てきすとぽいトップページへ
てきすと恋2016~サルでも読める恋愛小説大賞~
 1 «〔 作品2 〕» 3  5 
初恋
 投稿時刻 : 2016.12.21 00:09
 字数 : 9800
5
投票しない
初恋
永坂暖日


 一昨日まで続いた長雨のせいで、川を流れる水の量は通常の倍以上になていた。普段はきれいに澄んでいる川の水が、今は大量の泥を溶かした色になている。長く続く雨は気分を憂鬱にさせるが、豊かな恵みのためには必要なものでもある。
 ただ、時々厄介な置き土産を残していくこともあた。
 川沿いのその道は巨人の手で削り取られたように大きくえぐれていた。片方は川、片方は畑。このままでは、道の向こうへ行くことができない。その上、上流にあた橋が流され、その残骸がえぐられた部分にたまていた。
 寸断された道の周辺には農民たちが集まていた。道を修復せねばならないが、普段の畑仕事も同時にしなければ秋の実りに支障が出る。崩れた道を直すだけでなく、壊れた橋の修理もとなると、多大な労力が必要になる。修繕の費用は領主が負担してくれるだろうが、労働力は農民たちが提供しなければならないのだ。
 面倒だな、と人々が顔を見合わせていると、道の向こうから一台の馬車がやて来る。誰もが見覚えのあるその外装に、人々は表情を明るくした。
 人々は端によて道を開ける。馬車は崩れた道の縁のすぐそばで止また。すぐに、中から一人の少女が現れる。見守る人々の表情はますます明るいものになた。少女は、そんな人々を見て、にこやかに笑た。
「みんな、少し離れてちうだい」
 彼女の言葉に、人々は素直に従う。皆が崩れた場所から離れたのを見て、少女は満足げにうなずくと、大きく深呼吸をした。不思議な言葉が、両手を広げた彼女の口から紡がれる。
 ほどなく、めちくちな塊となていた橋の残骸が鳴動した。音を立てながら、誰が触れたわけでもないのに、がれきがふわりと持ち上がる。道より少し高いところまで浮き上がると、水平移動を始めた。少女の立つ場所の向かいの道の上まで来ると、持ち上がたときと同じようにふわりと地面に降り立た。その瞬間、人々から歓声が上がる。
 しかし、少女は歓声など聞こえていないように、言葉を紡ぎ続けた。
 やがて、まるで時間を巻き戻したように、まだ濁流の川から石や泥が飛び出してきて、道の崩れた場所を埋めていく。橋のがれきが動いたときはゆくりとしていたが、道が埋め戻されていくのは早かた。土や石のぶつかり合う音が続き、ぶつかた衝撃で破片が飛び散た。
 崩れた場所がすべて埋め戻されるのにかかた時間はそれほど長くなかた。ただ、表面はでこぼことしていた。
 少女がようやく両手を下げる。歓声はいつの間にかなくなていた。石や土のぶつかり合う音もなくなり、あたりは静寂に包まれる。埋め戻した場所に立た少女が、強度を確かめるように小さな足で地面を叩く音だけが響く。
 あちこちを叩いて確かめてから、彼女は、うん、と満足げにうなずいた。
「これでもう大丈夫。あとはみんなに任せるね」
 息を飲んで見守る人々を見回して、彼女は笑顔で言た。途端、大きな歓声が上がる。
「ありがとうございます、イーリス様」
「イーリス姫様、ありがとうございます」
「姫様にはいつも助けていただいて、感謝しても仕切れません」
 馬車に戻るイーリスに、人々が駆け寄て口々に礼を言う。
「いいのよ、みんな。これがわたしの務めだから。上流の橋も直しておくから、みんなはいつも通りにお仕事をがんばてね」
 感謝の言葉はやむことがなかた。お礼を言い足りないという人々に笑顔で別れを告げ、イーリスは御者に命じて川の上流へ向かた。

 山に囲まれた静かなその土地を治める領主は若く、その奥方はさらに若かた。甚大な魔力を持ち、高貴な出自でありながら領民に親しげに接し、類まれなる力を惜しげもなく彼らのために使うのである。
 橋の修繕を終えたイーリスが屋敷に戻たのは、日没後だた。

    ●

 かの人を好きになてはいけない。周囲の人すべてが反対しました。それもそのはず。相手は長年に渡り敵対している国の跡継ぎなのです。しかし、二人は想いを止めることができず、とうとう――

 そこで本を閉じて、イーリスはその本を枕にするようにして机に突伏した。
 だめだ、さぱりわからない。
 深々とため息を付き、顔を上げる。大きな窓から明るい日差しがそそぎ込んでいる。まぶしさに目をすがめると、屋敷の門が開き、一台の馬車が入てくるのがちうど見えた。
 二頭立ての、見覚えのない馬車である。来客だろうか。しかし、誰か来るとはイーリスは聞かされていない。少なくとも、イーリスに用がある来客ではないわけだ。すると、クロドに会いに来た客ということになる。
 そうであても、知らせてくれてもいいだろうに。イーリスは、クロドの妻なのだから。
 
 結婚したのは七年前。イーリスは今年で十四歳。つまり、七歳の時にクロドに嫁いだのだ。当時のクロドは、今のイーリスと同じ歳だた。この歳で妻を迎えるなんて信じられないと思うが、そんなイーリスは七歳で夫を持たので、人のことはいえない。
 お互いにとて早すぎる結婚は、政略的なものだた。
 イーリスは、ここタスクル王国の元・王女で現国王の末娘だ。クロドは、タスクル王家の家臣であるエクカール家の今も昔も若き当主である。
 約二十年前まで、エクカール家はタスクルの一家臣ではなく、隣国の主だた。領地の境界線を巡て小競り合いを昔から繰り返していたが、野心旺盛だたクロドの父はある時大軍を率いて攻め込んできた。激しい戦闘が繰り広げられた末、領地を広げるどころか国もその地位も失うこととなたのはエクカールだた。
 クロドの父も当時まだ二歳だたクロドも、負けた時点で殺されてもおかしくはなかた。しかし、タスクル王家に忠誠を誓うことで、エクカール家は一族の存続といくらかの領地を持つことを許されたのである。
 ところが、与えられた領地は、タスクル王家に長年仕える家臣たちの領地に囲まれた場所だた。エクカール家のしたことを思えば仕方がない。
 忠誠を誓たのにその処遇がクロドの父には不満で、いつか必ず奪われた国を取り戻すと言ていたらしいが、果たせないまま世を去た。イーリスとクロドの結婚話が持ち上がたのは、その後だた。クロドの家督継承のお祝いと和平の証としてぜひ、と。
 クロドは自分で決断しただろうが、イーリスは父王に言われ、訳も分からないままエクカール家にやて来た。
 知らないところへ来て知らない人たちに囲まれて、これからはここで暮らしていくのだと言われて不安でいぱいだたが、皆、優しくしてくれた。クロドもそうだ。夫というよりは兄のように、イーリスを見守ていた。
 新しい兄ができたようで嬉しかた。優しくしてくれるクロドの役に立ちたいと、勉強――特に魔術の――に励んだものである。
 その甲斐あて、ほぼ独学ながら魔術は人並み以上の腕前になたという自負がある。一方で、クロドはますます兄のような存在になていた。
 エクカール家当主の妻だが、イーリスを奥様、と呼ぶ従者は一人もいない。下手すれば姫様と呼ぶ者がいるほどだ。夫婦の寝室は嫁いできたときから今に至るまで別々である。クロドが、イーリスに妻としての役目を求めてくることはない。七歳の頃からこうなので、結婚しているという自覚も、妻という実感もあまりなかた。
 この歳になれば、跡継ぎを残さなければいけないから、夫婦らしいことをしなければならないのはわかている。具体的にどういうことをしなければならないかも、侍女たちに教えられていたから知ている。
 ただ、本当にクロドとそういうことができるのか、イーリスには自信がなかた。クロドが特に何か求めてくることはなく、それもまた夫婦という実感が持てない原因の一つだた。
 そこでイーリスは、侍女たちに話を聞いたり、恋愛を主題とした小説を読んでみたりして、恋心というものを探ていた。
 イーリスとクロドはまたくの政略結婚であり、当人同士の感情など二の次三の次であることは分かている。だから、クロドに恋愛感情を抱く必要はない。
 しかし、憧れはあた。同じ年頃の侍女たちは、普通に恋愛をしているのである。イーリスだて、一度くらいしてみたい。ただ、結婚しているので、その相手はクロドでなくてはならない。
 イーリスは、いくつかの呪文をつぶやき、手を振た。その手の中に、分厚い本が現れる。本棚を見やると、この本がちうど収まる隙間ができていた。
 転移の魔術。今手にしている魔術書によると難しい部類のものだが、イーリスにしてみれば、本一冊を本棚からここへ移すことなど造作もないことだ。本を読んで何度か練習したら、できるようになた。
 転移の魔術も、崩れた道や橋を直すのも、イーリスにはさほど難しいことではなかた。幼い頃こそ自分の力を持て余してうまく使えなかたが、やがてこつを覚えてからは、次々といろいろな魔術を操れるようになた。
 しかし、恋愛はちともうまくいかない。またくこつがつかめない。いくら本を読んでも経験豊富だという人に話を聞いても、なんだかぴんとこないのだ。たくさん学んでいるつもりなのだけど、未だに身につけることができない。魔術を修得するよりも難しい。
 侍女たちは、そういう感情は自然と生まれるものですよ、と言うのだが、未だに生まれてこないので、本当なのだろうかと最近は少々疑ていた。
 窓の外を見ると、馬車が待機所へ移動していく。考え事に夢中で、客人の姿を見損ねてしまた。まあ後でクロドか誰かに訊けばいいか、と思ていると、扉を叩く音がした。
 やて来たのは、クロドの祖父の代から仕えている執事だた。侍女のお仕着せを着た娘を従えていた。初めて見る顔である。
 今度新しく雇たのだという。自己紹介をして、淀みない仕草で挨拶をする新人の侍女に、イーリスもよろしくと言葉を返す。
 イーリスより、二つか三つ、年上だろうか。煌めくような黄金色の髪、深い湖のような澄んだ青い瞳。端整な顔立ちで、所作も美しい。それなりの家柄の娘なのだろう。
 新しい侍女と執事は、挨拶だけですぐに退室した。笑みを浮かべていたイーリスは、扉が閉また瞬間、はて、と首を傾げた。
 新しい侍女が来るのは、この半年で三人目である。イーリスがクロドに嫁いでから、これほど立て続けに新人が入るのは初めてである。そんなに忙しいのだろうか。
 財政的に人を増やす余裕はあると思うが、人を増やさなければ屋敷の仕事が回らないのであれば、全体的に見直しをする必要があるかもしれない。たとえば、イーリスの身辺の世話をする侍女の数を減らして、ほかの仕事をしてもらうとか。イーリスは魔術を使えるし、自分のことを自分でするのはさほど苦ではない。今度、クロドにそう言おう。
 さきまで読んでいた本が目に入た。転移の魔術は使えるが、実はまだ、遠いところへ転移させることはできない。歩いていく方が早いくらいの距離しか無理なのだ。転移させられるものも、本数冊がせいぜいである。もと大きくたくさんのものを遠くまで転移できたら、クロドや領民のためにできることはもと増えるだろう。
 イーリスは本を手に取た。これは、屋敷の書庫から、侍女に見繕て持てきてもらたものだ。転移の魔術で戻すのはまだできないが、自分で持て行くことはできる。忙しいであろう侍女たちの手を煩わせないために、これからはこの程度のことは自分でやろう。

    ●

 書庫は広い。広い中に書架がずらりと並び所狭しと本が詰まている。蔵書は豊富だが開放的な雰囲気は乏しい。
 本を戻しに書庫へ来たものの、自分で持てきたわけではないので、どこにあたものなのか分からないことに気付いた。
 分類はされているので、小説類の集まている書架へ向かう。小説に割り当てられた書架は二列分。書架は天井に届きそうなほど背が高いので、二列分でも、元々収まていた場所を探すのはそれなりに時間がかかりそうだた。
 今日は特に予定はないし、次に読む本を見繕いがてら探すことに決めた。
 本を片手に上から下へ一冊ずつ背表紙を眺めていたら、どこからか、人の声がするのに気が付いた。
 本と棚のわずかな隙間から覗いてみる。何列か離れた書架の間に、侍女が二人いるのを見つけた。本に隠れて顔は見えない。掃除にでも来たのだろう。しかしもぱら動いているのは、手ではなく口の方だた。
 彼女たちも時にはさぼりたいことはあるし、見なかたことにしよう。二人に見つかると気まずい思いをさせるだろうから、ささと本を戻して出ていた方が良さそうだ。
――で、また新しい人が来たでしう」
「見た見た。また美人だたわね。どうせまたどこかの良家のお嬢様でしう」
 書架が静かなせいだろうか。二人の話し声は、思いの外イーリスの耳にも届いた。本を収める場所を探していた足が止まる。
「あまり役に立たないから困るのよねえ。仕事を覚える気もなさそうだし」
「そりないでし。いずれわたしたちを使う立場になるつもりなんだから」
「やぱりクロド様の側室候補なの? あの人たち」
「でし。だて、あの人たちをつれてきてるの、サルマークさんじない。あの人、クロド様に側室を娶れてせついてるらしいよ」
 サルマークというのは、先ほど新しい侍女をイーリスに紹介した執事だ。
 その執事が、クロドに側室をとれと言ている? 妻のイーリスがいるのに? しかもそのイーリスに、側室候補を紹介するなんて。普通、そんなことをするのか。
「イーリス様がいらるのに? イーリス様は降嫁なさたとはいえ国王陛下のご息女でしう。そんなイーリス様をないがしろにするようなことはまずいんじない?」
「でも、サルマークさん、イーリス様のこと嫌てるでし。生まれ育た国を滅ぼした王の娘だし、イーリス様が魔術師というのも気に入らないみたいだし」
 イーリスは持ていた本を取り落としそうになた。サルマークに好かれていないのではないか、と昔から薄々感じてはいた。しかし、自分の気のせいだと思ていたのだ。思うことにしていた。サルマークは、クロドがもとも信頼している人物の一人だから。
「それに、クロド様はもう二十一歳。なのに、イーリス様はまだ十四歳で、妻の役目を果たすにはまだちと早いでし。だから、下手な女に手を付けるよりはて思てるんじないの、サルマークさんは」
「えー。イーリス様がかわいそう」
「でもサルマークさんに文句を言える人てなかなかいないし、わたしたちじ話も聞いてもらえないだろうし」
「クロド様はわかている上で、新しい侍女を雇うを認めてるのかしら」
「半年で三人も美人でお嬢様な侍女を入れるのを許しているんだから、案外クロド様にもその気があるのかもね」
「さきいらしたお客様も、新しい側室候補なのかしら」
「さあ。でも、あり得るんじない。綺麗な人だたし。今、クロド様が相手してるし」
「もしかして最有力候補? 今までは、侍女として雇た後に顔合わせしてたんでし
「なんにせよ、わたしたちが口出しするようなことじないでし。それに、庶民と違て側室がいても、あの人たちにとては普通のことなんだし」
 話しながらも、一応は手を動かしていた二人は、そこでの仕事が終わたのか、話を切り上げて書庫を出ていた。
 本を手に取たまま、イーリスはその場に立ち尽くしていた。特にあてもなく書架を見上げたら、本一冊分の隙間があた。そこが正しい位置かはわからなかたが、持ていた本を突込んだ。そして、反対側の書架に背中を預ける。
 好かれてはいないとは感じていた。イーリスだけがそう思ているなら単なる被害妄想だが、第三者から見てもそうならば、被害妄想ではないかもしれない。
 サルマークがイーリスを快く思わない理由はいろいろあるだろう。
 しかし、それは大した問題ではなかた。
 側室候補と知りながら、新しい侍女を雇い入れるのをクロドが認めていることの方が、よぽど問題だた。
 クロドは、サルマークの進言を受け入れて側室を迎えるつもりがあるみたいではないか。
 連れ添た年月だけは過ぎていくので、夜を共にする前にイーリスに飽きてしまたのだろうか。あるいは、イーリスがクロドの好みとは違う方へ成長してしまているとか。クロドの好みが変わてきたとか。どういう女性が好みなのか聞いたことも考えたこともないが。
 もと前向きに考えてみよう。クロドは、いつかイーリスと夫婦の義務を果たすときに、イーリスに不安な思いをさせないため、側室を娶て練習をするつもりなのかもしれない。
……
 果たしてそれは、前向きな考えなのだろうか。
 イーリスは深々とため息を付いて、その場にうずくまた。もと早く、イーリスが恋愛を修得していれば、こんなことにはならなかただろうか。しかしあの執事は、そんなことには関係なくクロドに側室を勧めそうな気がする。
 イーリスとクロドが夫婦としてやるべきことをささとやていれば、執事が口を出す隙はなくなたかもしれない。まだ十四だからとか言い訳せず、クロドにその気がなくてもイーリスの方から積極的に行動すればよかたかもしれない。でもしかし、クロドとそういうことができるのかは自信がない。
 やはり早く恋愛を修得しなければならないが、最有力かもしれないという側室候補がすでにクロドと会ている。
 うずくまたまま、イーリスは床をじと見つめた。床材は正方形の板で、綺麗に磨き上げられつやがある。そこを指でなぞる。
 指先から放出した魔力が模様を浮かび上がらせる。魔術師でなければ見えないものだ。円と方形を組み合わせた幾何学的な図ができあがると、真ん中に手のひらを置いて呪文を口にする。
 後ろめたさはあたが、今すぐ状況を知りたいという焦燥感が勝ていた。
 知識として知ているが、実際に使たことはほとんどない。また、使えるということも人に話したことはない。知れば、嫌がられるだろうから。
 離れた場所の音を拾う魔術――盗み聞きするためのものだ。イーリスは応接間の音を拾おうとしていた。そこで、クロドは来客と会ているはずだから。
……の役に立てるというわけですか」
 耳の奥に、聞き覚えのある声が届いた。クロドの声だた。予想通り応接間に彼がいたこと、そこの音を無事に拾えたことにほとする。しかし、それは束の間だた。
「ええ。わたしが教え導けば、あなたの心配も晴れるだろう。保証するよ」
 聞いたことのない、張りのある女性の声。イーリスは心臓を直接捕まれたような気がした。さき窓から見えた馬車に乗ていたのが、彼女なのだろう。声も口調も堂々としていた。偉そうにしているのとは違う。傲慢でもないが、自信に満ちている。
 侍女たちは、綺麗な人だと言ていた。自分の容姿に自信があるから、この人はこれほど堂々としているのだろうか。しかも、クロドの心配を晴らせる、というようなことを言ていた。クロドの心配とは何だ。彼女は何を教えるつもりなのだ。まさか、クロドは本当に、イーリスに不安な思いをさせないために……
 疑心暗鬼が際限なく広がろうとした次の瞬間、床が消えて体が浮き上がるような感覚に襲われた。何故と思うより早く、再び床が現れる。しかしそれは、固い木の床ではなく、毛足の長い絨毯だた。
「え?」
 両側にあた書架はどこにもない。顔を左右に振ると、右にはソフに座たクロドが、左には、やはりソフに腰掛けた見知らぬ女性がいた。クロドは目を丸くしてイーリスを見つめ、女性は面白がるように彼女を見ている。
 イーリスは、書庫でそうしていた姿勢のまま、応接間に移動していた。
「盗み聞きするなんて、いけない奥方様だね」
 緋色の紅をさした唇の端を少しだけ持ち上げる。
 盗み聞きがばれたのだ。ばれたことにも、発覚するまでの早さにも驚きを隠せないが、それよりも何よりも――
 自信に満ちあふれ、余裕たぷりの表情でイーリスを見下ろす彼女は、魔術師だ。それも、相当の手練れである。
 書庫と応接間は階が違う上に離れている。イーリスの自室と書庫よりも、その距離はある。イーリスは自室から書庫へ本を転移させることもできないのに、彼女はイーリスを書庫から応接間へ転移させたのだ。
 自分より技量も魔力も上回る魔術師には会たことがなかた。幼い頃、イーリスの魔力が強すぎるために手に負えない、と師匠として招かれた魔術師が何人も匙を投げて逃げ出した。そのため、イーリスはほぼ独学で魔力を制御し、魔術を身に付けたのである。知識が深まるにつれ、そういた事例は少ないことを知り、どうやら自分は並外れた魔術師らしい、と自覚した。領内に住む魔術師に会たことはあるが、誰もが、イーリスには及ばなかた。
「初めまして、奥方様。わたしはスナ。あちこちを旅している魔術師でね。こちらの奥方様は魔力が強すぎて誰も先生になれないという噂を聞いて、それならわたしが師になろうと思て駆けつけたのさ」
……師? 魔術の?」
「そう。いらない?」
 頭が混乱して、何からどう考えればいいかもわからない。
「イーリス。驚いただろうが――俺も驚いたけど――ともかく、スナの実力はよくわかただろう」
 一足早く立ち直たクロドが、イーリスの傍らにひざまづいて、そと背中を撫でる。
「君の魔術の師匠として、彼女はどうだろうか」
 イーリスはもう魔術は使える。魔術書を呼んで練習すればいい。今更師匠が付いても――いや、それより。
「側室候補じなかたの……
「なんだて?」
 クロドが怪訝そうに、イーリスの顔をのぞきこう。
「だ……サルマークがクロドに側室を持てと勧めてるていう噂を聞いたし、今日も綺麗な侍女が新しく入たし、その人はクロドの側室候補だ……
 自分で言いながら、だんだん胸が重苦しくなてきて、声は尻すぼみに小さくなていた。
 すると、クロドが苦々しい表情になり、深々と呆れたようなため息をついた。イーリスは眉根を下げて、クロドを見つめる。もしかして、側室選びに口出しをするのをうとうしく思たのだろうか。
「俺は側室を迎えるつもりはいさいない」
「え。どうして」
 思わず聞き返してしまた。
「どうして?」
 クロドが眉をひそめる。あまり見ることのない表情だが、怒ているとき、彼はこういう顔になる。
「とくの昔に妻がいて、イーリス一人で満足しているんだから。側室なんて必要ないだろう」
 怒らせてしまた、と青ざめたイーリスの頬に大きな掌が添えられる。瞬きする間に、クロドは笑みを浮かべていた。
 何故だかわからないが、体温がいきなり上昇したような気がした。体中を勢いよく血が駆けめぐているような感じだた。
 いきなり口笛が聞こえた。スナだた。ソフに座たままの彼女は、実に楽しげな表情でイーリスたちを眺めていた。
「お熱いねえ」
 体温がさらに上がる。スナの存在を、短い時間ではあるが、完全に忘れていた。
 イーリスは飛び跳ねるような勢いで立ち上がた。
「お邪魔しました!」
 クロドとスナの視線を感じた。まるで突き刺さるようだ。訳も分からず恥ずかしくて、応接間に来れ以上いることはできそうにもなく、イーリスは文字通りに部屋を飛び出した。
 全力疾走して自室に戻る。途中ですれ違た人々は一様にぎとしたが、構てなどいられなかた。
 部屋に戻ると、寝台に飛び込んだ。布団の中に潜り込んでくるまた。
 鼓動が早いのは走てきたせいだろうか。クロドに頬を撫でられたときから既に早かた気がする。顔が熱くて仕方ないのも、相も変わらず全身が熱いのも。
 嫁いできたばかりの時から、クロドの笑顔は数え切れなほど見てきた。そのはずなのに、さきのは特別違て見えた。何がどう違うのかは、うまく説明できない。ただ、あのときの表情を思い出すと、胸が痛くなるほど高鳴るのだ。
 自分はいたいどうしてしまたのだろうか。落ち着こうと思ても、クロドの顔を思い出すたび、心臓がばくばくと鳴た。体温もそのたびにかと上がる。
 夕食だと侍女が呼びに来るまで、イーリスは布団の中で落ち着きを取り戻そうと必死になていた。しかしそれに成功しないまま、夕食の場ではクロドの顔をまともに見ることができなかたのである。
← 前の作品へ
次の作品へ →
5 投票しない