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我ながらホレボレする文体を自慢する大賞
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悪文正機説
 投稿時刻 : 2013.05.05 23:58
 字数 : 4911
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悪文正機説
工藤伸一@ワサラー団


「文体障碍者」になてから二〇年もの歳月が過ぎた。もはや人生の半分を越えてしまた今となては、健常者だた頃の自分が別人のように思われてならない。当時を懐かしんでみたところで元の文体に戻れるわけではないし、考えても無駄だ。文体障碍は見た目だけでは健常者との区別が難しいため「努力が足りない」などと差別的な叱咤を受けることもしばしばある。

 『惜日(せきじつ)のアリス』で小説家デビを果たした坂上秋成さんは、ゼロアカ道場に参加する前、講談社の文芸誌『群像』主催の新人賞で最終選考まで残り、選考委員の多和田葉子さんから「文章が立体的」との評価を得ていた。すなわち文章が平坦なのは良くないということである。

 映画化もされたヤマザキマリさんの漫画『テルマエ・ロマエ』は、古代ローマ人の風呂職人ルシウスが現代の日本にタイムスリプする話だが、ルシウスは初めて見た日本人のことを「平たい顔族」と呼ぶ。古代ローマ人は彫りの深い顔をしているからそれは当然のことだ。しかしそれを書いている作者もまた平たい顔族の一員である。

 遺伝病を防止するためにも遺伝子の構成要素は出来るだけ離れていることが望ましいとされることから、濃い顔と薄い顔のカプリングは最適だ。ヤマザキマリさんが西洋人と結婚したのも、そういう点で良いことだ。東洋人が西洋人の立体的な顔立ちに憧れるように、西洋文学の影響を受けた近代以降の日本文学も立体的であろうとしてきた。すなわち身体と文体は密接な関係にある。

 そのようにして考えてみた場合、こうしていま書かれているこの文章が立体的ではないことに書き手自身も落胆せざるを得ないけれど、つまりこれこそが文体障碍による弊害なのである。だがしかし障碍は誰にでも起こりうる不運にすぎない。そこで産まれた思想が「悪文生機説」というのものだ。それは仏教の「悪人正機説」から来ている。

「仏教によて救済されるのは悪人だけ」とする「悪人正機説」は、仏教の一派である浄土真宗の教義として知られているが、その根本になている「悪人の自覚」は、誰しも人間は我欲まみれの凡夫=悪人だとするもので、それは宗派を問わず仏教の教えの中に頻出する発想でもある。それを哲学上の問題にたとえるなら、そもそも人間は悪人だとする「性悪説」と同様であり、他の宗教においてもキリスト教の「原罪」すなわち「エデンの園を追われた罪深き者の子孫」というような考え方にも重なるところがある。

 フジテレビ系列のバラエテ番組『ホンマでか!?TV』にて心理学者の植木理恵さんが「文章に変なところがある方が学術論文の信憑性が高まる」という不思議な現象について語ていた。ソースは確認できていないが、興味深い話だ。このような作用は小説においてもあて、たとえば『リアル鬼ごこ』の悪文は有名である。しかしその愛読者は文章のおかしさは気にならないという。普段は小説を読まない層に支持されたという説もある。

 石原慎太郎の小説も悪文だと言われる。芥川賞を受賞した『太陽の季節』においても「奇妙な解説がところどころ入る」ことに関して疑問が呈されていた。作者の意見あるいは神の声みたいなものだろう。特撮ヒーロードラマに出てくる「解説しよう」というナレーンへの影響があたりもするのだろうか。まあとにかく登場人物のセリフではなく、地の文を構成している語り手は誰なのか良く分からないものだ。話者=作者と考えることもできるが、それが当然なのであれば同じスタイルによて書かれてきた膨大な数の小説は全てメタ・フクシンなのかもしれない。

 そのような見解から本文のスタンスを鑑みるに、現状これは小説とは言い難い。この問題について釈明するために書いておきたいことがある。芥川賞は主にプロ作家の作品を対象とする新人賞として認知されているが、黒田夏子さんが史上最年長の75歳で受賞した『abさんご』目当てで購入した『文藝春秋』2013年3月号には、戦後の史上最年少23歳で『何者』により直木賞を受賞した朝井リウさんの対談が掲載されている。

 通常なら純文学を対象にしている芥川賞の選評および受賞作やインタビは『文藝春秋』に掲載され、エンタメ小説から選ばれる直木賞に関する情報は『文藝春秋』と同じ株式会社文藝春秋が発行する『オール讀物(よみもの)』が手がける。ただし直木賞は、文芸誌に掲載された中編程度の作品がノミネートされる芥川賞とは違ていて、既に単行本化されている長篇小説から選出されるため、雑誌に掲載されるのは作品の一部のみだたりする。さらに文藝春秋から出ている『文學界』は純文学の専門誌なので、そこに載るのも芥川賞に関するものだ。

 ではなぜ朝井リウさんの対談が『文藝春秋』に使われたかというと、それは大学を卒業したばかりの彼が堀江敏幸さんのゼミに所属していたからである。堀江氏が芥川賞を受賞していることもあて、師弟対談が『文藝春秋』にて催されることとなたように思われる。その堀江氏が『熊の敷石』にて2001年に芥川賞を受賞した際の選評に「これは小説ではなくエセイなんじないか?」というような疑問を投げかける選考委員がいた。

 三浦哲郎、池澤夏樹の二人が「エセー」という表現を使ている。しかしながら結局は受賞作となた。すなわちエセイと小説の境界線上にあるような作品が純文学として認められたわけである。ならばどんなにそれがエセイ的な書き方をなされていたとしても、だからといて小説ではないと考えるのは認識が古すぎるということだ。

 以上の点から小説の体を為していないように思われる本作が、それでも小説として読める可能性があると僕は主張したい。ついでに『abさんご』にも触れておこう。『abさんご』は「全て横書き」「読点ではなくカンマを使う」「句点のかわりにピリオドを使う」「本来なら漢字で書かなければ意味を捉えにくいはずの熟語などを平仮名で書く」といた奇妙な書き方が導入されている。

 その結果として日本語で書かれているのに海外文学を読んでいるかのような不思議な感覚に襲われる。それは著者が長らく校正を仕事としてきたこととも関連しているのではないかと言た指摘もある。物語それ自体は私小説的な、いかにも純文学といた風情を感じさせるところがあるため、これが普通の書き方をされていたなら、凡庸な作品になていたかもしれない。でもだからこそ文体を工夫して勝負をかけるしかなかたのだろう。

 とはいえ気になるのは「横書き」の効用だ。かつて日本語で書かれてきた小説の多くは「縦書き」だたが、インタートが普及した現代において「横書き」の小説は全く珍しくない。それはネト接続に使用されるブラウザが「縦書き」表記に適していなかたり、他にも様々な事情が考えられる。その一方で日本語は「縦書き」で表現されるべきだという考えを持つ者は数多くいて、電子書籍は「縦書き」で読めるようになてきた。

 そういた文章表現の過渡期において、あえて「横書き」を使た『abさんご』の芥川賞受賞は大きな事件だたといていいだろう。もちろんそれ以前にも、国語以外の教科書や参考書の類、あるいはケータイ小説が「横書き」のまま書籍化されたりする事例はあた。けれども国語の教科書はあくまで縦書きだし、さらにこれは当たり前すぎて忘れがちに思われるが、マンガに出てくるセリフやナレーンも縦書きだ。

「若者の活字離れ」というような話を聞くたび引かかていたのは、活字本とマンガの売上の大きな差が活字離れの実態を明確にしてきたにも関わらず、マンガに出てくる日本語は従来通り「縦書き」なのに、ケータイ小説が「横書き」というように、現代の日本文化は捻じれた構造を持ている。そしてその捻じれこそが、一部の特権階級によらない民主主義本来の政治を実現させるための必須条件と考えることもできる。右翼と左翼の二項対立というような古臭い概念は、今や崩壊しつつあるようにも感ぜられる。

 先日放送されたテレビ朝日系列の討論番組『朝まで生テレビ』の特集「ネト世代」だた。粉飾決算が問題となたライブドア事件により実刑判決を受けて収監され、仮出所中のホリエモンこと堀江貴文さんを筆頭に、ネトを使いこなしてきた若き論客たちの平均年齢は30代。そこで行われた議論にも旧来の手法が通用しなくなりつつあるような空気が漂ていた。

 その放送中、司会の田原総一朗さんが、パネリストとして呼ばれていた乙武洋匡さんに「失礼なことを承知の上で伺いたいのだが、その身体でどうやてネトにアクセスしているんですか?」というような質問をした。すると乙武さんは「僕の腕は肘くらいまであるので、その先端を使てパソコンのキーボードやスマートフンを普通に使えているんです」と答えた。

 彼の持つ障碍は「先天性四肢切断」というものだが、あくまでそれは通常より短いだけで、ウキペデアに書かれているように「生まれつき両腕と両脚がない」という表現は正確ではない。歩行のため車椅子を使用しているものの、宇宙論などで知られるイギリスの物理学者ステブン・ホーキング博士が「筋萎縮性側索硬化症」により身体を動かすことが困難になたのとは違う。ホーキング博士は声を出すこともできないため、特殊なキーボードを操作することによて論文を執筆したり、さらにそのキーボードを用いて合成音声でスピーチしたりしている。このように身体障害者と言ても症例によて異なる点があることを忘れてはならない。

 冒頭に挙げた「文体障碍」においても同様の複雑さがある。身体障碍といてもそれは身体が存在しないことではないし、精神障碍も精神そのものが失われるものではない。精神障碍の場合、アルツハイマー病など精神の一部もしくは大半が機能しないケースもあるけれど、それでもまだ他人とコミニケーンをとれる限りにおいては、いかにそれが間違た認識に覆われてしまたのだとしても、人間としての最低限の意識は維持されている。正確には人間的な意識など最初からなかたとしても、ヒトは動物と戯れることができるように、命ある限りコミニケーンが永久に断絶されるわけではない。

 それどころか僕らは、自分の意思を持たない架空のキラクターや無機物に対してもさえ、愛情や同情といた感情移入の機能によて、同じ現実を共有する仲間意識を持つことが容易にできる。この構造に関しては文芸評論家の藤田直哉さんが、筒井康隆さんの小説や思想を軸として現代社会を論じた著書『虚構内存在』において詳しく書かれている。その概要を提示できれば良いのだが、今のところそれは難しいので、とりあえず紹介するだけにしておこう。

 いま日本で最も売れているマンガは、集英社のマンガ雑誌「週刊少年ジンプ」で長期連載されている尾田栄一郎の『ONE PIECE(ワンピース)』と思われる。違ていたら申し訳ないが、多分そのはずだ。先ほど日本のマンガ表現における「縦書き」へのこだわりについて触れたが、それが活字表現と交差することによて、新しい日本語の効用が示される希望を担うものの一例として、前回しんさんが企画した「第一回 やる気が出るかくいいプロト作り大賞」にて優勝した碧さんに贈られた称号「海賊王・碧」を、同じくしんさん主催による「我ながらホレボレする文体を自慢する大賞」投稿作における主人公の名前に使てほしいと主催者が要望していると考えることもできるだろう。

 すなわち「海賊王」とは、国家や民族や語族といた垣根を乗り越えた場所に存在するものであり、僕ら人類が悠久の時を経て築き上げてきた言葉の海を縦横無尽に駆け巡りながら、吹き荒ぶ文体の嵐をも乗り越えて跳躍し、人智の未来を統べる地球の主人公として、僕らを新天地に誘う崇高な使命を帯びたキラクターとして、君臨することだろう。なお「キラクター」は「言葉」という意味も併せ持ち、文体の基礎的な要素でもあるのだ。(了)
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