窓辺の少女
新月の晩なのか、それとも月が雲に隠されているのかよくわからないが暗い夜である。
橙色の街灯が照らしているのは巨大な廃墟だ。
昼間はただの景色の一部なのに、闇の中に屹立するそれは妙な圧力を持
っており、異様な存在感が湧き出ているような気がする。
「ほら、あそこにいるでしょう。白い服の女の子が」
老婆が指さす方向を見てもそこには何もない。ガラスさえ風化してしまった空虚な窓がぽっかりと口を開けているだけだ。
「はぁ、暗くてよく見えません」
老婆の気分を害することは避けたかったが、同時に嘘をつくのも嫌だったので曖昧な妥協点で言葉を濁した。彼女の顔に影が差したような気がして、私の姑息な逃げの手を悟られたのではないかと不安になった。
「あんなに可愛らしいのに、残念ね」
その言葉に皮肉がこもっていたとは思えない。綺麗なものを共有できないことが、ただただ残念でならないといった様子だった。
老婆は純真な目で誰も存在しない窓辺を見つめ続けている。
私は戸惑いながらも少女がいるはずの窓を眺めている。
それでも私たちは、共有不可な世界を祈り続けるように、見続ける。
老婆の雇われたのは数年前、それまで私は何もせずにのんべんだらりと過ごしてきた。曖昧な世界を曖昧に徘徊して曖昧な自分を曖昧に良しとしてきた。曖昧で視界に入らない景色の一部。モブ。そんな受動的には不可視であるはずの存在であった私に、老婆は声をかけてきたのだ。
「うちで働かない?」
それはあまりにも唐突で突飛で奇々怪々だった。やたら渋い声で、もはや女の色香というよりは男の色香にも近いものを纏ったその雰囲気に思わず動揺した。服装は気品のある女性的な装いだが、過ぎ去って過去となったモダンが性別の境界を揺らがせる。彼女は確かに過去のモダンだった。かつて純文学界に華々しくデビューした新鋭の作家。超新星ともうたわれた若手の実力者。でも今はもはや若手でも超新星でもない、ただの老いた物書きのの一人にすぎない。幸い負債を背負い込むこともなく、資産だけはため込んだが。
「資産を貯めこんだただの物書きっていうのは貧乏人に対しては皮肉にしか聞こえないんですがね」
そんな皮肉を込めたひと言にも彼女は少し笑って答えるだけだった。現代よりも作家の力が強かった時代、本が飛ぶように売れた時代に売れっ子だったとはいえ、広い洋館を購入できるほどの収入があったとは考えづらい。おそらくは作文の才能とは別に資産をうまく転がす才能があったのだろう。
「現状を正しく認識しているだけ。皮肉に感じるのだとしたら、それは貧乏人の劣等感がなせる業で、私はそれを誇っているつもりはないのだけれど、かと言って貧乏人に配慮する労力は払う気はないわ」
いちいち癪に障る反論をされるのはムカつくのだけれど、結局のところ私は彼女のもとで労働に励むことになった。人間は何故か労働という原罪を背負い込む羽目になる。働き始めるとは気はなんとなく「これでいっか」という気持ちで始めるものの、いざ労働を始めてみるとそれはそれでそれなりに苦痛だ。かといってすぐやめるのが難しいのも労働だ。契約書云々で縛られて手続き事項を処理するだけの気力がないのでそれならばまだ惰性で働き続けた方が楽な気がしてくる。物質が反応するためには励起エネルギーを与えてやる必要がある。その後の状態がより楽な状態であったとしても、そこに辿り着くための山を登るのは非常に億劫な作業なのである。
だから私はいまだここで働き続けている。私の仕事は家事全般と老婆の身の回りの世話だった。老作家は足を痛めており、歩けないほどではないのだが車いすでの移動を好む。車いすは電動であるにもかかわらず、誰かがそばにいれば押してもらうことを好む。だからそれも私の労働に含まれるのだ。
「人の善意が転がっているのに、なぜ使わないの?」
善意ではなく、これは仕事だ。声をあげての反論はしないが、むすっとした表情をしていると老女は満足げにほほ笑むのだ。
老婆に客が訪れることも稀だし、老婆が誰かに会いに行くということもほとんどない。ただ、月に数度、彼女の顔を見に出かけること以外では。
老作家曰く、彼女はいつも窓辺に佇んでいるのだという。そして、じっと、あるいはぼんやりと遠くの方を見続けているのだと。
その廃屋はかつて病院だった。使われなくなってしばらく経っているためか劣化が激しく、歴代の不良少年たちによる爪痕も多く刻まれている。どういう理由で解体もされず長年残されたままなのかは不明である。いかにもいわくありげな心霊スポットのような場所だが、別に呪いとかそういったものではなく土地や建物の権利関係が入り組んでいて誰もうかつに解体することができない状態なのではないだろうか。
そんな朽ち果てたかつての大病院を前に、今日も老婆は窓を見上げる。
その時だけは老婆は少女のような表情を見せる。
老婆はずっと、少女の事を見続けてきたのだろう。
ずっと見上げ続けてきたのだろう。
たぶん、見ることしかできなかったのだと思う。
私が彼女に出会ったのは、私がまだ少女だった頃の事。あの頃はまだ純真な女の子だった。もちろん今でも純真だけど、あのころと比べればさすがにくすんできているわね。心っていうのは宝石ではないから、美しさを保ち続けるっていうのはなかなか難しいし、綺麗な心も外見に見合わなければただグロテスクな代物になってしまう。
そのころ、この廃墟はまだ病院だった頃で、その病院はまだ出来立て、白い壁は輝いて見えるほどでどこか神殿に近いような印象を与えてくれた。病人が通うような場所とはとても思えなくて、むしろ病人を遠ざけてしまうかのような清潔感を放っているような気がして病院という名前には違和感を覚えていた。普通の人とはちょっとだけ感覚が違うかもしれないけど、綺麗なものに目がなかった私はしばらくの間、この病院に通った。もちろん病人としてではなくて、その外観を眺めるために。でもそのうち、病院に興味はなくなった。見つけてしまったから、彼女を。
彼女は今と全く変わらず、同じ場所、同じ容姿でその場に立ち続けていた。何を見ているのかはわからないけど、ずっと視線をそらさず、何かを見ている。そんな彼女の姿がとても美しいと思ったの。初恋の衝撃ってこういうものなのかしらね。ときどき彼女の顔が心に浮かんできて、その光景に心奪われてしまう。彼女を見に行くことが楽しみで仕方がなくなってしまう。
彼女の顔を遠くから見ているだけで満足、なんて思えるほど老いてもいなかったあの頃。だから、勇気を出して近くまで行ってみようと思ったの。あわよくば声をかけて、あわよくば友達に。そんな想像で胸を膨らませて実行日を待ちわびていた。
彼女がいるはずの窓辺には、彼女はいなかった。
なんとなく予想はしていたけれど、失望感はあった。たった一回であきらめたわけではなかった。その後何度か彼女の経つ窓辺に行ってみたが、結局彼女に出会うことはできなかった。彼女が何者であるのか、調べよう。そう思ったとき、気が付いたの。調べてどうするのか。本当に彼女の事を知りたいのか。彼女の事を知ってどうするというのか。
それで、結局彼女に会おうとすることはやめたわ。
ただ、見ていられればそれでいい。
彼女が何者で、彼女がなぜそこに佇んでいるのか。
その理由を知る必要はないと思ったの。
彼女を見ていられてさえすればそれでいいのだから。
だから、私は彼女をずっと見続けている。
老作家の話を聞いて、まだの佇む少女は幽霊なのだろうと思う。病院というシュチュエ―ションもそうだが、容姿が昔からずっと変わらずそのままというのが大きい。宇宙人という可能性も捨てがたいが、宇宙人にしては行動が謎すぎる。いや、あまり捨てがたくはなかった。そもそも何で宇宙人なんて発想が出てきたのだろう。
ただ、老女にとっては少女が宇宙人だろうが幽霊だろうが関係はないのだろうな、と思う。中身なんて関係ないのだ。
まだ廃病院が取り壊される気配はないが、一度決まってしまえば取り壊しはすぐだろう。街中ではあるし、そこそこに立地条件はいい。果たしてあの病院が取り壊されてしまったとして、そこにいる少女はどうなってしまうのだろうか。そして、この老作家はどうなってしまうのだろうか。
生きている人間には生きている人間が見えて、同じように死んだ幽霊には死んだ幽霊が見える。
本当にそうだろうか?
幽霊が幽霊を見ることができるなんて誰が決めたのだろう? 実際、私はあの少女を見ることができないし、他の幽霊の存在も見ることができない。生きている人間は見えるが、一部の人間にしか私は見られることがない。社会的には死んでいて、いろんな意味での幽霊な私は仲間たちを見ることができない。
幽霊屋敷のような洋館で、私の話し相手は老婆のみだ。
この洋館の中でも変な物音は聞こえるし、ほかにも誰かが働いているような気配を感じることはある。果たしてそれは生きた人間なのか幽霊なのか、それともただの錯覚なのか。たとえそれが何者であったとしても、雇用者と労働者の関係にはなりうるかどうかはさておき、恋にも似た憧れの対象にもなりうる。
だけどそれは壊れやすくもて危ういものであるのかもしれない。
老女はそれに気が付いて少女と距離を近づけることをやめたのだ。
綺麗なものは、壊れやすく脆い。
「でも最後は結局は壊れてしまう」
私たちは廃病院の解体の様子を見つめている。作業員や交通誘導員は訝し気な目でこちらを見るが、一定の距離があるため何も言ってこようとはしない。
「壊れた後はどうなるんでしょうか?」
そんな私の質問に、呆れたように老作家はため息をつく。
「野暮なことを聞くのね。思い出にするか、新しいのを見つければいい」
私も呆れたように溜息をつく。
「そんなことを聞いてるんじゃないです。窓と足場がなくなったら、その娘は宙に浮いてるんですかね?」