には考えられなかった。私より小さかったころから、いちばん弱い部分まで互いに知った上で育ってきた。瞬の胸を貫くことに固執したのではない。瞬のナイフがほかの誰かの胸に納まるのが堪え難かったのだ。
ひとつだけ、やってはならないことがあった。「変わる」にはなにかしら前兆があった。痛みや熱さや、それまでになかった感覚の芽生えだ。それがなければいくらナイフで刺しても「変わらない」。それどころか、ナイフは本来の役目しか果たさない。つまり、刺し殺してしまう。だからナイフを交わす相手にはちゃんと確かめた上で場に臨む必要があ