霧を歩く
空から街中に綿をまき散らした様な霧。呼吸をすれば胸の中までもが霞がかかりそうだ。
遠くにぼんやりと広がる赤や緑の円形の光は信号機だろうか。
いつもは夜明けとともに活動を始めるカラスたちも今朝は休みを決め込んだらしい。
目の前の道を、原動機付き自転車が横切
っていく。前かごに満載にされた荷物はおそらく新聞だろう。ライトで照らしても数メートル先も見えないようなありさまなのに、今日も新聞は届くらしい。
勤勉な新聞配達人のほかには、わたしくらいしか出歩く人間はいないようだ。
郊外ではあるが、主要な地域へのアクセスに時間のかからないこの街がざわめいてくるのはもう少し遅い時間からだ。
わたしがこうして起き出しているのは、悲しいかな歳を重ねるにつれ、睡眠時間が短くなったためだ。
この街に暮らしてきて、もうずいぶん経ったが今朝のように視界に覆いを掛けられるような濃霧は初めてだ。
いつもの朝なら、未明から放送しているテレビ番組を見ている。今朝はカーテンの隙間から見える街の景色が、いつともはあまりに違っていたから思わず外に出てしまったのだ。濃いめに入れたコーヒーに一滴のミルクを垂らした様な色に染まった街。
外は冷えると考えて、昔妻に買ってもらった薄手のセーターを着込んできたのだが、なぜだか妙に暖かい。沸かしてから少し時間の経った湯船につかっているような気分だ。
いつもはもう少し遅い時間に始める散歩だが、たまには夜明け少し前に始めるのもいいだろう。補聴器を部屋に忘れてきてしまったが、この時間なら誰かに話しかけられると言うこともないだろう。
それに、今日はいつになく耳の調子がいいようだ。先ほどなどは原動機付き自動車のエンジン音すら聞こえてきたのだ。自動車のエンジン音が聞こえないはずがない。
わたしは歩き慣れた道をゆっくりと進んでいく。
霧のせいで見慣れた街並みも、まるで初めて訪れる異国のようだ。
このあたりの街灯はすべてLEDへの切り替えが終わっているはずなのに、今朝の街灯の光はいやに黄色く見える。
霧によるなんらか光学的な影響なのか、それともいよいよわたしの目もくたびれてきたのか。
靴の下に踏みしめる地面の感触が、いつのまにか変わっていること気がつく。堅いアスファルトからむき出しの土のものへと。
視界が効かない中、知らぬ間にどこかの公園へと迷い込んでしまったのだろうか。記憶の中から街の地図を見つけ出そうとするが、どうしても見つけることができない。街をすっぽりと覆い隠している霧が、わたしの頭の中にまで入り込んできたようだ。
時間が経てば陽も高くなり、霧も晴れるだろう。……それにしても、陽の光はいつになったら届くのだろうか。
ここにとどまっていた方がいいのか悩みながらも、足は無意識のうちに前へ前へと進み続ける。
空気の匂いが少しずつ変わり始めてきた。何かが焼けたような不快な匂いがあたりと漂っている。――漂っているどころではない。まるで自分が広大な焼け野原の中心にいるかのようだ。焦げ臭い匂いの中に、燃料油の匂いが混じっている。
昨晩から今朝にかけて火事はなかったはずだ。眠りの浅いわたしは、消防車のサイレンを効けば必ず目を覚ます。
それに、この濃厚な匂いは、建物が焼けたものだけではない。る種の生き物が焼かれたときの匂いだ。わたしはずっと昔、全く同じ匂いの名かぼんやりと座り込んでいたことを思い出した。
わたしは誰かいないか声を上げながらいつまでも、いつまでも歩き続けた。
もしかしたら、どこかで呆然と座り込んでいるやせた坊主頭の少年に出会うかもしれないと思いながら。