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「ふすまの向こうの文学」作品募集のお知らせ
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はちろうななこ
 投稿時刻 : 2016.01.31 13:27 最終更新 : 2016.01.31 15:59
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- 2016.01.31 15:59:39
- 2016.01.31 13:36:38
- 2016.01.31 13:27:36
はちろうななこ
永坂暖日


 夜空にかかるのは、半分より少し膨らんだ月だた。その明るさに、星の輝きはほとんど押しやられていた。
「腹が減たなあ、天助」
「そうですね、八郎様」
「疲れたからこれ以上は歩けないよ、天助」
「ちんと歩いてますよ、八郎様」
「もうすぐ歩けなくなる」
「歩けますよ」
「いや、歩けない。もうだめだ」
「でもちんと歩いているじないですか」
「天助」
「はい」
「僕はつまり、これ以上はもう歩きたくないんだ」
 天助の一つ年上の主は、峠を越えるくらいの元気はありそうである。ただ、体力はあても、やる気は尽きたらしい。天助はため息をつき、立ち止また主にならうことなく道を進む。
「天助、置いていくなよ」
 情けない声がすぐに追いかけてきた。
「がんばてください、八郎様。それもこれも、八郎様のせいなんですから」
「僕が何をしたて言うんだ」
「今のこの状況、七子様がなんと仰ることやら」
「な、何のことを言てるんだ、天助」
「茶店の看板娘がちとかわいいからといて、声をかけようかどうしようか、一時間以上も迷ていたのは八郎様でしう」
 昼下がり、街道沿いのこぢんまりとした茶店で休憩をした。そこで働いていた、十四、五歳のよく笑う娘が、八郎の心に適たらしい。しかし、気軽に声をかけられるほど八郎は女慣れしていない。それどころか、どちらかといえば人見知りである。見知らぬ同性と話をするのにも苦労するというのに、それが異性となればなおさらである。だが、それでも勇気を振り絞て声をかけたいと思うくらいに気に入たらしく、茶碗と団子を握りしめ、彼女がそばを通るたびに、今度こそ、と挙動不審になていた。
 天助は雲を眺めながら、八郎がささと声をかけてふられるのを待た。
 結局、八郎は声をかけることができず、いい加減待ちくたびれた天助にせき立てられて店を後にしたのである。
 それで、今日の夕方にはたどり着くはずだた里にたどり着けず、月が空で明るく輝いているというのに、いまだ山道を歩いている。
 伏球磨(ふすくま)家に物の怪退治を依頼した里の者たちは、もしや退治屋が食われたのではないか、とやきもきしていることだろう。
 八郎は、物の怪と戦うことを生業とする伏球磨家十二代目当主の第七子。末子ながら兄姉の中でも屈指の呪力を持ている――のだが、悪く言えば意気地がない性格が災いして実力を発揮できず、物の怪退治に向かうにも、里に到着する前からこの有様である。
 彼の姉・七子がこの場にいたら、またそんな情けないことをして、と激怒するに違いない。
「七子姉には言うな、天助」
「ばれていると思いますが」
「とにかく言うな。黙てて」
 八郎は顔を青くして、急に足早になる。今更遅れを取り戻そうとしても、目的の里に着くのは夜遅くになる。里中が寝静まていれば、どこかに宿を求めるのも難しい。ここらあたりで野宿に適した場所を探す方がいいかもしれない。ただ、野宿をするとして、心配なのは盗賊や獣ではなく――
「天助、あそこに明かりが見えるぞ!」
 道から外れた木々の向こうに、ぼんやりと一つ、まあるい光が見えた。空の星が落ちてきたにしては明るく、大きすぎる。こんな山の中に、人家だろうか。
「このあたりに人は住んでいないはずですが」
 天助は首を傾げた。今は暗くて地図で確認できないが、彼の記憶に間違いなければ、このあたりは人家どころか畑さえない。
「助かた。あそこに泊めてもらおう」
「ちとお待ちを、八郎様」
 生色を取り戻した八郎の襟足をむんずと掴む。
「ぐえ
「ここは物の怪に悩まされている里の近くです。そうでなくとも、こんな山道。いつ物の怪と出会てもおかしくないんですよ」
 物の怪は人気のないうら寂しい場所に現れ、人にとりつき、人の心を喰らい、魂を喰らい、体も喰らう。刃物や火はほとんど通じず、呪力を介した攻撃のみが有効とされ、伏球磨家のような物の怪退治屋が必要とされているのだ。
「物の怪が家を建てるものか」
 咳き込みながら、八郎が明かりを指さす。おぼろげながら、窓枠と、茅葺きの屋根が見えた。
「ですが」
「天助、おまえの持つ地図が古いのだ。最近になて、あそこに居着いたのかもしれないだろう」
「そうかもしれませんが、暮らすには少々不便そうです」
 里の近く、といても歩いて数時間は離れているのだ。
「人嫌いなのかもしれないだろう」
「でしたら、わたしたちを泊めてくれないかもしれませんね」
「ぐ……とにかく、尋ねるだけ尋ねてみればいいだろ」
 人見知りで意気地がないのに、一度決めたらなかなか折れないのが八郎である。天助はため息をつきながら、元気付いて歩く主の背中を追いかけた。

「夜分遅く、申し訳ありません」
 その家はぽつねんと建ていた。新しくはないが、古くもない。伏球磨家の屋敷とは比べるべくもないが、伏球磨家に代々仕えている天助の実家、粉久万(こくま)の家とさほど変わりない大きさである。つまり、一般的な民家だた。
「どうか一晩、泊めていただけないでしうか」
 戸を叩くと、少し間を置いて、がたがたという音がして、戸がするりと横へ滑る。
「どちらさまでしう」
 出てきたのは、妙齢の女だた。黒く艶やかな髪を緩く一つにまとめ、体の前に垂らしている。切れ長の目、小ぶりな鼻、紅をさしたような唇に、透き通るような白い肌。こんな山奥にいるのが不思議なほどの色香を立ち上らせる、文句なしの美人だた。
 あ、これはまずい。
 後ろにいる八郎の顔は見えないが、鼻の下をだらしなくのばしているに違いない。八郎にはこの美女に夜這いをかける度胸などないが、茶店の娘以上にでれでれになて、明日の朝、発つのは嫌だとかごねそうだ。
「わたしたちは旅の途中の者でして。こんな時間になても人里にたどり着けず、今宵は野宿かと覚悟していたところ、こちらの明かりを見つけた次第。ご迷惑でなければ、どうか一晩、軒下で構わないので、泊めてくださらないでしうか」
 こう言わねば、後で八郎がうるさいので天助は一気にまくし立てる。しかし心の中では、断れ、と女に念を送ていた。
「まあ、それは大変でしたね。こんなあばら屋でよろしければ、軒下と言わず、どうぞ、中へお入りください」
……たいへんありがとうございます」
 夜遅くに若い男二人がいきなり訪ねてきたのだから、もと警戒してほしい。それとも、他に人がいるのだろうか。いや待て、彼女の旦那がいるかもしれない。あの年齢ならば、いてもおかしくはない。むしろいてほしい。それならば、八郎が明日の朝四の五の言うことはない。
「女一人で、何のお構いもできませんけれど」
 彼女はことごとく天助の望みを裏切ていく。一人暮らしで、二つしかない部屋はふすまで隔てられているのみ。彼女が眠る隣の部屋で、天助たちは眠ればいいそうだ。ご丁寧に布団まで敷いてくれた。
「では、ゆくりお休みください」
 唯一助かたのは、無駄な話はほとんどせずにてきぱきと寝床を整えてくれたことである。こちらの名前を聞くことはなく、かといて彼女が名乗ることもなかた。八郎はきと訊きたかたのだろう。だが、それがすとできるような男だたら、そもそも今頃里に着いていた。
「ありがとうございます」
「わたしは隣で休みますけれど――
 女はすとふすまを開け、ちらりと振り返た。
「このふすまは、決して開けないでくださいませ」
「もちろんですとも」
 天助が即答し、八郎は何度も頷いた。うら若い女性の寝室に入るなど、非常識きわまりない。女は妖艶な笑みで、おやすみなさいませ、と言い、ふすまの向こうへ消えた。
「さて」
 部屋は六畳の畳敷き。床の間はなく、押入や家具もない部屋だ。天助は四隅の壁と畳の縁の隙間に、指ほどの長さの小刀を突き立てる。
 四本目の柄頭に人差し指を載せ、天助は気合いを入れる。すると、小刀が淡い緑色の光を帯び、光は他三本の小刀を目指して畳の上を走る。小刀に到達すると、それもまた緑の光を帯びた。結界の完成である。これで、内側から破らない限り、物の怪は入てこられない。物の怪退治の伏球磨家に仕えるのだから、粉久万家の者も呪力を持ている。粉久万家の祖は伏球磨家出身だたらしい。
 女は人間のように見えたが、人に化ける物の怪はいくらでもいるし、物の怪でなくとも、どこからそれが湧いて寄てくるか分からない。伏球磨の屋敷を離れて外で寝るときは、どこであろうとも、こうして結界を張るのが習慣だた。
「ほら、八郎様も結界を張てください」
 未だぼけとする八郎に耳打ちした。天助は一族の中では呪力を持ている方だが、伏球磨家の人間ほどではない。
 天助がしたように、八郎も小刀に人差し指をあてる。ちんと呪力を注げるのか若干心配だたが、緑色を打ち消すほどの青い光が小刀を包んだ。
 呪力を持たない人間には見えないらしいが、天助は緑、八郎は青といた具合に、人によて呪力の色は異なている。伏球磨家は青い呪力を持つ者が多いが、みな微妙に色味が異なる。兄姉でも、またく異なる色の場合もある。
「それでは、八郎様。おやすみなさいませ」
 結界は無事張たことだし、あとはもう寝るだけである。
「綺麗な人だよな、天助」
 旅装束は解いたものの、八郎は布団の上であぐらをかいて悩ましげな息を吐いた。目線はもちろん、ふすまに向いている。
……八郎様も早くお休みください。明日は早くに発つんですから」
「え。明日早く出るの?」
「当たり前でございましう。遅れているんですから! 朝日と共に出発したいくらいですよ、わたしは」
 ふすま一枚で隔てているだけなので、会話はすべて小声である。それでも天助は、自分の置かれている状況を把握し切れていなさそうな主に、語気を強くする。
「天助。それはいくら何でも早すぎるだろう……
「今回の遅刻、七子様がなんと仰るやら」
「七子姉には言うなと言ているだろう」
「いいからお休みください
 掛け布団の端をぐと掴み、思い切り引張り上げた。転げ落ちた八郎を布団の上に引きずて、すぽり隠すように掛け布団をかける。頭があるあたりに、どすと枕を置いて差し上げた。
「天助……これが主にすることか……
 布団の中からしくしくと泣く声と言われたが、聞こえないふりをして、天助は自分の布団に潜り込んだ。

   ●

 青い呪力の光だけが、部屋をぼんやりと照らしている。八郎の方が圧倒的に力が強いので、天助の緑色の呪力はほとんど見えない。
 天助は心配性なのだ。伏球磨の屋敷以外で夜を過ごすときは、必ず八郎にまで結界を張らせる。寝込みを襲われたことは一度もないのに、大丈夫だという主の言葉を頑として聞き入れない。まだ十六になたばかりだというのに、心配性で剛愎な性格では将来苦労するだろう、と八郎は常々思ている。彼が天助をそうさせてしまたのだとは、夢にも思ていない。
 その天助は、物の怪がいるかもしれないなどと危ながておきながら、今はすうすう寝息を立てている。
 一方、八郎はなかなか寝付けずにいた。何度も寝返りを打ち、目をぎと閉じてみるが、いかな眠気が訪れない。それどころか、女主の姿が瞼の裏に浮かんでくる始末。茶店にいた垢抜けない看板娘の顔は、彼女の前に霞んでしまてもうよく思い出せない。こんな鄙びたところに、あんな妖美な女がいるなんて。
 なんという名だろう。年下は好きだろうか。どうしてこんな山奥に一人で暮らしているのだろう。盗賊や物の怪が恐ろしくはないのだろうか。彼女も眠ているのだろう。どんな寝顔なのか見てみたい。ふすまを開けるなと言われたが、だめと言われるほどに開けたくなる。いや、彼女の不興を買いたくないから開けはしないが、寝顔は気になる。
 そんな埒もないことばかり考えていたら、不意に、物音が聞こえた。布団の中でごそごそと動いているような音だ。天助ではない。ふすま越し――女主の眠ている部屋から聞こえる。
「あ……
 しばらくすると、女のあえかな声が聞こえた。色気の滴る、どこか淫らな声。それが、とぎれとぎれ、八郎の耳に届く。
 目を見開いた八郎の鼻息はどんどん荒くなる。布団の中でうごめく音と、生々しい女の声。ふすまの向こうでいたい何が起きているのか、八郎はめくるめく想像に浸た。眠気を待つどころではない。声を聞いているだけで、八郎の興奮は鰻登りだ。
 彼女は一人暮らしだと言ていた。共に床に入る相手はいないはず。するとつまり一人で――
「あ……
 扇情的な声はいこうにやむ様子がない。これは聞き耳を立ててはいけない。しかし、もと艶めかしい声を聞かせてはくれまいかという願望はなかなか消えず、八郎の息子もどんどん元気になる。
「ああ、苦しい……どうか助けてくださいませ、八郎様……
 ぎとして、八郎は思わず、え、と声を漏らしそうになた。
 女は、確かに八郎の名を呼んだ。ずと耳をそばだてていたから聞き間違えではない。だが、なぜ彼女が八郎の名を知ているのだろう。あ、寝る前に天助が八郎の名を口にしていた。いや待て、天助は小声でしていた。ふすま越しに聞こえるだろうか。
「八郎様……こちらへいらして……
 やはり、名を聞かれていたのか。八郎は掛け布団をめくりあげ、上半身を起こした。
「八郎様……
 思いきり呼ばれている。息も絶え絶えに、悶えるような声で。
 据え膳食わぬは男の恥。こんなに呼ばれているのに無視するのは失礼というもの。いやしかし、ふすまを開けるなと言われていたのだた。待て待て、言たのは彼女だ。その彼女が来てと言ているのだから、開けても構わないということだ。
 八郎はそうと布団を抜け出して、ふすまの前に正座した。一度、咳払いをする。
「僕を呼びましたか」
「ああ、八郎様……早く、早くふすまを開けて、こちらへ……
 これはもう行くしかない。天助は寝入ている。八郎は興奮が頂点に達しつつあるせいで、いつもの気弱さはなりを潜めていた。息子も元気だ。この勢いに身を任せ、ついでに女に身を任せるのも悪くない。むしろ、良い。
「すぐに参りますよ」
 八郎はためらわずふすまを開けた。青い呪力の光が、一度強く輝き、ぱと消えてなくなる。しまた、結界を破たことになるのか。しかしまあ、構わないだ――
「八郎様。ふすまを開けてくれて、嬉しいわ
 しどけない姿を期待していた八郎だが、実際は全然違ていた。
 八郎に流し目を送る女の顔は天井近くにあた。たわわな乳房が柔らかそうに揺れている。その下の体も露わで、八郎は文字通り目を剥いた。
 鳩尾から下は、虫の体だた。腕も、途中から人のものではなくなている。腕も虫――これは、カマキリだろうか。しかし、鎌の部分は淡い緑色ではなく、鈍色に光る本物の鎌のように見えた。
 女の乳房に目を奪われたのは一瞬のこと。女が笑いながら鎌を振り上げる。八郎は喉が張り裂けんばかりに悲鳴を上げ、次の瞬間、意識を失た。

   ●

「八郎様!?」
 叫び声を聞いて、天助は飛び起きた。開け放たれたふすまと主の背中をすぐに見つける。呪力の光がどこにもない。八郎自ら結界を破たということか。
 やりかねないなと舌打ちしつつ、八郎の背中越しに、物の怪の姿を認めた。刃物のようなものが八郎の体を切り裂こうとしている。
「八郎様、逃げてください!」
 天助は枕元に置いていた刀の鞘を払う。だが、八郎は緊縛されたかのように動かない。天助は今動き出したばかりでとても間に合いそうにない。物の怪が間合いを見誤ることを願うしかないような状況だた。
「八郎おおおお!!」
 突如、八郎が自分の名を叫びながら横へ転がた。物の怪の鎌が彼の残像を切り裂いた。
 八郎は素早く身を起こすと、部屋の隅にあた小刀を抜いた。気合いのこもたかけ声と共に、小刀が呪力に包まれる。天助があと思た瞬間には、おぞましい姿をしている物の怪めがけて放たれていた。物の怪は鼻で笑て、鎌で小刀をたたき落とす。
「天助、刀!」
 その場ですくと立ち上がり、物の怪からは片時も視線を外さずに命じる。天助は、自分のではなく、八郎の枕元にある刀を差し出した。
 受け取るや抜刀して、ふすまを蹴倒し、勇ましい声と共に物の怪に躍り掛かる。抜き身の刃を包む呪力は、炎のように赤かた。
 大上段から振り下ろされた刀を、カマキリ姿の物の怪が鎌で受け止める。甲高い音が響き、火花が散た。
「ひどいわ、八郎様。いきなり切りかかるなんて」
 と言いつつ、物の怪鎌を振り上げ、右から左から襲いかかる。
「この、くそカマキリめ。助平で阿呆なこいつがいかにも引かかりそうなことをしてくれおて!」
 赤い刃は、二つの鎌を難なく受け止める。流れるようなその動きは、残像となて天助の目に焼き付いていく。手助けしたいが、天助の出る幕はなさそうだ。せいぜい万が一に備え、刀を抜いておくくらいである。
「天助!」
「はい!」
「このカマキリを倒したら、この阿呆の股間を思い切り蹴り上げろ!」
 物の怪の攻撃を次々しのいでいるとは思えない、強い口調。しかしその内容に、天助は思わず、え、と言てしまた。
「天助、返事!」
「は、はい! 必ずやそう致します――七子様」
 今、物の怪と戦ているのは八郎であて八郎ではない。彼のすぐ上の姉、七子である。八郎は青い呪力、七子は赤い呪力。なにより、発する雰囲気がまるで違う。普段の軟弱さはどこにもなく、怒り狂ているような猛々しさが、八郎――いや、七子を包んでいた。まあ、実際に怒り狂ているのではあるだろうが。
 八郎がなぜふすまを開けたのか詳細はわからないが、おおかた、ふすま越しに色仕掛けされ、まんまと引かかてしまたのだろう。
 伏球磨家の退治屋ともあろう者が、ああ、なんと情けない。七子がいなければ、これまで何度、八郎が命を落としたかもわからない。
「手加減などするなよ!」
「は、承知致しました」
 伏球磨家の家系図には記されていない、本当の第七子。それが七子だ。彼女に肉体はなく、魂だけが、弟・八郎の体に同居する形で生を受けた。天助はそう聞いている。
 普段は八郎の中でひそりとしているらしいが、今夜のように、八郎が危機に陥たとき、七子と意識が入れ替わり、彼女が表に出てくるのである。
 雄叫びをあげ、七子はそれまで受け流していた鎌を弾き返した。返す刀で左の鎌を根元から切り落とす。物の怪が身の毛もよだつような悲鳴を上げた。
 七子は、痛みでめちくちな動きをする鎌の間をくぐり抜け、眉間に刃を走らせる。物の怪がまた悲鳴を上げてのけぞた。七子は怒りをにじませたままの表情で、胸の谷間に赤い刃を突き立てる。刺されたところを中心にして、赤い呪力が物の怪の体を覆うように広がていく。
 物の怪は耳をつんざくような断末魔を上げた。体の半分が七子の呪力に絡め取られた頃には、それも途切れる。
 赤い光がひときわ強くなる。網膜を焼くような光に、天助は目を細めた。物の怪の体がぼろぼろと端から崩れていく。七子が刀を引き抜くと、支えを失たように一気に崩れ落ちた。刀を包む呪力が消えると同時に、形をなくした物の怪の体はさらに細かく砕け、塵になる。
「七子様。見事なお手並みでした」
 両手で恭しく鞘を差し出すと、
「天助」
 それを受け取た七子にじろりと睨まれる。姿形は八郎なのに、まるで別人だ。天助は、なんでしう、と体を固くした。
「わたしは眠る。さきの言いつけ、必ず果たせよ」
 刀を鞘に収める。突き出されたそれを天助が受け取ると、七子の目から険しい光が消えた。一瞬、焦点の定まらない目になるが、すぐに数度瞬きをして、正気に戻た。
「八郎様」
「あ……天助、また、七子姉にたす――
「お許しください!」
 一歩前に踏み込むと、八郎の無防備な股間めがけ、天助は全力で足を振り上げた。
 八郎が声にならない悲鳴を上げて白目を剥く。股間を押さえ、さきの物の怪のように崩れ落ちた。
「て、て、て、ん……
「お許しください、八郎様。七子様のお言いつけを守らないと、あとが怖いんです」
 天助とて、主の股間を蹴りたくなどなかた。今の八郎の惨状を見ているだけで、天助もきと引き締まてしまう。だが、七子は怖い。天助が言いつけを守らなかたと知れば、何をされるかわからない。
 天助の足下でうずくまり、悶えている主からそと目をそらす。仕方ないんです、七子様の方がずと恐ろしいから。
 気がつけば、家はぼろぼろの荒れ屋に変わていた。塵になた物の怪の体が風にのて四散していく。
 さて、あのカマキリは、里の者たちを困らせていたくだんの物の怪だろうか。で、あれば、遅れた面目も立つというもの。
 朝はまだ遠そうだたが、もう眠る気にはなれない。朽ちかけた床の上には天助たちの荷物が散らばている。ひとまずそれをまとめよう。
 屋根も壁も、ほとんど用をなしていない。いまだ苦悶の表情でうなている八郎に、月明かりが煌々と降り注いでいた。
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