いななうなない
普通の生活に飽いた人間は非日常的な世界に羨望の眼差しを向けるかもしれないように、非日常的な世界に身を置いた人間は普通の生活に羨望を向ける。普通の生活
って何だって聞かれても困るけど、それなりに平穏で、それなりの生活。そんな漠然としたイメージしか抱けやしない。具体性もなく、ただ、漠として存在するその景色をイメージしては、なんとなくそこに憧れを向けるのだ。
多分、これは普通の生活に嫌気がさしている人間も同じで、何となく漠然とした、今の普通ではない、何か別の非日常に憧れるんだろう。でも結局、そんな具体的なイメージの無い世界に足を踏み入れてみても、具体性と計画性、能動性に欠けた主体は、その世界ではにっちもさっちも行かなくなるのだろう。
具体的なイメージと主体的な努力、そして才能と幸運が有ればそんな別世界で自分の居場所を獲得できるのかもしれない。でも、憧れを夢想するだけでは、今の生活から抜け出すことなんてなかなかできない。機会があるとすれば、進学とか就職とか、そういう人生の節目だろう。けれども結局自分はぬるま湯に浸かっていることに気が付くだけで終わる。
ぬるま湯は座りがどことなく悪いし、適正な温度というわけでもない。それでも惰性で浸かっていられるだけのぬくもりはある。他の自分にあった湯に入りたいと思っても、風呂から出れば一気に寒気が襲いそうで、とても別の風呂を目指す気にはなれない。だから、俺たちはぬるま湯に浸かりつづけている。
突然、風呂の底が空けて、下の熱湯風呂にダイブさせられるというハプニングがない限り。
うちの実家は拝み屋だ。祈祷にお祓い、そして託宣。仏教と神道、そして土着の民間的な陰陽道やら道教やら儒教やらがごちゃごちゃに混ぜ合わさった拝み屋。子供のころから色んな人が来ては、親父と話をし、その後よくわからない読経が朗々となっていたものだ。近隣の人間でなく、遠くからの来訪もあったようだから、拝み屋界(そんなものがあったとしてだが)ではそれなりに名は売れていたのかもしれない。少なくとも、貧乏ではなかった。親父の仕事に関わる部屋は珍妙な札やおどろおどろしい像が鎮座していたり、物騒な武器が並んでいたりする。だが、家族のみが行くような家の奥はそれなりに真新しい電化製品が並んでいて、宗教色のあるものは一切なく、シンプルで小奇麗な造りの家だった。親父の仕事の一角が蝋燭の光だとすれば、俺たち家族のスペースは明るい電化の光だった。明確な区切りは曖昧だったけど、ある種の宗教空間と俗空間は見事なまでに分かれていた。
だから、俺が拝み屋を継ぐ道理などない。俺は普通の会社員になったりするのだろう。そんな風に漠然と思っていた。
友達の家とは色々と違う部分はあったけど、そこは家ごとの習慣の違いぐらいにしか思っていなかった。
あれが、俺の家の独自の風習だと知るまでは。
母が早くに亡くなり、父も多忙であったので、俺の世話はお手伝いの八春(ははる)さんに任されていた。僕は八春さんに懐いていたし、八春さんが連れていた七夏井(なない)は良い遊び相手だった。ただ二人とも俺のことを「若様」というのがちょっと気に食わなかったぐらいだ。
俺は「若様」のまま、今に至る。今、つまり青春の真っただ中、高校生という時代に。
「若、なんだか結界がまた破れたようだ」
鋭い眼光で俺の背後に立っていたのは十冬(ととう)だ。長身で筋肉質、高校の制服は似合わず、スーツでも切ればヤクザかヒットマンと言った風貌だ。そもそもその眼光がもはや楽しい学校生活を送ろうとするもののそれではない。
「またかよ。やっぱちゃんとやらんきゃだめかね?」
「左様」
「だけどさ、学校に勝手に神棚やら祠を作るわけにもいかんやろ」
「なればいっそ一人ぐらいは犠牲になってもらうか」
十冬のその眼の冷たさにはゾッとすることがある。十冬は本気で一人ぐらい死んだ方が事態が改善に向かうと考えている。人間の命にはさして興味もない。いや、己の群れ以外に興味がないと言ったところか。
そこへ女子生徒の格好をした四秋(ししゅう)と七夏井がやってきた。
「若様」
「わっかー!」
二人とも結界が破れたのを察知したのだろう。俺にはそれを察知する力はない。だがこの三人にはある。
まったくもって、親父の仕事のやり方を、知らないうちに刷り込まれていたのだ。八春さんと七夏井は父が俺のために作り出したものだが、十冬と四秋は俺が作ってしまったものだ。
式神、使い魔、結び魂、童子、宗派によっていろいろな呼び方はあるかもしれないが、俺は父から与えられた八春さんと七夏井、自分で作った十冬と四秋を使役する力を持っている。絶対服従というわけではないが、彼らの魂は俺の魂と結びつけられているため、俺を殺して自由になろうという野望は抱いたりしないし、それなりに信頼感のある関係を抱いている。むしろ、やる気のない俺をせっつくほど、彼らの方が仕事熱心だ。
結界を張った屋上の四隅の簡易的な石塔の一角が見事に崩れていた。
「若は仕事が雑だ」
呆れるような十冬の言葉が突き刺さる。
「若様、石をくっつけるのに木工用ボンドはダメって言ったでしょ。それで、やっぱりダメだったでしょ」
四秋も追い打ちをかける。
「わっかは馬鹿だから仕方ないよ」
七夏井の発言にはイラッと来たので石をぶん投げる。
「うぉっ、わっか危ないって!」
ふと、嫌な気配を感じた。瘴気がのぼり始めている気配だ。
「力が強まっている」
「多少、抑え込んだからな。溜めこんだんだろ」
ここ数か月、この屋上から飛び降りる人間が何人かいた。重傷で済んだものもいれば、死んだ者もいる。
きっかけは三年前にいじめを苦にした生徒が自殺した事件で、その怨霊か恨みの念が蓄積し、力をつけたために人を惹きつけるようになったのだろうと思われた。だが、おかしな点もある。屋上には普段鍵がかかっており、何らかの呪式の痕跡がわずかながらににおうという点だ。誰かが、仕掛けたのかもしれない。
夕日が血のように赤く染まる中、一人の髪の長い女子生徒が屋上のフェンスの前に佇んでいるのが見えた。
「いつの間に?」
四人に緊張の色が走った。七夏井、十冬、四秋の感覚にひっからずにここに現れたのだ。
「これで最後」
女子生徒はそうつぶやくと、俺の目を見据えてきた。「丁度いい贄」という声が耳元で囁かれた。
女子生徒の背後の影から何本もの亡者の腕が伸びてきて、俺の体を捕え、影の中に引きずり込もうとする。
「これで兄が蘇る」意識がかすれる前、そんな言葉が聞こえたような気がした。
「若様が異界に引きずり込まれたようですが、よろしいので? 棟梁」
「うむ。あやつにはいろいろと経験を積んでもらわねばならぬからな」
「しかし下手をすれば死んでしまいますぞ」
「なれば、それまで。その程度の器でしかなかっただけの事。あれには千方の四鬼の呼び水となってもらわなくてはならんからな」
「では……」
「ああ、ここは黙ってみていろ。何、俺の倅だ。この程度で死ぬほど、弱くあるまいて」
亡者たちが俺の体を奪おうと、必死にしがみついてくる。それでも、どうにか払いのけ、前に進む。
ここはどこだ? 異界? 亡者どものねぐらか?
「わっか、大丈夫ですか?」
七夏井の声だ。その姿を探してみれば、馬の姿になった七夏井がいた。馬頭観音の眷属たる本来の姿と言ったところだろうか。
「どうして、なんで、おとなしく贄になってくれないの? そうしないと、兄さんが蘇らない」
さっきの女子生徒が亡者たちを従え乍ら、近づいてくる。もはや、何かに憑かれ人間的なものを喪失しているようだ。
人間の体を持ってはいるが、その精神はどこか壊れてしまっているのかもしれない。おそらく長らく異界に浸りすぎていたのだろう。何のために? 兄、三年前に死んだ男子生徒の妹が呪式を組んだとでもいうのだろうか。兄が蘇る見込みもないのに、加害者に復讐するわけでもなく、無関係な生徒たちを巻き込んで。
「祓いは得意じゃないが。これならできそうだ。七夏井!」
「はいよ」
俺は七夏井にまたがると、七夏井は一つ嘶いて、一気に駆け出し加速した。亡者の積み重なった地面や突き出された腕をものともせずに突き進む。
そして、すれ違いざま。
「祓いは暴力! 物理で殴る! それが俺式だ!」
女子生徒の顔面を渾身の力で殴ると、その衝撃で異界にひびが入った。
「行け! 七夏井! 抜けるぞ」
「いえっさー」
崩落する異界の中で俺は女子生徒の襟を掴んで引っ張り上げようとした。だが、その手はわずかに届かなかった。
くそ、また……また救えないのか……。
その時、大きな影が視界をかすめた。狼の姿と化した十冬が口に女生徒を咥え、俺たちの後をついてきた。
夕日の光がどんどん大きくなっていた。
夕日は消えた。
満身創痍で空を見上げる俺たちの視界には星がちらほらと見えていた。
「若様は全く危なっかしいですね。見てるこっちがはらはらしましたよ」
四秋は呆れたように俺を見下ろしてくる。
「何はともあれけっかおーらい!」
七夏井はグッドサインを作りながら笑っている。
「しかし、地縛霊の類かと思えば、こんなメス餓鬼の仕業とはな」
「意外だな。十冬がそんなメス餓鬼を救うなんて」
「ふん、騒ぎがでかくなったら困るからだ」
そうして虚ろな目をした女子生徒の方に目を向ける。
「お兄さんを復活させたいからってこんなことしたのか? こんなんじゃ誰も蘇らないし、関係ない人が死んだだけだ」
「あ、あの」
さきほどとは打って変わって女子生徒には妖艶さや不気味さというものが感じられない。まるで別人だ。
「それが……わからないんです。私には兄なんていません。なんで兄がいるって思い込んでいたのか……なんでこんな呪いを作ることができたのか。そもそも呪いなんて信じてたわけでもないのに……」
「嘘は止せ。あの規模の呪式はそう簡単にできる者じゃない」
十冬が睨み付けると、女子生徒は怯えたような眼になる。
「でも、私、最近なんだかおかしくて、そうだ、あの人に会ってから、あの人と話を……あの人って誰だっけ?」
女子生徒の記憶は混乱しているようだったが、何やら不穏なものを四人は感じていた。
「仕掛けてるやつがいるのかもしれないな」
「人に偽の記憶を埋め込めるほどの?」
「記憶じゃなくても、思い込みだったらまだ簡単かもいしれない」
「やれやれ、なんだか嫌な予感しかしないな」
俺は立ち上がると、空を見上げた。月は出ていない。
「はぁ、面倒ごとは嫌なんだけどなぁ」
七夏井はそんな暗澹とした皆の気持ちを切り替えようと言わんばかりに空に向かっていなないた。