鬼と恋泥棒
教室の最前列、左から三番目の席に座る女子。
土ケ谷嬉子。
彼女には友達がいない。何故だろう。苛められているというわけでもない。成績が良く、運動神経も良い。特に気取
ったところは見られない。コミュニケーション能力に問題があるわけでもない。容姿はやや古風な顔立ちだが美しいと言える。それでいて妬みや顰蹙を買うようなことはない。どちらかと言えば、彼女自身が周りを、それとなく拒絶しているように感じる。遠ざけているように感じる。
僕はしかし、そんな土ケ谷嬉子に恋している。どこに惚れたのだろう。碌に話したことはない。もしかしたら話したことすら無いかもしれない。一目惚れなのだろうか。高校二年生になって、文系クラスを選び、クラスメイトになった彼女の顔を見た瞬間、僕は彼女に惹かれていた。無意識に彼女の姿を目で追うようになった。休み時間はいつでも机で小説を読んでいる土ケ谷嬉子。僕が見る彼女の姿は、ほとんどが最後列の自席から見る後ろ姿だったが、長く艶のある黒髪、白い肌は、見ているだけでドキドキとさせられた。
ただ一つ、気になることがあった。彼女の隣にいる者の存在。いつだって恋い焦がれる気持ちで彼女を見る度に、同時にそいつの存在に悩まされる。彼女だけを見ていたい。が、どうしても隣の奴に注意を引かれる。
そいつは異質な存在だった。
恐らく僕の二倍ほどはあろうかという体躯。筋骨隆々とした体格。常に怒りを表しているかのような恐ろしい表情。まるで刃物のように先端が鋭い牙。天へ向かって尖っている大きな角。そして血塗られたような赤い肌。
鬼。
彼女の隣には、常に鬼がいる。彼女は鬼に憑かれている。
僕が鬼の存在を認識できるようになったのは、姉が自殺した後のことだった。
姉は高校一年の夏休みに死んだ。今から三年前。彼女は学校で苛められていた。口下手だった。人見知りだった。誰かに話しかけようとしても、とっさに言葉が出てこなかったり、言いたいことを躊躇う癖があった。恐らく、きっかけは些細なことなのだろう。クラスメイトが姉の癖を、笑いに変えた。姉をからかう目的だったそれが、いつの間にかエスカレートしていく。それは姉の尊厳を傷つける遊びへと変わっていった。どれだけ姉の心を苦しめられるか、壊せるかというゲームに発展していった。それを止められる者は誰もいなかった。姉は共同体の中にある、ストレスを発散するための緩衝材に選ばれた。消費される緩衝剤。あるいは共同体の中における生贄。それが姉に与えられた役割だった。姉は家でも何も喋らなかった。明らかに苦しげな表情で、食事も食べず、痩せ細っていく姉を、僕は助けることが出来なかった。気づいてやることさえ出来なかった。しかし、僕に何が出来たのだろう。中学一年生だった僕に、壊されていく姉を救う力があったのだろうか。感傷と後悔ばかりに苛まれることに疲れ、僕は一年間、姉のために心を苦しめた後で、姉のことを考えるのを止めた。僕の心までもが壊れてしまいそうだった。身近な人間を救えなかった僕が、それに苦しみ過ぎて、精神を壊してしまうのは何かが違うのではないかと感じた。僕は薄情なのだろうか。自殺した姉のことを考えない様にして、クラスメイトに恋をする僕は、もしかしたら世間に糾弾されるような存在なのだろうか。僕は姉が死んだ後に、一週間ほど気づけば泣き続けているような生活を送り、姉の死を一年ほど引きずり続け、意識的に姉のことを忘れて幸せな生活を送ろうとするようになった時に、鬼が見えるようになった。
最初に鬼を見たのは、テレビの中だった。二年前、テレビ出演を重ねることによって有名になった占い師の横に、鬼を見た。最初はテレビの演出だと思った。僕はその意味の分からない滑稽さに笑い、両親に向かって、何でこんな演出をするんだろうと話しかけた。しかし両親とも、そんなものは見えないと言った。僕が何度も執拗に鬼がいると説明しても、二人は気味悪がるばかりで、そこでようやく僕の方がおかしいのだと気づいた。鬼は滅多に見ることはない。鬼を見て以来テレビを見ないようにしたこともそうだが、街中を歩いていても、鬼の姿をほとんど見なかった。たまに見かけたとしても、駅前をふらふらと歩いていたり、公園のブランコの前に立ち、じっとブランコを見つめ続けていたり、路地の端に座って通り過ぎる人を観察したりしていた。始めは、鬼が見えてしまうことでパニックになった。泣き叫ぶほどに鬼を怖れた。鬼は、明らかに人を苦しめるような、理不尽な悪事を行い、人を殺したりする、悪の象徴たる存在だった。もし鬼が見えるということを相手側に気づかれたら、殺されるのではないかと思った。そもそも、それが本当に鬼なのか、頭がおかしくなってしまった僕の幻覚なのではないか、そう思い、僕は自分が狂ってしまったのではないかと苦しんだ。が、鬼が人襲うところを僕は見たことがなかった。僕と鬼の目が合ったこともあるのだが、鬼は僕に注意を払うどころか、何故か会釈を返すこともあった。鬼はもしかしたら、僕らが想像するような悪意ある存在なのではないかもしれない。少なくとも僕が見る鬼、僕の幻覚かもしれない鬼には、人を攻撃する存在ではなかった。そのことに気づき始めてから、僕はなるべく鬼を意識しないように生活を送ることにした。
しかし運命とは皮肉なもので、という慣用表現にもある通り、僕が恋する女の子には鬼が憑いている。人に憑いている鬼を見たのは、テレビで見たあの占い師以来だった。ほとんどの鬼は、人に憑くことはなく、たとえ人に憑いているように見えたとしても、少し時間が立てば離れてしまう。だから一人の人物にずっと憑き続けている鬼を見たのはそれが初めてだった。この鬼はいったい何者なのだろう。そして土ケ谷さんは鬼がいることに気づいているのだろうか。僕は彼女を見る度に、悩まされるのだった。
放課後になると、いつものように吉屋が僕の元にやって来て、一緒に帰ろうぜと言った。僕自身、あまり友達はいないかったが、吉屋だけは親友と言える存在だった。いつでも一緒に行動を共にした。このクラスになってから、彼とは気がついたら友達になっていた。どのような切っ掛けだっただろう。思い出せないが、とにかく吉屋は何でも話せる親友だった。親友とは得に切っ掛けがなくてもそうなるのだろう。
「今日も土ケ谷の方ばかり見てたな」
「そう?」
帰り道で、吉屋は僕の肩に手を置きながら笑いかける。
彼は毎日、僕が土ケ谷を観察しているところを観察する。そんな時の彼は何故だか嬉しそうだった。ある時に、どうしてそんな嬉しそうにするのかと尋ねたことがある。すると彼は
「恋をしている人間は幸せそうだから、それを見ていると、自分も幸せな気持ちになれるんだよ」
と言った。確かにそういうものかもしれない。不幸が連鎖してしまうように、幸せも連鎖していく。一人の人間の恋が、いつか世界を平和に変えることになるかもしれない。僕は彼の言葉に、そんなことを考えさせられた。
「デートに誘ってみるとか、せめて話しかければいいのに」
駅までの道を歩きながら、吉屋はからかうようにそう言った。
「いいんだよ。見てるだけで幸せなんだから」
鬼が近くにいるということもあってか、僕はなかなか彼女に話しかけられずにいた。まあ、鬼に関係なく女子に話しかけるのは苦手な方なのだが。
「そうか、まあ幸せならそれでいいんだけどさ。お前が土ケ谷と付き合って、もっともっと幸せになれば、見ている俺ももっともっと幸せになれるんだよ」
「結局は自分のためか」
僕は思わず吹き出してしまう。
「まっ、そういうこと。でもお前の幸せが俺の幸せになるんだから。それは悪いことじゃないだろ? お前の幸せは俺の幸せ。いい考え方じゃないか」
「ジャイアンもそういう明るい思想を持ってたら、怖れられずに済んだのにな」
「そしたら漫画がつまらなくなる。そしてドラえもんの出番もなくなる」
僕らはそんなくだらない会話をしながら駅に向かった。
地元の駅に着き、帰りのバスに乗ろうとしたところで、土ケ谷の姿を見つけたた。いや、まず鬼に違和感を覚えてそこに土ケ谷の姿を見つけたと言った方が正しいのだが、とにかく土ケ谷が駅から東方向に歩いていくのが見えた。
同じ駅を利用してたのか。
一緒のクラスになってから一か月程だが、初めてそのことを知った。それと同時に、彼女はどこに住んでいるんだろう、という遠慮のない好奇心が湧き上がってくる。僕は気がついたら彼女の姿を追っていた。これじゃストーカーじゃないか。そう思いつつも、後を付けることを止められなかった。
彼女はどんどん大通りから外れていき、川を越えた山の方へと入って行った。十五分ほど歩いた後に、とある神社が見え、彼女はその敷地へと入って行った。
ここが彼女の言えなのだろうか。
鬼が神社に入っていくというのは何とも不思議な光景に思えたが、鬼を祭る神社もあるような気がしたから、別に不思議な事でもないのかもしれない。
姿を見失わない様に急いで彼女の後を追って石段を上がり、鳥居をくぐろうとしたところで、いきなり何者かに肩を叩かれた。僕は思わず、短く息を吸いながら振り向いた。
そこには不思議そうな表情を浮かべながら僕を見ている土ケ谷嬉子がいた。
「藤村君、なんでこんなところにいるのさ」
僕がずっと抱いていたイメージよりも親しげに、明るい声音で彼女は言った。唐突のことに僕は言葉が出てこずにおろおろとしていると、
「この子がね、藤村君がずっとついてきてるって教えてくれたんだ」
そう言って、近くにいる鬼の腹をぺしぺしと叩いた。
「え……この子って」
「あれ、藤村君ってこの子が見えるんじゃないの? 良く目が合うって聞いたからそっち系の人かと思ったんだけど。ああ、もしかしてはっきりとは見えないってやつ?」
「え、あ、いや見えるよ。鬼……だろ」
そういうと彼女はパッと花が咲いたように笑顔を浮かべた。
「そうそう! いやー、やっぱり見えてるんだねえ。鬼が見える人に直接会ったのって、家族以外では初めてだよ!」
「それって、危なくないのか? というか、何で保土ヶ谷さんにずっと憑いてるんだ?」