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第3回 文藝マガジン文戯杯
〔 作品1 〕
»
〔
2
〕
スカム・フリー
(
小伏史央
)
投稿時刻 : 2018.01.31 02:15
字数 : 4132
1
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スカム・フリー
小伏史央
スカム・ミ
ュ
ー
ジ
ッ
クは音楽として評価されうるが、へたくそな言葉はいつだ
っ
て矯正されるだけという話。
大学内の、外国人生徒のための中国語初級クラス。なるべく授業を取
っ
てもらいたいからなのか、他の授業が被りにくい、午後五時過ぎからその授業は始まる。半楕円形に並べられた三列ほどのイスとテー
ブル、それらの正面にワイドスクリー
ン。その脇で若い講師が授業開始前の準備をしている。
タカキち
ゃ
んは頬杖をつきながら、テキストをぺらぺらめく
っ
て時間を潰していた。先日の授業で、ようやくピンインの説明が終わ
っ
たところだ
っ
たが、いまいち頭には残
っ
ていなか
っ
た。[k]はヘビー
スモー
カー
が唾を吐くときのような込み上げるカー
。[si]は単純にスー
と発音してしまえばよい。というようにテキストにはメモ書きがしてある。中国語の発音はそこに四種類の声調が加わる。高い一定の音、上がる音、下が
っ
て上がる音、急降下する音。あまりに複雑な組み合わせによ
っ
て成り立つこの発音は、タカキち
ゃ
んにはもはや音楽にしか思えない。だが先日それを講師に伝えると、講師は頷きながらも眉をしかめたのだ
っ
た。中国語は音楽ではなく言語なのだといわんばかりに。
「時間ですね。それでは授業を始めまし
ょ
う」
講師がパンパンと手を叩く。それから名簿を持ち上げて、ひとりずつ生徒の名前を読み上げた。読み上げられた生徒はタオと返事する。それ以外の言葉で返す生徒もいるが、タカキち
ゃ
んは教えられた通りの返事しか知らないから、彼らが何と言
っ
たのかはわからない。
そして今日もまた、講師はタカキち
ゃ
んの名前を中国語の発音で読み上げた。名前が漢字の生徒は、問答無用でグロー
バリズムだ。
名簿の順番を覚えているので、自分の名前を聞き取れなくても、返事しそこなう心配はなか
っ
た。タカキち
ゃ
んはタオと返事した。すかさず講師が正しい発音でタオ、と言
っ
た。タカキち
ゃ
んは反芻した。指摘されたとおりに発音できたかは曖昧だが、講師は次の生徒の点呼に移
っ
てい
っ
た。
欠席者はまばらにいたがほとんどは出席していた。アメリカ人ロシア人ベトナム人中国人。中国語初級クラスの生徒は多種多様だ。日本人はタカキち
ゃ
んを含めて三人しかいなか
っ
た。そのふたりはひとつ前の列で隣り合
っ
て座
っ
ている。ふたりは同じ大学から留学に来たのだというから、授業でも同じテー
ブルを使うのだろう。
「今日は自己紹介をしまし
ょ
う」
講師が丁寧な口調で言
っ
た。腕に抱えたプリントを端の席の生徒に渡し、横へ配るように促す。
「でも先生、自己紹介は最初の授業でしましたよ」
生徒のひとりが流暢な中国語で質問した。外国で育
っ
たという中国人生徒だ。三年以上外国に住んでいれば、在外中国人枠としてこの授業を受けることが可能らしい。このクラスにはそういう生徒が何人かいた。
「はい。でも最初の授業では、名前と学部、出身国ほどしかみなさん話していませんよね。今回はもう少し詳しい内容で、自己アピー
ルをしてもらいます」
プリントが届いたので見てみると、それはただの原稿用紙だ
っ
た。この一枚を埋めるくらいの自己紹介を書いてみよう、ということなのだろう。ピンインの理解さえ曖昧なタカキち
ゃ
んにと
っ
て、これはあまりに難度が高い。
講師がタブレ
ッ
トを操作する。それに合わせてワイドスクリー
ンに大きな文字が表示された。それは最初の授業で習
っ
た会話表現だ
っ
た。我是のあとにそれぞれ該当する単語を加えるだけの、簡単な自己紹介。この講師はどうやら理論よりも実践をモ
ッ
トー
とした教育を心がけているようで、初めにこの文型でひとりずつ自己紹介をさせたのだ
っ
た。
そしてまた今回も、タカキち
ゃ
んは無知なまま実践に放り込まれている。発音の仕組みだけ教わ
っ
ても文章が書けるわけがない。だが周りを見るとすらすらともう書き出している人もいた。前の席の日本人たちを覗き込むと、彼らも最初の授業でや
っ
た自己紹介をひとまず書き出している。タカキち
ゃ
んも彼らに倣うことにした。
倣う、とい
っ
ても、ペンは進まない。数日間発音を習
っ
ている間に、最初の授業で聞いた単語はす
っ
かり抜け落ちていた。日本人はそのまま日本人と書けばいいとして、学部はなんと書いたら良か
っ
たか。テキストに挟んだままにしていたはずのメモ用紙は、どこにも見当たらなか
っ
た。メモ用紙ではなくテキストやノー
トにきちんと書き記せばよか
っ
たのにと後悔しても、単語は出てこない。
そこに巡回していた講師がや
っ
てくる。咄嗟に習性で隠してしま
っ
た。それを一瞥して、講師はまた大袈裟に眉をしかめる。
「書けましたか? 見せなさい」
しぶしぶとい
っ
た風に腕をどける。まだ自分の名前と、スクリー
ンの雛型の通りに書いた、日本の大阪から来ましたという文しか書けていない。その次に書きたい、どこの学部の生徒であるかは、我是、だけで途切れていた。
講師は何も言わず、タカキち
ゃ
んの手元にあ
っ
たテキストをめくり、突きつける。そこにはタカキち
ゃ
んがまさに書きたい会話表現が記されていた。
「恥ずかしがらなくてもいいので、まずは調べながら書いてみまし
ょ
う。シ
ャ
オツ
ァ
ン」
シ
ャ
オ(小)と言われると、なんだか見下されている感じがする。タカキち
ゃ
んに中国語のニ
ュ
アンスなんてわからないが、事実日本を出てからそう感じる場面は多くな
っ
た。現地の言葉をうまく話せないと、たとえ豊富な知識を有していたとしても、周りには劣
っ
た人間だと認識されてしまう、ような気がする。
結局その日は出来の良い、早めに自己紹介文を書き上げた生徒数人の発表で授業が終わ
っ
た。まだ書けていないタカキち
ゃ
んは宿題だ。
ま
っ
すぐ寮に帰ることにした。自然と前の日本人ふたりと同じペー
スでテキストを鞄に戻し、教室を出ていく。彼らに用事がない限り、彼らも寮に戻るはずで、彼らの寮はタカキち
ゃ
んの住む寮と同じ方向にあ
っ
た。
「小倉くん、書けた?」
教室を出て、階段を抜けていくあたりで、日本人コンビのひとりがそう話しかけてきた。
「全然。いきなり書けなんて言われても無理やんな」
日本語が話せるとあ
っ
て、彼らとは気楽に話すようにな
っ
ていた。
「そうだよねー
」
「話すのと書くのは全然別なのにね」
「いや、話すのもめ
っ
ち
ゃ
大変やわ」
三人で口々にする。日本語は耳によく馴染んだ。彼らはタカキち
ゃ
んとは違
っ
て、日本の大学で中国語を履修してきてから留学してきているので、中国語での会話については自信があるようだ
っ
た。
「他になに受けてるの?」
「ほとんど専攻科目やで。あと英語とか」
「あー
や
っ
ぱ英語取るよね」
「取れる単位は取
っ
とかんとな」
一定以上の英語の成績が認められれば、中国語の語学院に通わなくても大学に入学できるという制度があ
っ
て、タカキち
ゃ
んはそのおかげで中国語がわからなくてもこの大学に通えていた。
「そういえば友達から聞いたんだけど、日本語の授業も良いらしいよ」
「日本語? 日本人が取
っ
てええの」
「中国人が中国語受けてるんだし良いでし
ょ
」
「えー
そうや
っ
たんか。次の学期取ろうかな」
「でも小倉くんは、まず関西弁なおさないとね」
そう言
っ
てふたりが笑う。笑えなか
っ
たが、タカキち
ゃ
んも笑
っ
て合わせた。
寮に着く。留学生寮でも、交換留学生と、正規入学した留学生では建物が違う。ふたりと別れて、自分の建物に入
っ
た。交換留学生のものよりは幾分古臭い建物に。
階段を駆け上り、自分の部屋に入る。ルー
ムメイトは出かけているようだ
っ
た。ベ
ッ
ドに腰を沈める。食堂の閉まる時間まで余裕がなか
っ
たが、再び立ち上がる気力は湧かなか
っ
た。
その代わりに、ベ
ッ
ドに寝転が
っ
て、ノー
トパソコンを起動する。中国に来てからタカキち
ゃ
んは新しい趣味を見つけていた。DTMだ。
デスクト
ッ
プ・ミ
ュ
ー
ジ
ッ
ク。パソコンひとつで、作曲ができてしまう。実際の楽器を手に取る必要も、仲間を集めて演奏する必要もなか
っ
た。
そもそもタカキち
ゃ
んには、リコー
ダー
以外の楽器を持
っ
た経験がない。
作曲ソフトを起動し、新規作成を選ぶ。画面が三分割され、その真ん中に大学ノー
トを横にしたような目盛りが表示された。画面右側のメニ
ュ
ー
欄からアコー
ステ
ィ
ッ
クギター
を選び、画面左側に配置する。すると真ん中の目盛り部分にピアノロー
ルが現れた。
楽器を触
っ
たこともないタカキち
ゃ
んは、もちろん、作曲のさの字もわからない素人だ。だがこのピアノロー
ルを適当にいじ
っ
ておけば、少なくとも音を鳴らすことができて、それが作品として記録されることが否応にも嬉しか
っ
た。ベー
スとアコギとドラムの音を適当にいじる。適当にいじ
っ
たそれを再生すると、音楽と呼んでいいのかわからない音楽が仕上が
っ
ていた。知識もないから凝る方法もわからなくて、ほんの五分足らずで生まれた五秒の曲。や
っ
たことといえばマウスで音を鳴らす範囲を決めて、適当な音階を押すだけだ。
同じようなことを繰り返して、あ
っ
という間に二分ほどの曲ができあが