triangle
三角定規には、ふたつの種類がある。ひとつは、底角が45度の二等辺三角形。もうひとつは、1:2:ルー
ト3の直角三角形。
ひとつのものを取り合うのに、1:1の関係か、2:ルート3の関係かの違いではある。
だけども、その差は歴然としている。
たとえば、同一の人物が複数の人格に分かれたとしよう。
その人物には、共通の誰かがいるとする。
そうしたとき、ひとりの誰かを多角的な視点で見ていることに気づくだろう。
その人物に対して、いい面を見ていれば、悪い面を見ていたりする。でも、それは、僕らにとって普通のことじゃないだろうか。
私たちは、普段、いい面も悪い面も見ながら、取捨選別をしている。恋愛に限って言えば、自分にとって、“どれだけいい面を見せるか”というところが、ポイントになっていると思われる。
誰しも、自然にそんなふうにひとを“取捨選別”しているとは思わないだろう。
だけど、よく考えてほしい。
目の前に、自分と1と2、あるいはルート3の距離感のある人間が、海に浮かんでいるとき。誰を助けますか?
自分と等距離の人間を選ぶのは当然だ。
あなたが今、思い浮かべた、親・兄弟・家族・友達・他人。誰を助けますか?
人間関係とは、究極に言えば、目の前の誰かと、目を閉じて一番最初に思い浮かぶ人間との三角関係だ。
自分の想像外の誰かを思いやるには、人間というものは熟成されていない。
それでも、僕らは誰かを選ぶことを、自然のことのように、当然の顔をして、無意識に行っている。星座をつくるように。
星座というのは、人間たちが、下界からよく見えるもの同士を結んで、僕らがよく知っている形に結んだものだ。
振り返ってみてよう。僕らが何気なく聞き流して、たまたま耳についたニュースを、まるで鬼の首をとったかのように、言い合い、
「君の人生にもかかわってることなんだよ!?」
と、まるで自分が真実のように言い放つ様を。
僕らはいつから上流階級になったんだろう。
いつから、神になったんだろう。
僕は、それが怖い。
神になった人間は、取捨選別を躊躇いなく行う。
人間は、人間であるからこそゆえに、誰かの上に立つのではなく、考える葦というのなら、自分の見上げる空を自覚すべきだではないだろうか。
僕らは、他人の生き死にを簡単に語れる時代に生きている。
そこに善悪を感じることなく、むしろ“神”であるようにふるまう。
それを僕らは自覚しているだろうか。
それを僕らは自身に向けられる刃として認められるだろうか。
自分の否を指摘される恐ろしさを、理解しているだろうか。
きっと理解できていない。
けれど、僕ら生きている。
迷ったり、戸惑ったり。それを否定できるだろうか。僕にはできない。
だからこそ、僕は言うしかない。
君が信じた“三角関係”こそ、真実だ、と——。