雲のささやく身体
奇妙なほどに蒼く、空は輝いていた。水面に反射する青すぎるくらいの蒼空。口から出る息は白く、辺りを漂う大きな雲と同化してしまう。そう、やけに透き通
っていた。視界の隅々に、夜景かと言わんばかりに金色の星々が点在する。宝石のような空だった。そこに一筋のホワイトラインが走る。その発生源の塊は下降し、水面まで勢いよく近づいて行く。太陽光によって半透明のハッチが照らされれ、白いパイロットスーツが映し出される。白い機体は常に微細な振動を起こしながら、大きな翼の先に雲を付けて行った。青い炎が後尾から伸び、さらに勢いを増す。かろうじてハンドリングするパイロット。まるで流星のように、水しぶきが当たるギリギリまで踏ん張り、それは並行を保ち始める。真下の海は少し切れ青いV字を描き、機体を少し濡らす。翼の角度が変わり、上昇を始める。さっきまで美しかったキャンパスに、柔らかいラインが引かれた――
機体〈C-DADFE0〉は、関東機関大学ジェット制作チームにより設計、製作され、現在に至る。その夜、大雨が降ったため、すでに最終調整に取り掛かっていた。搬入時解放されるタイヤはレールの上を滑り、技術に回されている。その白いカラーリングは母校のイメージカラーで、蒼い空に雲を描く。左の翼には「関東機関大学」と記されている。今回行われる「全国学生ジェットコンテスト」に出場する。制作チームからは「ネブラ」と呼ばれている。雨で濡れた機体は白く輝いていた。
俺は機体の設計図を眺めながら軍手でページをめくる。何度も練り、ようやく完成したプランを眼鏡越しに見詰めていた。ネブラが搬入されているのは大きなテントで、薄暗い上に防寒対策すらされていないためストーブが一つだけついている。それも、整備する場所からやけに離れた、俺のデスクの隣に。俺はコップに注がれたコーヒーを飲み、パイプ椅子に座る。耳元でラジオから流れるクラシックを止めた。ジャージは背もたれにこすれ、ギィと音を立てる。小さな照明が揺れた。
「ねえ」
その声は、ストーブに手をかざしていたパイロットのものだった。パイプ椅子に座り、濡れた白いレインコートを頭まで被っている。相沢霞。俺はページをめくる。成績優秀、機体を操る能力にも長けており、まさにもってこいの存在。女性パイロットとしては、このコンテストで初めての試みだ。相沢はネブラを見つめていた。
「この子、飛べるの?」
俺は首をかしげることができずに、同じようにネブラを見つめる。外観に異常はなく、一般人が見たら最高の状態だと答えるであろう状況。だが、明らかな不調が見られた。先の運転で見られた、微細な運動。痺れとも言っていいかもしれないそれを、パイロットである相沢が感じていないはずがない。
「安定装置が不安定かもしれない。本来だったら、スピードに乗れば無駄にけいれんは起きない」
「痛がってる」
相沢の答えに、俺は驚いた。何度も訓練を重ねるうちに、相沢とネブラの親和性は確実に向上していると感じていた。だけれど、俺にはどうしても、機械を人間のように感じることができずにいた。俺はコーヒーを持って立ち上がり、横断幕の前まで進んだ。そこにはカラフルに彩られた応援メッセージや、ネブラの絵まで載っている。俺は横断幕の左端に居座った。テントの端に設けられたそのスペースは、やけに孤独を感じさせた。ストーブは寂しそうに紅い炎を照らしている。テントに響く靴の音。気が付けば、相沢が反対側にいた。そして、ひどく現実を俺に突き付けた。
「きっと、明日が最後だよ」
妙に、人間だと思った。まるで命日を告げるような相沢の言葉を咀嚼する。俺はネブラを横目で見る。確かに、何故か、老婆の様に見て取れた。
「機械も人間だよ。心があるよ」
「感じたことが無い」
「乗ったら分かるよ。きっと、ネブラも、君みたいな賢い人に作られて、幸せだと思うよ」
俺にとって、それは意外なことだった。否、ただの言いわけだったのかもしれない。機械はただ人に作られ、存在するだけのもの。そう、心は決めつけていたのかもしれない。
テントの外へ出ると、緑色と青色の混合碧が姿を現した。
「もう朝だ」
「寝なくて良かったのか?」
「うん……今日、すべてが決まるんだね」
その時、ネブラの翼が光った。俺は、心の底から、相沢という人間を、忘れてはいけない存在だということを確信した――
火を噴いたネブラに追いつく者は誰もいなかった。
蒼穹の下、大きな輪がいくつか点在する。そこを最速でくぐり続けたものが、このコンテストの勝者だ。スタッフ全員の覚悟は固く、浜辺でそのリングを眺めていた。実況の声が響く。
「さあ、トップに躍り出たのは関東機関大学です! 凄まじいスピードでリングをくぐって行きます!」
ネブラは確かなスピードを持ち続けながら雲を描いて行く。それに続くように青、赤、黄色の機体が並んだ。上昇と下降を繰り返しながら、時には水平線をかすめて行く。常にトップスピード。だが、あれは確実に無茶をしている。
「相沢、やめろ! 機体が持たないぞ」
うねる声がヘッドホンからも聞こえる。半透明のコックピットには限界値を超えた「error」の表示が出ており、もはや停止することすら難しいと判断できた。
「だめ……」
「相沢?」
「死なせないよ……」
俺は決死の覚悟で、相沢の意向を飲むことに決めた。限界を超え、その上でネブラと相沢を生還させる方法を支持することにした。俺はヘッドホンに備え付けられたマイクを握りしめ、呟くように指示を始めた。
「高度と速度を落として角度を変えろ。風に乗る」
雲は角度を変え、それでも同じ勢いで進んでいく。浜辺からは歓声が沸き上がる。
「赤はコースギリギリを狙ってくる。突進してくるから同じようにギリギリに行け」
勢いに乗った赤はネブラの後ろに付き、それでもネブラはイエローリングをかすめずにギリギリを飛んで行く。逆に赤は攻めの姿勢を守りきり、輪にぶつかった。辺りには粉塵が舞い散り、後者にも影響を及ぼすであろう。火花が飛び散り、蒼い空が紫色に少しだけ変わっていく。脱出装置でパイロットが飛んでいた。
「青と黄色が来る。早さにこだわらず、慎重に飛べ」
蒼と黄の雲はネブラに匹敵する勢いで蒼を染め、ネブラに接近する。それでもネブラは先程同様にインコースを飛び、安定した飛行を見せた。そして、焦ったのかコースアウトと、リングにぶつかり墜ちた。
だが後方から勢いを増し、黒い機体が進む。黒雲はとぐろを巻き、旋回しながらネブラの後ろに付いた。
「どうするの、天才指揮官さん?」
「下がれ」
「止まれって言ってるの!?」
「俺のタイミングで下がれ」
コース終盤、ますますスピードを上げて二機はゴールを目指す。黒がさらにスピードを上げた。ネブラが90°傾くと黒も傾いた。半透明のハッチから、相沢の細い腕と、その震えが見て取れた。
「まだかよ!」
「……待て」
約10秒間、それは異常なほど苦痛な時間だった。俺にとっても、相沢にとっても。腕と足が硬直し、縛られるような苦しみ。だが、俺がたった一言を発するだけで、状況は一変した。
「下がれ!」
その刹那、ネブラの火は赤く、そしてスピードを抑えながら黒の後ろへ下がった。それに伴って黒は目の前にあったリングに衝突した。ネブラが完全に死角となり、辺りには黒い雲が浮かんでいた――
ネブラの機体は半壊し、海岸に届けられた。コンテストは優勝した。だがそれ以上に、俺と相沢はネブラの様子を眺めていた。骨組が丸見えになっている翼、ところどころ塗装が剥げている。コンテスト終盤、ネブラから白い破片がぽろぽろと零れ、星々の様に宙に浮かんでいた。今は青と赤のコントラスト。
俺と相沢は隣に立ちながら、最後の時を見ていた。潮風に乗って身体が壊れていく。自然に還るように、歳を迎え、そして死んでいく。宙を舞う白い雲、金の星々。ネイビーの星空に、少しの願いを込めていた。
どうか、次も良いパイロットと、設計者に出会えるように。