乾杯しましょう
明かりを消した三階廊下がはるか先まで伸びているのは、点々と続く窓で分かる。窓の向こうの夜空は雲が街明かりを受けて灰色に見える。点滅して移動する光はたぶん飛行機だ。廊下には火災報知機の赤い光がぽつんと灯
っている。それ以外は闇に沈んでいて、床の位置すらよく分からない。周りの空気は、汗や埃の凝った饐えた臭いで満たされている。
私は女子トイレ入口に身を隠して、廊下の気配を窺っている。目を凝らしても追ってくる人影は見えない。窓側を歩けば灰色の四角が遮られて、教室側なら窓からの薄い明かりに照らされて、見えるかもしれない。でも、あの汲田悠希はそんなヘマはしない気がする。あいつならきっと窓側にしゃがみ込み、足音を忍ばせてやって来るはずだ。背後から、塩素系の洗剤で雑に洗っただけの、排泄物混じりのすっぱい臭気が忍び寄ってくる。この中に隠れたい気持ちを抑える。そもそも個室の戸は使用していなければ開きっぱなしだ。閉まっていればここにいると宣言するみたいなものだし、そうなると蹴り一発で鍵は壊れる。嘘だと思ったら学校のトイレを見てみるといい。鍵部分も蝶番もネジで留めているだけだから。掃除用具庫は閉まっているけれど鍵がかからない。ただ、奥の壁にハッチがあって、開けるとパイプの通った半畳ほどの空間がある。たぶん水回りのメンテナンス用だ。女の子の中にはこのパイプ途中のバルブに自分用の巾着袋を掛けている子がいる。大抵は生理用品が入っているけれど、中には避妊具を忍ばせている子もいる。このパイプ伝いに上か下へ逃げられるかもしれない。下は、つまり一階へとつながっている。つまり、高さは三階分だ。手が滑るか力尽きるかすれば埃と蜘蛛の巣まみれの真っ暗な空間を下まで落下することになる。途中、突き出たバルブにあちこち強打しながら。そして肝腎なのは、二階も一階も、このパイプ空間へのハッチは掃除用具庫側から掛け金がかかっている点だ。逃げられないまま、身を縮めているところに頭上からLEDマグライトに照らされたら。
つまり、基本的に逃げ場はない。スマートフォンはなくしてしまった。デッキブラシを握っているけれど、汲田祐希はスタンガンを持っている。どれだけ殴っても、電撃を受けたらそれで終わりだ。身動きが取れなくなったら、あいつは……。
身震いして、デッキブラシの竹の柄を握り直す。
事の起こりは放課後だった。高校三年の十二月第二週。期末考査がやっと終わり、翌週から補習週間は始まるものの、一様にほっとした空気が漂っていた。特に、AO入試や推薦入試で大学が決まっている子たちはクリスマスの予定で盛り上がっていた。私は投げ捨て可能な私大推薦合格を一つ持っていたけれど、センター付きの国立推薦というのに出願していて、年明けが勝負だった。付き合っていた大見颯太は国立前後期フルマークの予定で、たぶんクリスマスどころじゃない。いざとなったら私立のある私と違い、国立しかダメみたいで、毎日ひと言だけ言葉を交わし、LINEも午後八時までと決めていた。進路決定組の子たちは学校がらみは試験も補習ももはや茶番でしかなくて、先生の言う「態度が悪かったら推薦辞退させるぞ」という脅しも馬耳東風で、だれた雰囲気を漂わせていた。野間結月もそんな中のひとりだった。
「あのさあ愛、汲田って知ってる?」
いきなり言われて、なんとなく思い出す。確か一年のときに同じクラスで、いまは七組のはずだ。なんの印象もない、小太りで色白の、いつも席でじっとしている子だった。
「あいつにさあ、アンタが好きだって言っといたから」
ちょっと待て。なによそれ?
結月は両手で制しながらにやにや笑う。
「からかっただけだって。アンタ、颯太とつきあってんじゃん。私らソロだからさ、からかってもしかして向こうがマジになったらキモいけど、アンタなら大丈夫じゃん?」
なにがどう大丈夫なのか分からない。はっきり言って迷惑でしかない。取り消すように言ったけれど、結月は「もう言っちゃったから、アンタ取り消して」とだけいって馬耳東風グループへと戻って行った。
なんなんだ、これは?
たしかに結月たちとはそりが合わなかったけれど、あと数カ月だと思って表面的には穏やかに接してきたのに、このザマかよ。とりあえず、汲田悠希と話して誤解を解かないとまずい。すぐに七組飛んでいくと、教室の中に小太りの身体が見えた。手招きして、教室前で顔を合わせる。丸顔に脂っぽい髪の汲田悠希は怯えた顔に笑みを浮かべた。こちらが言うより先に、「いや、ぼくも好きな子がいるんだけど、大沢さんに言われたんじゃ仕方がないから、その子を振って来たんだよね」と言う。いや、それって嘘だろ、と思いながら、実は、と言いかけると顔色を変える。
「それ、どういうこと。ぼくの立場はどうなるの。ぼく、わざわざ女の子と別れて来たんだよ。筋が通らないじゃん。大沢さんも男と別れるのが筋だよね」
周りの子が振り向く。声を抑えるよう手振りで示すと、よけいに声を張り上げる。
「そのあたりについて話し合おうよ。今夜、学校まで来て」
いや、それって無理だから、と言うと「じゃあ大沢さんがぼくをだまして二股かけようとしたって言いふらすよ。なんたって、ぼくはせっかくの彼女と別れたんだから。納得いく話をして貰わないと引き下がれないよ」とぼそぼそ言う。何人かが聞き耳を立てている。これ以上、話を延ばして颯太の耳に入ったら大変だ。うなずくしかなかった。LINEのIDを交換するはめになった。
そもそも結月がやったことなのに、なんでこんな目に。教室に戻ったときには馬耳東風グループはいなくなっていた。〈アンタね、たいがいにしろよ〉とLINEを入れたけれど、返ってこなかった。
汲田悠希の指定したのは午後十時だった。場所は校門前。校舎は真っ暗で、潰れた社宅の連なる一帯は静まり返っていた。通話が入る。
「中に入って。南棟東入口ドアの鍵が開いてるから」
警備会社のセンサーが入ってるんじゃないの、と言ったところで通話が切れた。颯太に八時に送ったLINEが頭をよぎる。〈がんばれー♪〉の一文に〈りょ〉。なんだか切なくなる。とにかく話を終わらせよう、と門扉の隙間を押しあけて中に入る。無人の校内は、ときどきセンサーが反応するのか照明が点灯した。胸がつぶれそうだった。なんだか侵入犯になったみたいで、実際そうだったけれど、それでもなんとか南棟にたどり着いた。ドアノブは冷たくて、露が降りている。思い切って回すと、びっくりするほどの軋み音が響いた。中に入り、声をかける。「こっちだよ」声に従って階段の手前まで行くと、背後でドアの閉まる音がした。
階段に腰を下ろした私と、目の前に立つ汲田悠希とで話した。全部結月のでまかせだった、と何度も言った。その点について汲田悠希はなにも言わず、ひたすら「大沢さんのために彼女と別れた」「責任取ってくれ」だけを繰り返した。取れない、と言うと、「それは通らないよ」と低い声が響く。「このままセンサーに反応すれば、大沢さんは不法侵入だよね。停学で、とうぜん推薦も取消し。そうなるくらいなら、ぼくと付き合わない?」
三十分ほど続いただろうか。話にならない。このままここにいても無駄だ、と立ち上がり、押しのけるつもりで手を出した。手首を掴まれる。びっくりするほど強い力だった。いや、力よりも、こんなやつに握られたことへの嫌悪感が私の力を奪った。「言うこと聞いてくれないと、こんなことしなきゃならないんだよね」闇の中に小さな稲妻が走る。ヤバい、と思い、とっさに蹴り上げる。運よく股間に当たったらしい。力が緩む。立ち上がると、階段を駆け上る。呻き声がひとしきり続いたあと、荒い息が追いかけて来る。背筋が寒くなった。上履きを履かない足のまま、真夜中の追いかけっこが始まった。
汲田悠希は狡猾だった。足音を消して追ってくる。うちの高校は教室をぜんぶ施錠してしまうので、逃げられるのは廊下と階段、あとはトイレだけだった。外に出るドアは内から開けられるけれど、二階以上は渡り廊下に出るだけで、その先は閉まった北棟のドアがあるだけだ。一階なら、ドアでも窓でも出られる。つまり、一階を塞いでしまうと校舎からは出られない。ときどき一階廊下をLEDの光が走る。東西の二階段から様子を窺うたびに光が飛んでくる。顔を見られると、すぐに走ってやって来るので逃げなければならない。やがて二階廊下に腰を据えて監視するようになり、私は三階に追いやられた。スマートフォンさえあればいくらでも助けが呼べるのに、最初にもみ合