ないしょの話だからね、いい？
　

　あれは高二のクリスマスイブの日。
　午後九時を回っていた。
　塾の帰り、私は自転車で舗道を走っていた。２５日にクラスのみんなでクリスマス会をやる予定だったんだ。いちおう、彼氏持ちの子たちは今夜、いろいろとある。莉子や凛たちはおな中つながりでカラオケで集まったあと、こそっと抜けるらしいし、陽葵のとこは大学生の彼氏がけっこう無理してホテルのバイキングを予約してくれたらしい。どうだったのか、何があったのかを翌日、クリスマス会でぶっちゃける。そういうのがあると、いつもはビビッてしまうことも勢いでやれたりするわけで、まあ楽しみ、ってとこ。

　の、はずだったんだ。
　
　颯太とはこの春から付き合い始めた。それまでの助走期間（！？）が一年くらいあったせいか、恥ずかしい盛り上がりのないまま、ここまできた。
　ていうか、むしろはしゃぐのが恰好わるい、みたいな雰囲気が最初から漂っていた。
　これって、実はけっこう面倒くさい。
　恥ずかしさを避けるってことは、臆病なままでいるってことだ。べつに蛮勇が良いってわけじゃないけど、臆病というのはようするに相手よりもまず自分が優先、ってこと。二人きりでいて、お互いに守りを固めて手さぐりで付き合っていたんじゃ、あんまり楽しめないし、なによりもこころがボディブローを受け続けるみたいな感覚になる。
　
　そして今日。
　私たちには何の予定もなかった。
　颯太は家族でクリスマスを祝うそうだ。
「うちでは毎年、そうしてるから」
　しれっと言った顔は忘れられない。
　ここで私はブチ切れてもいいはずだった。ふざけんなよ、一緒に過ごすとか言ってただろ、って。
　でも私は、顔色一つ変えなかった（つもりだった）。
「そう」
　クリスマスイブに関する二人の話し合いは、それで終わった。
　
　ばかみたいでしょ？
　
　口惜しくて泣きたくなったか、っていうと、そんなことはなかった。
　泣く気にもなれなかった。それが気持ち悪いくらい。
　九か月近くの間、何してたんだろうな、って。
　
　夕方、塾に出かけるとき、ママが、なるべく早く帰って来なさいよ、って言ってたっけ。
　高校二年生の娘になんてこと言うんだろ？
　私は言ってやったよ。
「わかった」
　･･･何よ、笑えばいいじゃん。
　でもね、ちょっとくらいは期待してたんだ。もしかしたら最後に逆転とかあるかもしれないって。颯太が迎えに来てくれるんじゃないか、とか。お互いにふくれっ面しながら、市民会館裏手のお店でちょっとお茶飲むだけでもいい。許してあげる。ていうか、むしろ私から謝りたい。素直じゃなくてごめんね、って。めっちゃ恥ずかしい。だけど、こういう機会じゃなきゃ言えないままで終わってしまうかもしれないし。

　イヤーマッフルの向こうで風が流れている。イルミネーションで飾りつけられた街路樹はとっくに過ぎていた。暗がりの舗道には歩く人はいない。そりゃそうだ。こんなところ、タクシーだって拾えない。鞄の中の携帯電話は何も言わない。ていうか、本当に入っているの？　何とか言いなよ。お願いだから。
　素直になる千載一遇のチャンスを逃した私は、青信号の交差点を走り抜けた。信号待ちの車の中には、男女のカップルが詰まってる気がした。少子化の対策にもならない無駄撃ちばっかしやがって、とか、自分で言ってて赤面する。たぶん十二月の夜風で冷えたせいだね。ガードポールの白が、暗がりに光を曳いて伸びてゆく。

　道の左側に、青い看板が見えた。セブンやファミマを見慣れた目には、ちょっと不思議な感じがする。ローソンだった。この街ではめったに見られない。ママによると昔はむしろローソンしかなかったそうだけど、いまでは駅裏に一軒あるだけだ。元ローソンだったところは居抜きで改装されて、不動産屋や携帯ショップ、激安美容室とかになっている。
　道沿いの青い看板はどこかくすんでいた。駐車場は軽自動車数台をはみ出し覚悟で突っ込める大きさだった。お店のウインドーは白く曇っている。並んだゴミ箱の投入口は半開きで、家庭ごみらしいビニール袋が力いっぱい押し込まれていた。
　私は自転車のスピードを緩めていた。
　お店の入口にピングのダウンジャケットを着た、小学校低学年くらいの女の子が立っていた。
　入口のドアの前に立ったまま、ミトンの両手で口を覆っている。逆光になった姿からは表情までは読み取れない。
　自転車に跨ったまま、女の子の横顔を見つめる。白い息のかけらでも見えたら、安心してペダルに足を載せられたのに。
「寒くない？」
　口をついて言葉が出た。女の子はこちらを向く。ああ、やっぱりだ。すこし吊り気味の、大きな目。肩までのストレートヘアは、あと数年で背中まで届くはずだ。
「へいきだよ」
　唇を強く結ぶ。光を受けた頬はほんのりと赤みを帯びている。
「わたし、きょうお姉ちゃんになるんだから」
　いつの間にか風が止まっていた。私の周りに雪がちらついていた。女の子の睫毛に、ひとひらがとまる。まばたきするうちにじゅわっと融ける。
「お家で待っていればいいのに」
　自転車のハンドルを握り直す。バランスは崩れない。分かっている。両足の爪先がアスファルトを捉えている。
「パパもそう言った。でも待ちきれなくて、ここまで来たの」
　入口から漏れる光が地面にいびつな四角形を描いていた。女の子の見つめる先に何があるのか、分かっていた。
「ここからだと、病院の建物が見えるから。あのなかで、ママと、赤ちゃんががんばってるんだから」
　道の反対側には暗闇が広がっていた。トラロープを張られた更地には雑草が生い茂って、いまは枯れた穂を重ね合わせている。青果市場の照明はとっくに落ちていた。
「風邪引いちゃうよ」
「だいじょうぶ。わたし強いから」
　ミトンの両手を合わせて、暗がりを見上げている。女の子の瞳には明かりが映っていた。病院の窓明かり、だろうか。一つ一つを数えられるような気がした。瞳の中の小さな明かりのなかに、仰向けになった姿が見える。その中で、まだ意志のかたちすら持たないかたまりが懸命ににじり出ようとしている。
「偉いねぇ、お姉ちゃん」
　そう呟くと、女の子は両手を合わせたままこちらに向き直った。
「あんたなんか知らないよーだ。べーっ」
　顔を歪める。本当に、見覚えのある顔だ。
　女の子の姿がなくなり、ローソンの明かりも消えて、夜風に凍えた鼻先に洟が滲んでいた。舗道の真ん中で、自転車に跨った私は、泣いたあとみたいに胸が熱くなっていた。

　こういうこと、するかなぁ、お姉ちゃん。

　マフラーに鼻先を埋めて、ペダルに力を込める。ゆらりと走り出した自転車は、スピードが上がるにつれて路面の継ぎ目に強く跳ねあげられる。街路樹の根元に、車道の明かりがこぼれている。さっきまで走っていたサニーやカローラに代わって、ハイブリッド車の影がせわしなく往来していた。

　鞄の中で着メロが鳴り響く。家からだ。
「早く帰って来なさい。一人娘なんだから」
　言い返さず、はい、と答える。
「誕生日なんだから、パパも飲まずに待ってるんだからね」

　たぶん、あの子の瞳の中には、病院の廊下の明かりもあったのだろう。
　いまより十七若かったパパは、あの日もきっと飲まずに廊下を歩き回っていたに違いない。ときどき立ち止まって、肩甲骨のストレッチを始めて気味悪がられたりして。
　あの子はあれから七つ、年を取って、それから永遠に年を取らなくなった。
　いっぱいいじめられた。いじわるもされた。泣きながらかかって行っても、平気で突き飛ばされた。腕ずくで喧嘩して、互角に持ち込めるまで、あの子は待っていてくれなかった。いまならぜったいに勝てると思う。
　まさか、それが分かったから、あんな姿で出て来たんじゃないよね？
　中央病院の旧館。向かいに建っていた古いローソン。

　これが私のクリスマスイブの話だなんて、言えるわけないじゃない。
　使えねーなこんちきしょう。

　国道バイパスの高架が近づいてくる。ロードサイド店舗の照明が眩しい。
　鞄の中で違う着メロが鳴り出した。
　自転車を止めて、耳にあてる。
「あの、きょうはごめんな。いちおう、プレゼントだけ渡したくて、家の近くの公園前で待ってるから。ほんと、ごめん」
　暗がりであの子がにやにやしながら見上げている気がした。
　自分でも情けないくらい崩れた表情だっていう自覚はある。
　つばを飲み込んで、精いっぱい憎たらしく声を出した。

「あんたなんか知らないよーだ。べーっ」

　電話の向こうで何か言っているけれど、私はすぐに通話を切った。
　だってそのままじゃ、早く帰るから待ってて、とか死にたくなりそうなことを言ってしまいそうだったから。


　それが私のクリスマスイブの話。
　絶対にひとには言わないでね。
　間違っても小説に書いたりしないでね？
　あんたのこと、信じてるから。

　嘘だけど。
　　　　　　　　　　　　　　（了）

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