遠い夕陽
目の前の建物が途切れると、遮られていた夕陽が車窓から射し込んできた。はるか遠くに連なる山々の稜線が眩しく霞んでいる。目を閉じると、鈍い痛みとともに角膜が潤んでくる。線路沿いのフ
ェンスは丈高い草の穂に撫でられながら、同じ姿でとどまり続ける。街区が次々に流れるなか、丘がゆっくりとせり上がってくる。樹木に覆われた斜面のいちばん右端が、あの娘の家だった。逆光のなか、斜めの屋根が茶色に佇んでいる。
この時間、夕陽の差し込む二階の部屋で、あの娘はベッドに横たわりながら音楽を聴いているだろう。羽毛布団の上に仰向けになって、ママに気づかれたら叱られるのに。
そのママは一階の台所で夕食の支度を始めているはずだ。この季節は週に一度はカレーを作る。スパイスを組み合わせたりはしない。ハウス食品の「こくまろカレー」中辛だ。あの娘は辛口が好きだ。パパはいつも帰りが遅くて食べないけれど、痔があるので辛いものは嫌う。だからママは頑なに中辛を譲らず、あの娘と口論になる。自分のぶんだけに一味唐辛子や胡椒を振って辛くするあの子の姿が目に見えるようだ。
いま、あの家の二階の窓に、あの娘の姿が見えた気がする。
隣に居るのはぼくだ。
でも、そんなことはありえない。
なぜなら、ついさっき、駅でぼくを見送ってくれたから。ふたり揃って。
それでも、夕陽に染まった窓に映るふたつの影は、あの娘とぼくに違いない。
ぼくはこうして電車に乗っているのに。
プラットホームであの娘とママはぼくに向かって手を振ってくれたのに。
いくら目を凝らしても、あの娘の顔はよく見えない。いつもの可愛い目許に、ちんまりとした口。ちいさくて、すぼまっている。そういえばママもそうだった。プラットホームに、ちいさな口をしたふたりが並んでいる。
いや、そうだろうか。違う。
あの娘は部屋にいた。ママは台所だ。ぼくが家を訪れたとき、いつもそうしていたように。
あの娘はなんだか怒っていた。
そう、ぼくを突き飛ばしたんだ。倒れた拍子にぼくは背中を本棚にぶつけたっけ。
上から目覚まし時計が落ちてきたんだ。ぼくが贈ったやつだ。アンティック調の、上にベルのついた時計だ。カーペットに転がったそれは埃にまみれて、角のところに血がついていた。ぼくは自分の頭に手をやった。生え際のところに痛みが走って、指先が赤く染まった。そう、とても痛かったんだ。
思い出した。この時計を受け取ったとき、あの娘は喜ばなかったんだ。スマホがあるからって。目の前のあの娘は、ぼくを見下ろしていた。ちょうど逆光で、顔はよく見えなかった。ぼくはなにか言った。でも、あの娘には届かなかった。最初は肩だった。次に顔。庇った両手、そして脇腹と、たて続けに痛みが走った。とても痛かった。涙が出たけれど、ぼくは泣かずにただ謝り続けた。あの娘に許してもらいたかった。ぼくが悪くないことを知って欲しかった。いつの間にかあの娘はダンベルを振りかざしていた。なにか叫んでいたけれど、よく聞こえない。ダンベルが振り下ろされて、ぼくの左手小指に触れた。ぼくは歯を食い縛ったけれど、ぐしゃっと潰れる感覚とともにちぎれたみたいな激痛が走った。カーペットに転がったダンベルは目覚まし時計に当たり、文字盤のガラスが粉々に砕けた。ぼくは両腕で頭を庇いながらあとずさった。左手小指はだらんとして、手の甲に触れていた。小指が手の甲に触れるなんて、信じられるかい? あの娘はダンベルを拾い上げた。右に転がらなかったら、ぼくの脳天を直撃していたと思う。部屋の中は夕陽のオレンジ色に切り取られて、それ以外の部分は暗く沈んでいた。ダンベルがカーペットにめり込んでいた。怖かった。あの娘の悪意の重さが。不意に、キャスター付きの椅子が飛んできた。左肘に当たって、開いたままのドアから廊下へと飛び出した。ぼくは呻き声を上げながら逃げ回った。わかっている。逃げちゃ駄目なんだ。あの娘にわかって欲しければ、甘んじて受け止めるべきなんだ。でも、とても痛い。ぼくの身体がこにあることそのものが、あの娘には許せないようだった。痛みがたて続けに襲い、激烈さを増していった。夕陽の中で、ぼくの涙が部屋の光景を歪ませた。とても痛いよ。許してよ。あの娘には届かなかった。カーペットのにおいに、錆のにおいが重なった。
気がつくと、あの娘とママと、ふたりとも口をすぼめたまま笑っていた。ぼくはまた殴られるかと顔を覆って、指の隙間から窺った。なにも言わなかった。そのまま、駅まで送ってくれた。
また来てね。
あの娘がそう言った姿はよく見えなかった。ぼくは血まみれの服を両手で抑えながら電車に乗り込んだんだ。プラットホームにはふたりの姿があった。でもほんとうは、よく見えなかった。うっかり見ると、また殴られるかもしれないからね。だから電車が動き出したとき、ほんとうにほっとしたんだ。
車窓からあの娘の家が見える。
ほら、わかるだろ?
あれはぜったいにあの娘なんだ。
よく見えないけどね。
でも、窓に凭れている。
おかしいな、ベッドに仰向けに寝かせてきたはずなのに。
やっぱり、よく見えないや。
窓枠に真っ赤な指の跡がついている。ちぎれかけた小指からぽたぽたしたたるしずくが床に落ちているけれど、車窓からの夕陽の当たらない部分だからよく見えないんだ。
(了)