春の妬心
春風が吹くと妙に気持ちがざわつく。妙に腹が立ち、そわそわと気味が悪くなる。それは昔からの癖だ。
私は春が嫌いである。
「それは変わ
った思考だね。普通は春が来ると喜ぶものだ。冷たい風が消えて日差しが注ぎ、桜も綺麗。まあ多少、暑いことと……ああ、あとは人がはしゃぎ過ぎるのが難点なくらいだね」
友人は大仰にそういって腕を広げる。
彼の腕から漏れる生ぬるい風さえ、私にとっては不快だった。
「そう思うなら、腕を広げて暴れるのはやめたまえ。君が綺麗だと言っている桜の花が散ってしまう」
酔っ払った彼が大仰に腕を広げるたびに、すぐそばの桜木から花が散る。
今年の春は遅かった。そのせいで開花も遅れたが、哀れなことにやけに雨が続く、時には嵐が吹き付ける。せっかく咲いた愛らしい花は、ちりちりと、散っていくばかりである。
白い花弁がくるくると、円を描いて舞い散るのをみるたびに、私の胸は妙なほどに苦しくなるのだ。
私は昔から妙に桜が好きだった。
桜が開く春を待ちわびるくせに、実際に春を迎えると不思議と気分が悪くなる。
「君は、何をそんなに苦しんでいるんだい」
友人は、私をみて、にい。と笑う。
さて。彼はこのような顔をする男であっただろうか。
「春が来るたび、君の苦悩は増えるようだね」
彼はゆっくりと、顔にかかった眼鏡を取る。体をまとうジャケットをぬいで桜の木にかける。
彼の腕が枝に触れたそのせいで、花が大量に散った。
「やめろ。花が散る」
「君は春が嫌いといいながら、やけに桜の肩は持つのだな」
友人は、いや、友人というその男は……暗闇の中から私を覗く。
彼は誰だ。
彼が動くたびに、生ぬるい風がわき起こる。そのたびに、花が散る。
「僕が誰か分かるかい。君は誰だ。まだ分からないか」
……彼は誰だ。
気がつけば、一面はぞうっとするほどの桜の園だ。
四方に桜が続く。空には花が広がる。大地の水溜まりには、花の影が映っている。
白に煙る空の下、それはまるで影画のようだった。
濡れた土の香りに、花の香り。白の花弁が、風が吹く度散って行く。
「……ああ」
私は冷や汗を拭おうとして……気がつく。
「そうだ。私は」
拭おうとしたその手は、緑色の柔らかな羽根と化していた。
大地の水溜まりに映るのは、天を覆う桜の木とそして一羽のやせ細った目白の姿。
「……春風が彼女を優しく揺り起こし、春の日差しが彼女を目覚めさせ、春の雨が彼女を濡らし春の嵐が彼女を散らせる」
友人は……否、春の化身は今や桜の園を覆うほど巨大な姿となり、愛おしげに桜の花を撫でている。
そのつどに、風が吹く。桜は嬉しそうに揺れる。揺れるつどに、花が散る。
花は、散りながらも幸せそうなのである。悲しいくらいに従順なのである。
しかし私はそれを見ても何もできない。小さな体は春風に吹き飛ばされる。
「やめろ」
私は悲鳴をあげた。しかし喉から漏れたのは、哀れなほどに愛らしい鳥の鳴き声である。
「……私は春に」
「君は恋をしているのだろう。君は嫉妬しているのだろう。春ほど彼女を好きにできるものはいない」
春の手が、桜を撫でる。曇天の中、散る花は甘い蜜の香りだけを残している。
噎せ返るような花に埋もれて、私は呆然と桜の蜜を吸う。
それは春が来るたびに味わう、失恋の味だった。