ダーリンが来た
木漏れ日が梢をまだらに染めていた。ほんのすこし前までは風が肌寒か
ったのに、陽射しがほんのり暖かくくるんでくれる。
ゆうらり、ゆうらり、揺れる。こういうのは嫌いじゃない。動きはいろんなものを運んできてくれる。静かなだけの世界では生きていられない。いのちはずうっと動き続ける。どこかへ去ってしまうまで。
おなかすいた。
ちょうど葉裏の影が視界を覆っていた。なにか食べたい。でも、こればっかりはどうしようもない。おなかを満たすものは自分で作ることができない。それができればいいんじゃないか、って考えたことはある。
でも、それって無理なんだ。
おなかを満たすものを生み出すには、ものすごくいろんな機能が必要だ。たぶん、私に備わっている能力のほとんどをとっぱらって、代わりに据えられるかどうか、ぎりぎりなくらい。そうなると私は、ここにじっとしたまま、自分でせっせとおなかを満たし続けて、それで終わり。
それはしあわせなの?
よくわからない。
でも、それにはもうひとつ、大事なものが欠けている。
子どもを、残せるの?
子どもを残す機能って、これがまたものすごく容量を喰う。ひとりで子どもを作れる生き物はいるけれど、それにスペックの大半を費やして、あとはもう生きるだけ。
だから、とりあえず男女に分けて、おなかを満たすのも外にある食べ物を摂って、というかたちにならざるを得ないんだ。
まず、ごはんを食べなきゃ。いっぱい食べて元気になって、子どもを作れるようにならなきゃ。なんで子どもを作らなきゃならないのか。そんなの、知らない。
でもね、こういうイメージはあるんだ。
いつかこの身体が動かなくなって、こんな風の中で乾涸びてゆくときに、私の子どもがどこかでちゃんとごはんを食べて、元気に生きて、だれかと子どもを作っている、と思えたら、なんだかちょっと身体が軽くなるかな、って。
気持ちの問題だよ。勝手な思い込み、って言われたらひとたまりもない。
だけど、それを感じるだけでしあわせになれる。
たぶん、自分ひとりでおなかを満たす能力を持って生きるよりも、ね。
私は、しばらく前から目が悪くなってきた。
ぼんやりとしか見えないの。
皮膚の感覚や嗅覚、聴覚があるから、なんとかやっていけるけれど。離れたところにあるものを、暗がりでも捉えるためには嗅覚や聴覚が大事。視覚って、意外と不便なんだな。物陰にあるものや闇の中にいるものは見えない。ほんとうに危険なものは視覚の隙をついてやってくる。だから、いつでも嗅覚と聴覚を研ぎ澄まして、まさかのときに備えておかないと。
でも、目で見たいものはある。
たとえば、とても親しい間柄の、私のパートナーの姿。
ダーリン、って呼んでるけどね。
ときどき近くまで来てくれる。私は、もちろん追い払う。だって、そばに来てほしいときとそうじゃないときってあるでしょ。それって好き嫌いとはまたべつのこと。
もうひとり、余裕ありげに私に付きまとうのがいる。
モブ、って呼んでるけれど。
モブはダーリンよりもずいぶん年上だ。訳知り顔に私を口説いてくる。たとえば「嫌よ嫌よも好きのうち」とか、だれが言い出したのか分からない戯言を振りかざして、私が突き放してもめげない。
ありがたいことに、ダーリンはモブよりもはるかに強い。鉢合わせしたときには力ずくで追い払ってくれる。これが逆だったらいたたまれなかったと思う。
それにしても、好きなら相手が来たらいつでも受け入れるべきだとか、なにその身勝手な決めつけ。好きなら、そばに来られたらうれしいだろう、って?
そういうものじゃない。
こっちは機械じゃないんだから。
モブはいままでの「女性経験」とやらで自信たっぷりだ。
でも、ちょっと待って。同じ手順を踏めば同じ反応があってしかるべきとか、じゃあこっちはなんだっていうの? それってそっちがラクなだけじゃん。ちゃんと様子を見て行動しないって、こっちのことどうでもいいって思ってるだけでしょ。
わがままだって?
そっちが、ね。
閑話休題。
モブのことなんてどうでもいい。
ダーリンが来てくれるんだ。
だったら、ちゃんとおなかいっぱいにして待ってないと。おなかすいた、って思ってたら、ぜったいに追い払っちゃうもの。ごはんをいっぱい食べたら、気持ちが落ち着くの。だって、しあわせな気持ちになるもの。自分の身体中に栄養がめぐって、疲れや痛みが癒されて、元気になったら、あとはダーリンだけに向かえる。そういうタイミグで来てくれるのがいちばん。だから、なるべくそういう、しあわせな私で迎えたいの。たぶん、そういうときって、その、やっぱり可愛く見えると思うんだ。可愛くって、会いに来てよかったなって。そばに居られるのが嬉しいなって。そんなふうに感じてくれたら、私だってなんだか恥ずかしくって、いつもよりずっとやさしくなれると思う。そんなときのダーリンの顔を見つめるのが好き。
でも、目が悪くなったんだ。そばに来ても、ダーリンの顔は日陰みたいにはっきりとした像を結ばないかもしれない。それでも、がっかりした顔なんて見せないよ。とびきりの笑顔で、こうしていられるのが嬉しいって、思って欲しいでしょ? だから、ぼんやりしたダーリンの顔に私は微笑むの。見えなくても、薄暗くても、そこにダーリンがいるんだから。モブなんかと間違えたりしないよ。モブのふるぼけた身体や黴臭いにおいなんて、目をつぶっていても分かる。
おなかすいた。
葉擦れの隙間から気配がする。
聴覚を働かせる。
ダーリンじゃない。それはわかる。ダーリンならもっとリズミカルで、気持ちが浮きたつようなステップを踏んでくれる。
大きさは?
私と同じくらいだ。もしかすると、モブかもしれない。こんなときにやって来るなんて。身構えて、間合いを測る。追い払ってしまおう。身体に力を入れようとして、十分に入らないことに気づく。だって、もうふらふらなくらいに腹ぺこなんだ。
ちょっと、待って。
これを食べれば、腹ぺこの身体も潤ってくるはず。ダーリンを迎える準備も整う。嗅覚が気配のかたちを捉える。いつもの黴臭いにおいはしない。
モブなら、大きさは十分だよ。
よく来てくれた、と思う。わざわざ私のそばまで。いつもはそばに寄られるだけで寒気がするけれど。でも、きょうは、なにか運命を感じてしまう。
なんのためかって?
きまってる。私とダーリンのためだ。
私がおなかいっぱいになって、笑顔でダーリンを受け容れるために。
ダーリンはいつもよりずっと可愛い私を思うさま抱き締めるために。
ちゃんと、お互い思い合って、こころをほどき合って、隙間なく重なり合うために。
そのため、と思うと、なんだか優しくなれそうだ。ダーリンに対して思うのとはまたべつの、身体にじんわりと沁み渡ってゆく温かい気持ち。
そのためにはちゃんと、おいしくいただかなくち