オトナウフク
第一の説。福という言葉は中国語の象形文字が起源で、左右で構成されており左は、神をまつる祭壇の形を表し、右の部分は、倉の形を表し、祭壇に倉のものをささげて幸福を願
った形からきている 。第二の説。やはり中国語が起源で福という存在そのものの形をそのまま字に表したというもの。いずれにせよ、どちらの説も頼りない。とりあえずもっともらしく考えるとすれば、どちらも的はずれで、そもそもそんなことをしても、この言葉の意味がわかるわけではない、となる。
むろん、そんなことをつぶさに調べてどうなるのか、という話だが、実際、福という名で、やつが存在しているのだからしかたがない。
「笑う門には福来る」
などというが、福が我が家に訪れたのはちょうど私がちょうどしょうもないことで思い出し笑いをしていた時だ。突然目の前に現れた言語を解する存在するかも定かならない福に対して私は何を思ったのか「あのさ、ぼく、なんて名前?」とかたずねてみる。すると「福」とやつはいう。「じゃあ、どこに住んでるの?」すると「住所不定」といって、やつは笑う。だが笑うも何も、肺を使わずに笑う人の声に聞こえてならない。そんな不気味さのせいでとてもこの存在が福であるとは思えぬのだが、その後の会話に依ればこいつが正真正銘の「笑う門には福来る」の「福」という存在であるらしかった。
福の特徴。なんとも形容しがたい。骨組みのある風船、あるいは提灯という感じだがしぼんでいるときもある。ガサゴソと枯葉の中を蠢くような音を立てて移動するのだが、いったいどこから音が出ているのか見当もつかない。どういう構造なのか調べてみようにも、福はめちゃくちゃすばしっこいやつなので、どうにもつかまえられなくて、だからそういうことをどうとも言えんのである。
福はかわるがわる、屋根裏部屋に、階段室に、廊下に、玄関にあらわれてはじっとしている。たまに何ヶ月も姿を消すことがある。おそらく別の家にうつっているのだ。だがそのあと、かならず私たちの家に出戻ってくる。
何故かと問えば「笑い」と答える。確かに福を再び見始めるときには私は自嘲であれ苦笑であれ何かしら笑っているのだ。笑って落ち着いて視線を変えてみるとそこに福がいるのである。
「笑う門には福来る」
確かにそんな言葉があって、それに期待して笑ったこともあるが、こんなにも杓子定規に、しかも求めていたものとはどこか違う福が来ることを望んでいたわけではない。
どうでもいいことだが、私はこう考えてみるのだ。これから先、福はどうなるのだろう。死ぬことがあるのだろうか?もしかすると、やつはこれからも先、私の子どもや孫の足下で、膨らんだりしぼんだりしながら、ガサゴソ動くというのだろうか? そりゃ無論、今のところ福が誰にも害をなしてはいないし、何ら兆候は見えないとはいえ私たちに何らかの幸福を与えてくれるかもしれない。だが、ぼんやりと、福が私の死んだあともやっぱり生きているにちがいない、などと思うと、私はどうも悩ましくてしかたがない。
参考
家のあるじとして気になること
Die Sorge des Hausvaters
フランツ・カフカ Franz Kafka
大久保ゆう訳
http://www.alz.jp/221b/aozora/odradek.html