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第42回 てきすとぽい杯〈紅白小説合戦・紅〉
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乾杯しましょう
大沢愛
 投稿時刻 : 2017.12.09 23:57
 字数 : 4523
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乾杯しましょう
大沢愛


 明かりを消した三階廊下がはるか先まで伸びているのは、点々と続く窓で分かる。窓の向こうの夜空は雲が街明かりを受けて灰色に見える。点滅して移動する光はたぶん飛行機だ。廊下には火災報知機の赤い光がぽつんと灯ている。それ以外は闇に沈んでいて、床の位置すらよく分からない。周りの空気は、汗や埃の凝た饐えた臭いで満たされている。
 私は女子トイレ入口に身を隠して、廊下の気配を窺ている。目を凝らしても追てくる人影は見えない。窓側を歩けば灰色の四角が遮られて、教室側なら窓からの薄い明かりに照らされて、見えるかもしれない。でも、あの汲田悠希はそんなヘマはしない気がする。あいつならきと窓側にしがみ込み、足音を忍ばせてやて来るはずだ。背後から、塩素系の洗剤で雑に洗ただけの、排泄物混じりのすぱい臭気が忍び寄てくる。この中に隠れたい気持ちを抑える。そもそも個室の戸は使用していなければ開きぱなしだ。閉まていればここにいると宣言するみたいなものだし、そうなると蹴り一発で鍵は壊れる。嘘だと思たら学校のトイレを見てみるといい。鍵部分も蝶番もネジで留めているだけだから。掃除用具庫は閉まているけれど鍵がかからない。ただ、奥の壁にハチがあて、開けるとパイプの通た半畳ほどの空間がある。たぶん水回りのメンテナンス用だ。女の子の中にはこのパイプ途中のバルブに自分用の巾着袋を掛けている子がいる。大抵は生理用品が入ているけれど、中には避妊具を忍ばせている子もいる。このパイプ伝いに上か下へ逃げられるかもしれない。下は、つまり一階へとつながている。つまり、高さは三階分だ。手が滑るか力尽きるかすれば埃と蜘蛛の巣まみれの真暗な空間を下まで落下することになる。途中、突き出たバルブにあちこち強打しながら。そして肝腎なのは、二階も一階も、このパイプ空間へのハチは掃除用具庫側から掛け金がかかている点だ。逃げられないまま、身を縮めているところに頭上からLEDマグライトに照らされたら。
 つまり、基本的に逃げ場はない。スマートフンはなくしてしまた。デキブラシを握ているけれど、汲田祐希はスタンガンを持ている。どれだけ殴ても、電撃を受けたらそれで終わりだ。身動きが取れなくなたら、あいつは……
 身震いして、デキブラシの竹の柄を握り直す。

 事の起こりは放課後だた。高校三年の十二月第二週。期末考査がやと終わり、翌週から補習週間は始まるものの、一様にほとした空気が漂ていた。特に、AO入試や推薦入試で大学が決まている子たちはクリスマスの予定で盛り上がていた。私は投げ捨て可能な私大推薦合格を一つ持ていたけれど、センター付きの国立推薦というのに出願していて、年明けが勝負だた。付き合ていた大見颯太は国立前後期フルマークの予定で、たぶんクリスマスどころじない。いざとなたら私立のある私と違い、国立しかダメみたいで、毎日ひと言だけ言葉を交わし、LINEも午後八時までと決めていた。進路決定組の子たちは学校がらみは試験も補習ももはや茶番でしかなくて、先生の言う「態度が悪かたら推薦辞退させるぞ」という脅しも馬耳東風で、だれた雰囲気を漂わせていた。野間結月もそんな中のひとりだた。
「あのさあ愛、汲田て知てる?」
 いきなり言われて、なんとなく思い出す。確か一年のときに同じクラスで、いまは七組のはずだ。なんの印象もない、小太りで色白の、いつも席でじとしている子だた。
「あいつにさあ、アンタが好きだて言といたから」
 ちと待て。なによそれ?
 結月は両手で制しながらにやにや笑う。
「からかただけだて。アンタ、颯太とつきあてんじん。私らソロだからさ、からかてもしかして向こうがマジになたらキモいけど、アンタなら大丈夫じん?」
 なにがどう大丈夫なのか分からない。はきり言て迷惑でしかない。取り消すように言たけれど、結月は「もう言たから、アンタ取り消して」とだけいて馬耳東風グループへと戻て行た。
なんなんだ、これは?
 たしかに結月たちとはそりが合わなかたけれど、あと数カ月だと思て表面的には穏やかに接してきたのに、このザマかよ。とりあえず、汲田悠希と話して誤解を解かないとまずい。すぐに七組飛んでいくと、教室の中に小太りの身体が見えた。手招きして、教室前で顔を合わせる。丸顔に脂ぽい髪の汲田悠希は怯えた顔に笑みを浮かべた。こちらが言うより先に、「いや、ぼくも好きな子がいるんだけど、大沢さんに言われたんじ仕方がないから、その子を振て来たんだよね」と言う。いや、それて嘘だろ、と思いながら、実は、と言いかけると顔色を変える。
「それ、どういうこと。ぼくの立場はどうなるの。ぼく、わざわざ女の子と別れて来たんだよ。筋が通らないじん。大沢さんも男と別れるのが筋だよね」
 周りの子が振り向く。声を抑えるよう手振りで示すと、よけいに声を張り上げる。
「そのあたりについて話し合おうよ。今夜、学校まで来て」
 いや、それて無理だから、と言うと「じあ大沢さんがぼくをだまして二股かけようとしたて言いふらすよ。なんたて、ぼくはせかくの彼女と別れたんだから。納得いく話をして貰わないと引き下がれないよ」とぼそぼそ言う。何人かが聞き耳を立てている。これ以上、話を延ばして颯太の耳に入たら大変だ。うなずくしかなかた。LINEのIDを交換するはめになた。
 そもそも結月がやたことなのに、なんでこんな目に。教室に戻たときには馬耳東風グループはいなくなていた。〈アンタね、たいがいにしろよ〉とLINEを入れたけれど、返てこなかた。

 汲田悠希の指定したのは午後十時だた。場所は校門前。校舎は真暗で、潰れた社宅の連なる一帯は静まり返ていた。通話が入る。
「中に入て。南棟東入口ドアの鍵が開いてるから」
 警備会社のセンサーが入てるんじないの、と言たところで通話が切れた。颯太に八時に送たLINEが頭をよぎる。〈がんばれー♪〉の一文に〈り〉。なんだか切なくなる。とにかく話を終わらせよう、と門扉の隙間を押しあけて中に入る。無人の校内は、ときどきセンサーが反応するのか照明が点灯した。胸がつぶれそうだた。なんだか侵入犯になたみたいで、実際そうだたけれど、それでもなんとか南棟にたどり着いた。ドアノブは冷たくて、露が降りている。思い切て回すと、びくりするほどの軋み音が響いた。中に入り、声をかける。「こちだよ」声に従て階段の手前まで行くと、背後でドアの閉まる音がした。
 階段に腰を下ろした私と、目の前に立つ汲田悠希とで話した。全部結月のでまかせだた、と何度も言た。その点について汲田悠希はなにも言わず、ひたすら「大沢さんのために彼女と別れた」「責任取てくれ」だけを繰り返した。取れない、と言うと、「それは通らないよ」と低い声が響く。「このままセンサーに反応すれば、大沢さんは不法侵入だよね。停学で、とうぜん推薦も取消し。そうなるくらいなら、ぼくと付き合わない?」
 三十分ほど続いただろうか。話にならない。このままここにいても無駄だ、と立ち上がり、押しのけるつもりで手を出した。手首を掴まれる。びくりするほど強い力だた。いや、力よりも、こんなやつに握られたことへの嫌悪感が私の力を奪た。「言うこと聞いてくれないと、こんなことしなきならないんだよね」闇の中に小さな稲妻が走る。ヤバい、と思い、とさに蹴り上げる。運よく股間に当たたらしい。力が緩む。立ち上がると、階段を駆け上る。呻き声がひとしきり続いたあと、荒い息が追いかけて来る。背筋が寒くなた。上履きを履かない足のまま、真夜中の追いかけこが始また。
 汲田悠希は狡猾だた。足音を消して追てくる。うちの高校は教室をぜんぶ施錠してしまうので、逃げられるのは廊下と階段、あとはトイレだけだた。外に出るドアは内から開けられるけれど、二階以上は渡り廊下に出るだけで、その先は閉また北棟のドアがあるだけだ。一階なら、ドアでも窓でも出られる。つまり、一階を塞いでしまうと校舎からは出られない。ときどき一階廊下をLEDの光が走る。東西の二階段から様子を窺うたびに光が飛んでくる。顔を見られると、すぐに走てやて来るので逃げなければならない。やがて二階廊下に腰を据えて監視するようになり、私は三階に追いやられた。スマートフンさえあればいくらでも助けが呼べるのに、最初にもみ合たときに失くしてしまた。でも落とした音はしなかた。もしかすると、汲田悠希が抜き取たのかもしれない。今ごろ、私のスマートフンから颯太にLINEをおくているかもしれない。別れよう、とか。居ても立ても居られないけれど、うかり動いてしまうと思う壺だ。なんとか方法を考えないと。焦るばかりで何も思いつかないまま、とうとう三階女子トイレまで追い詰められてしまた。

 荒い息遣いが聞こえる。鼻でも詰まているのか、ときどき笛みたいに鳴る。
「大沢さーん、いるのはわかてるよー
 声が響く。たぶん、視聴覚教室の前あたりだ。あと十メートルほどで女子トイレに着く。何もできない状態で、それでもたたひとつだけ思いついた。ここが女子トイレでよかた。そしてアレがあてよかた。でも、よかたかどうかはうまくいてからだ。
「いいじん。こうやて危ない目に遭たんだから、吊り橋効果だよ」
 吊り橋と仲良くなるわけじないだろ、と心の中でつぶやく。デキブラシが汗でぬるぬると滑る。足元がきぱきぱ音がする。
「付き合うなら、ムード作て乾杯くらいしてよ」
 廊下に向かて震える声を出す。「やぱそこかあ」マグライトの光がトイレ入り口で弾けた。そのときだ。
闇の中で叫び声がした。柄を握り締めて廊下に飛び出す。立ち止また汲田悠希がLEDマグライトで足元を照らしていた。キラキラと光ている。デキブラシでライトを握た手首を打つ。光が離れて壁際で止まる。盲滅法に振り下ろしたブラシが固いものに当たり、床に弾んだ。スタンガンだ。拾い上げて、あちこち握る。火花が飛んだところで、棒立ちの汲田悠希に押し付ける。悲鳴ともに倒れ込む。声はしなかた。ポケトを探てスマートフンを取り出し、LEDライトを拾て照らす。床にはグラスを砕いた破片が散ていた。女子トイレ洗面台のところに花瓶代わりに置かれていたものだ。それを、バルブに引掛けてあた巾着袋に入れて、コンクリート壁に叩きつけた。足音を消すために裸足で追てきているのは分かている。私は、トイレ掃除用のゴムスリパを履いて、破片から足裏を守た。
 スタンガンを持たまま、階段へと向かう。無人の階段をLEDが照らして行く。
 うん、カラのグラスだから、乾杯だよね。
 結月と違て私は嘘はついてない。
 ゴムのスリパが段に当たて歩きづらい。その場で脱ぎ捨てて、三階へと投げた。
 静まり返た廊下に、ゴムの転がる音だけが響く。
        (了)
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