てきすとぽい
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第13回 凶暴幻想短編コンテスト
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瓶覗きの空
(
志菜
)
投稿時刻 : 2016.01.26 00:06
字数 : 5301
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瓶覗きの空
志菜
生駒山地の上に広がる空は淡く、晴れている。
山地から西側は、大坂湾に向か
っ
て河内平野がなだらかに広がる。
宝永元年(一七〇四年)、幾度となく氾濫を繰り返して人々を苦しめていた大和川の付け替え工事より百年、旧川跡の水捌けの良さから、河内平野は綿花の一大産地とな
っ
ていた。
よく晴れた秋空の下、大きな盥を手にいた男が、穂薄が風に揺れる土手を降りていく。
男の名は辰蔵。白髪交じりの髷を持つ、紺屋辰染の主である。
が、主とい
っ
ても、見習いの職人もおらず、辰蔵を支えて仕事を手伝
っ
ていた妻も病で二年前に亡くな
っ
たため、今は一人で辰染を営んでいる。
群生する青紫の竜胆を踏み分けながら辰蔵は、抱えていた盥を乱暴に水際へ置いた。盥の中には黒々と濡れた反物がとぐろを巻いている。川縁の平たい大石の上に盥の中の反物を移すと、継ぎの当た
っ
た単の着物の裾を尻端折
っ
た辰蔵は、ずぶずぶと川へと入
っ
てい
っ
た。膝下までしかない水は沁みるように冷たい。体の節々が痛むようにな
っ
た辰蔵にと
っ
て、つらい季節がそこまでや
っ
てきていた。
辰蔵は重たげな一重の目をさらに細めて冷たさに耐え、それから太い指で岩の上に移した黒い生地を掴み、投網のように川へと流した。
一反の生地は蛇のような優雅な動きで、長々と川の中を伸びてゆく。生地から藍色の煙が滲みでるが、すぐに川の流れに洗い流され、辰蔵は藍色の生地を手繰り寄せると固く絞
っ
た。節だ
っ
た大きな手は爪の中まで濃藍に染ま
っ
ている。
絞
っ
た反物を盥の中に投げ入れ、辰蔵は別の反物を手にした。ようやく晴れたこの天気のうちに、たま
っ
た仕事を片付けていかねばならない。膝や腰の痛みを気に掛けている暇はなか
っ
た。
何本目かの反物を水洗いした時、からりと乾いたような声が聞こえた。
「せいが出るね
ぇ
」
ちらりと顔を上げると対岸の楠の下に、隣に住むおみつという名の女が立
っ
ていた。対岸とい
っ
ても川幅二間(三.
六メー
トル)もない小さな川である。血色の良い顔に笑みを浮かべているのもは
っ
きりと見て取れる。亡くな
っ
た妻と同い年である三十代後半の大年増であるおみつは、大きな糸車を抱えており、これから木綿問屋の手伝い稼ぎにでも行くのであろう。
「天気がいいから反物も次々に乾くね」
土手の上の物干し場には朝から干した反物が何本も風に揺れている。辰蔵は、おみつの言葉を聞き流した。一度相手にしたら話が長引くのは、経験上いやというほど分か
っ
ている。
死んだ妻はおとなしい女であ
っ
たが、にぎやかなおみつとは気があ
っ
ていたようである。隣近所で同い年ということもあり、事あるごとに行き来していた。紺屋の仕事が立て込んでいる時など、伸子張りや棹干しなどを手伝
っ
てもら
っ
たこともある。それはありがたいのだが、一向に止まない話好きには癇癪を起こしたこともあ
っ
た。妻が死んでからは、たまに作りすぎた惣菜を持
っ
てくるくらいで家に上がり込むことはなくな
っ
たが、小うるさい存在には変わりなか
っ
た。
おみつの言葉を聞き流しながら、辰蔵は次々と染物を流してい
っ
た。
仕事はいくらでもある。この分を干したら、藍瓶の様子を見なければいけない。染めに使う藍は発酵させなければならず、痛まぬように疲れさせぬように世話をする必要があるのだ。この作業は二年前に亡くな
っ
た妻が得意としていた。
『ぬか床と一緒。耳を傾けて、手を掛けてやればち
ゃ
んと応えてくれますよ』
そう言
っ
て、子供の世話をするように朝夕となく掻き混ぜたり灰汁を足したりと手を掛けてくれていた。
子供といえば
――
水を吸
っ
てぐ
っ
たりと重みを増した布を手繰りながら辰蔵は、胸の痛みに小さく顔をしかめた。
一人娘のおたまは、手首まで藍に染ま
っ
た辰蔵の手を嫌がり、年頃になると口入れ屋を介して奉公先を決め、さ
っ
さと出て行
っ
た。
村の小さな紺屋であり、暮らしは決して楽とはいえないが、不自由はさせていないつもりであ
っ
た。なのに、親を捨てて出て行くような真似をする薄情な娘であ
っ
たことが、辰蔵を腐らせていた。
娘だけでない。
雇い入れてもすぐに辞めてしまう若い職人たちにも愛想を尽かしていた。仕事が厳しいのは当たり前だ。機嫌をと
っ
て仕事を教えこまなければならないくらいなら、若い衆などいらないと開き直
っ
てすらいた。
そんな辰蔵を支えてくれていた妻であ
っ
たが、長い間、病を押し隠していたのであろう。気づいた時にはすでに手のうちようはないと、村で唯一の医者に告げられたのであ
っ
た。
そこで初めて、辰蔵は気づいた。
た
っ
た一人の理解者であ
っ
た妻の病さえ気づけなか
っ
たことで、誰も自分についてこないのは、人の気持ちを察することの出来ない自分の傲慢さに原因があ
っ
たことに。娘や、若い職人たちが、冷たいのではなか
っ
た。
職人はいい仕事さえしていればいいという矜持が揺らいだ。
その上、辰蔵の仕事を手伝
っ
てくれていた妻がいなくな
っ
たことで、仕事にも支障が出た。
藍とい
っ
ても染める回数によ
っ
て濃淡があり、呼び方も変わる。辰染では濃いものから順に、止紺、紫紺、紺、藍、納戸、縹、浅葱と続き、あるかなきかの一番薄い色を瓶覗きと呼んでいた。藍瓶の管理と、呉汁塗りは、妻に頼むことも多か
っ
たため、一人にな
っ
た今では、思うような色を染め出すことも難しくな
っ
ていた。呉汁とは大豆の絞り汁のことで、色が鮮やかに染まるための布への下ごしらえとして必要なものである。
自信の喪失から店を畳むことも考えたが、昔から懇意にしてもら
っ
ている得意先を見捨てることもできず、あがくような思いで、黙々と目の前の仕事をこなしていた辰蔵であ
っ
た。
「おかつさんが亡くな
っ
て、辰蔵はんも一人で大変だね
ぇ
」
不意に、妻の名前が出たことで辰蔵はうろたえた。考え込んでいる間、いつの間にか手は止ま
っ
ていた。消沈した表情を見られていたかも知れぬ羞恥に、辰蔵は土手の上のおみつを見上げ低く言
っ
た。
「ぐずぐずまだおりくさ
っ
たんか。早う行ね」
だが、辰蔵の暴言に慣れているおみつは、ひるむことなく、口調にやさしさをにじませて言葉を続けた。
「忙しいのはわかるけど、辰蔵はんも体に気をつけなよ」
「も、
っ
てなんや」
辰蔵の胸に、切り裂かれるような痛みが走
っ
た。
おみつと楽しそうに笑い合
っ
ていたやさしい妻の顔が、脳裏をよぎる。
洗い終えた反物を叩きつけるように盥に放り込むと、すくいあげるようにおみつを見据えた。
「辰蔵はんも、
っ
て、も、とは誰のことを言うてんや? 死んだかか
ぁ
のことか? 忙しさにかまけておれが殺したとでも言うんか」
おみつの顔から笑みが消え、目がす
っ
と細められた。言いがかりだとは分か
っ
ているが、勢いに言葉は止まらなか
っ
た。
「博打に狂
っ
た挙句、若い女を連れて逃げた旦那を持
っ
たおまえに言われたないわ」
今度はは
っ
きりとおみつの顔が青ざめるのを認めた。引きつ
っ
た表情を見て、辰蔵は即座に後悔した。
人には誰も、触れられたくない心の痛手があるものだ。亡くな
っ
た妻と仲が良か
っ
たとはいえ、賢しらに口を挟んでくるおみつを言い込めたいばかりに、言
っ
てはならないことを持ちだしてしま
っ
た自分の心の狭さを、辰蔵は恥じた。
「すまん。言い過ぎたわ」
潔くぼつりと謝
っ
た辰蔵に、おみつは笑みを浮かべてさばさばと言
っ
た。
「か、かまへん。ごめんね、うちも余計なこと言うてもうたわ」
明るい口調が却
っ
て無理をしていることを感じさせる。おみつは糸車を担ぎ直し、少し早口で言
っ
た。
「おたまち
ゃ
んは忙しいん?」
娘の名前に、辰蔵は堅い笑みを浮かべてみせた。
「かか
ぁ
が死んでからは薮入りにも戻
っ
てけえへんわ。おれしかおらん家に戻
っ
てもし
ょ
うがないと思うとるんやろう」
「そんな薄情な子と違うやんか」
藪入りとは年に二回、奉公人が実家に帰ることを許された休みである。大坂の問屋町にある太物問屋に奉公に出ている娘であるが、正月以来帰
っ
てきていない。ちなみに、太物とは絹織物を扱う呉服に対して、綿織物や麻織物を指す。
辰蔵は苦笑した。
「薄情な娘や。あいつを小さい頃から知
っ
てるおまえも分か
っ
てるやろ。おと
っ
つあんやおかあち
ゃ
んみたいな手になりたない
っ
ていつも言うてたやろ。この稼ぎで育ててもら
っ
た恩をなんやと思てんや」
つられたようにおみつも苦い笑みを浮かべた。
「そり
ゃ
……
まだ若い娘さんやからよ。うちか
っ
て若い頃は少しでも肌を白くしようと糠袋で必死に擦
っ
てたわ。畑仕事を手伝う上に、もともとの地黒やしね」
辰蔵は川に目を落とし、力なく微笑んだ。
そんな辰蔵を見ておみつは、さて、と声を張
っ
た。
「長々と邪魔して悪か
っ
たね。うちもそろそろ行くわ」
「ああ」
辰蔵も川から上がり、腰にぶら下げていた手ぬぐいで足を拭
っ
た。川の中でぼんやりとしていた時間が長か
っ
たためだろう。足だけでなく体中が冷えき
っ
ており、麻痺したように重い。しかし、体は重いが、久しぶりに人と会話をしたことで、心が少し軽くな
っ
ていることに辰蔵は気づいた。
「ほなね。あまり無理せんようにね」
おみつの背を見送りながら、辰蔵は不意に寂しさを感じ、そんな自分にうろたえた。
せ
っ
かくの晴れの日、溜ま
っ
た仕事を片付けていかなければならない。妻を失おうと、娘に嫌われようと、俺は紺屋として生きていくしかない。寂しさなど感じている暇はないはずだ。
そう思おうとしたが、おみつとの他愛ない会話が、家族があ
っ
た頃のぬくもりを思い出させた。
このまま、死ぬまで一人なのだろうか。
そんな暮らしには慣れているつもりでいたが、なぜか脱力するような虚しさを感じた。
よろよろと盥を抱え上げた時、
「辰蔵はん」
と、おみつの甲高い声が聞こえた。振り返ると、糸車を抱えたまま、おみつが駆け戻
っ
てきていた。その後ろにいるのは
――
「おと
っ
つあん」
娘のおたまであ
っ
た。娘の隣を歩くのは見知らぬ若い男だ。
状況を分かりかねて、辰蔵は突
っ
立
っ
たままであ
っ
た。一足早く川岸に駆け走
っ
てきたおみつは、
「おたまち
ゃ
んが、いい人連れて帰
っ
てきたよ」
と声を弾ませた。
「おたまが
……
」
おみつに追いついたおたまは、照れくさそうに笑
っ
た。久しぶりに見る娘は見慣れぬ着物のせいか大人びた気もするが、ふ
っ
くらとした頬は昔のままであ
っ
た。
「忙しくて藪入りに戻れられへんか
っ
たから、今頃休みをもろてん。今日はおと
っ
つあんに会わせたい人がお
っ
て」