野菜サンドのレッスン
(お題:純愛/懊悩)
一.
異邦人のバルバラは、両親が亡くなるとその全財産を受け継いだ。けれど、その死が突然のもので、また事業に奔走していた最中だ
ったため、彼女にはいくつも借金が残され重荷になっていた。
そこで無一文になる覚悟をしながら、バルバラは潔く財産の清算した。ところが、当初は硬貨一枚の価値もないと思ったものが高く売れたりして、処分が終わってみると、日当たりのいい庭付きの小さな家が残ることになった。老犬のラーチャも手放さずにすんだ。犬一匹分の余裕すらないのでは、と心配していたバルバラは、愛犬の命が失われずにすんだことにとても心が安らいだ。
残された家の庭は、バルバラの生活に大いに役立っていた。異邦人のバルバラに冷たい世間が許す小さな仕事を、庭は約束したからだ。それは仕事に忙しい男たちや一部の女の洗濯の仕事だった。
洗濯機で洗いとすすぎを繰り返し、その合間に物干し台とを往復する。女たちの衣類には特別に、洗面器で手洗いもしなければならない。洗濯物がたまった雨の翌日には、早朝から昼まで、そんな風にしなければならなかった。
本当なら甘い菓子にでもたとえられる年なのに、彼女はフランスパンのような姿をしていた。決してバゲットのようにノッポなわけではないが、痩せていて、手の荒れ方はひどかった。
それでもこの仕事はとても心地がよかった。
バルバラは肩ほどの髪を快晴の風に任せ、少しだけなびかせた。そして折り畳みの椅子に座って、いたずらな風や浮浪の輩に洗濯物を奪われないよう番をした。その間、石けんの香りを感じながら、荒れてかさかさの指で本のページをめくった。
隣ではラーチャがおとなしく座っていて、時折飛んでくる虫をはねのけるために小さく動くだけだった。たまにバルバラが撫でてやると、ラーチャは気持ちよさそうに鼻を鳴らした。
読書は洗濯物から離れることができないバルバラの、わずかな楽しみだった。彼女は雑誌も恋物語もサスペンスも、ほとんど読まなかった。本は決まってお堅いもので、科学、人類学、芸術、人生論、哲学などだった。
おだやかな風の吹く好天の下で、そういった本を読み、遠くから響いてくる大学の鐘の音を聞くのをバルバラは好んだ。
――いつか自分もあの大学の教室の席につき、教鞭を執る教授たちの言葉に耳を傾けたい。
そんな風に夢見ながら、けれど風の吹く丘の上から離れられないでいた。
ある日、見たことのない男がシャツの洗濯を頼みに来た。車に泥をはねられ、持っていた替えのシャツを汚されたと言った。それは前日の雨が嘘のように晴れた休日の正午のことで、すでに洗濯は終わり、物干し台の列も立派に完成したところだった。
「今日はもう干せませんよ。今から洗っていたら乾きません。それに、シャツ一枚を洗濯するのは経済的じゃないんです」
「そうか……いや、参ったな。明日の講義にシャツがどうしても必要なんだ。新しいのを買うほどでもないんだ。家にも何枚かあるからさ」
講義という言葉を聞いたとき、バルバラは男が渡そうとしたシャツの襟元に、どこか見覚えのある大学のピンバッチがついていることに気づいた。
「なんとか頼めないかな」
バルバラは相手の顔をこのときになってやっとしっかり見た。そして急に二つ返事で引き受けた。
こうしてバルバラは、州の大学の講師アンドルーと出会った。
二.
考え事をするとき、多くの人がそうするように、バルバラも窓の外をよく見た。アンドルーに出会ってしばらくして、部屋で洗濯物を畳みながら「仕事自体を畳んでしまおうか」と考えていたときもそうだった。
窓の外には、庭に寂しく立っている物干し台が見えるだけだった。太陽と風の恵みを受ける丘の庭付き物件は、しかし孤独だった。
バルバラは、まだ根拠のはっきりしない不安を抱いて眺めていた。すると窓の外が急に暗くなり、数分のうちに嵐になった。三十分でもタイミングを間違っていたら、洗濯物はすべて謝罪に値するものになっていただろう。シャツを二枚しか持っていない男もいるのだから、それはとても大変なことだ。
バルバラの人生の選択に、この嵐は「迷いの根拠」という大きな役割を持っていた。激しい風と雨音を聞いて、彼女は自分の生活を突然の嵐が吹くような場所においておきたくないと思った。洗濯は嫌いではないけれど、厄介ごとは嫌いだった。
それにバルバラは知っていた――今はまだ、インテリな洗濯屋の娘を気取っていられるかもしれない。でも永遠に続くことはない。やがてつまらない男と結婚するか、あるいは独身のまま……?
バルバラは、自分には新しい風がふさわしいと思った。
彼女がした決意は、軽くもなく重くもなかった。気まぐれでもなければ、命の覚悟というわけでもなかった。
先日出会った大学講師のアンドルーを大学まで訪ね、ちょっとした気まぐれで遊びに来たのだけれど、その気になれば仕事を探してもいいし、大学に入ってもいい。私は自由と学問を愛している、などと言った。
言っていながら、彼女は自分の支離滅裂さに気づいて少し焦った。
けれど、アンドルーは気づかなかったようだ。むしろ来てくれてうれしいとさえ言って、彼女の頬にキスをした。
それから何度かバルバラがアンドルーの部屋に通い、あるときは彼の蔵書を閲覧させてもらったり、またあるときは早くもベッドで一緒になったりして、やがて二人は簡素ではあるが共同生活を始めた。
バルバラがアンドルーの部屋に持ち込んだものといえば、少しの生活品と数冊の本と、六インチ半の鉄のフライパンくらいだった。よく油の馴染んだこの小さなフライパンは、せいぜい二人分の目玉焼きを焼くことしかできなかったけれど、それが実に生活に馴染んだ。二人きりの生活に、彼女はとりあえず満足した。
ラーチャを他人に預けなければならないことは残念で仕方なかった。しかし、それも二人が結婚を決めて転居をすれば手元に戻せると約束したので、しばらく我慢することで決まった。
バルバラは、朝には目玉焼きを用意し、ランチボックスにもパンに芥子と野菜や肉を挟んだものを入れて、アンドルーに笑顔で渡した。生活のためのお金はすべてアンドルーが出していたけれど、バルバラはガリガリの身体を太らせる生活をしたりもしなかったので、薄給の彼でも賄うことができた。
バルバラはアンドルーの帰りを心待ちにして一日を過ごした。しかし洗濯屋をやめた彼女の有り余る時間は、新しい街の散策や読書だけで終わるにはもったいなかった。それというのも、バルバラは大学の講義を見にいきたいとアンドルーによく話していたのに、彼は正式な書類がないとだめだ、と当然のことを言い、いつまでも彼女を待たせていたためだった。
しかし彼女はまだ若かく、大学に侵入しても何の違和感もなかっただろう。そして学問へのバイタリティーや自立心の強さなどに表れる彼女のやる気から、実際にそれを実行した。それらしい冊子とノートをバンドで縛って、さも学生だというふりをして、大学へと潜入したのだ。
バルバラは、大教室で大勢の学生にマイクで聞かせるような、出席をしても不法侵入とばれない講義を選んで忍び込んだ。それでもときどき、入ってから学生の顔ぶれが少数で固定であると気づいて、クラスを間違えた風にして退席することも、何回かあった。それに専門科目ほど少人数になっていくから、そこへは入り込めなかった。一般教養や概論しか受けられなかったけれど、それでも収穫は大きかった。
彼女が得た知識は学術のなかでもごく一部だった。
季節と農耕の関係、アルコールの人体への影響作用、マッシュルームの一生のサイクル……などなど。入ってみて気づいたのだけれど、ここは産業(主に農業)に関する大学だった! もちろんそれは彼女の願望を否定するわけではなかった。一部の専攻や科目を選択すれば、外国語の詳しい文法や農業化学へ発展する基礎化学など、学ぶことはできるはずだった。
そうしてバルバラは野心に燃え、講師の顔に熱い視線を注ぎノートを取った。
三.
数回、農学基礎の講義を受けた後に、その講義を担当していた講師がバルバラに近づいてきた。それはアンドルーではなかった。彼はバルバラに「君は熱心だから」と言って、研究棟にある自分の部屋に来るよう誘ってきた。
バルバラは熱心だと言われたことを喜んだ。この講師に下心がないことも、バルバラはわかっていた。一度、アンドルーの研究室にいったときに、仕切りというものがほとんどない部屋割りを見ていたからだ。
「さあ、奥へ入って」
けれど、案内された部屋は研究室の奥まった部屋で、何かわからない機材が詰め込まれた、機密性の高いところだった。そして彼女が入ると、講師はすぐに鍵をかけた。
バルバラは自分がさきほど褒められたような優等生とはかけ離れた扱いをされているような気がした。
振り返った講師は、さっきまでのように優しい態度は取らなかった。すぐにバルバラに詰問を始めた。
「君はどこの人間だ。私の講義に顔を出す学生は、みんな顔を覚えているんだよ」
バルバラは自分がひどい失敗をしたことに気づいた。
「最初にそこそこの人間がやってくるが、すぐに人が減るのが選択講義だからね。君は少々、年が上だから普通の学生じゃないと思うんだ。名前と学籍番号は?」
彼女は何も答えられなかった。講師は何も処罰するわけではないと言ったけれど、バルバラは当然、何も答えられなかった。彼女は学籍番号の桁数さえ知らなかっ