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第44回 てきすとぽい杯
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遠い夕陽
大沢愛
 投稿時刻 : 2018.04.14 23:41
 字数 : 2161
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遠い夕陽
大沢愛


 目の前の建物が途切れると、遮られていた夕陽が車窓から射し込んできた。はるか遠くに連なる山々の稜線が眩しく霞んでいる。目を閉じると、鈍い痛みとともに角膜が潤んでくる。線路沿いのフンスは丈高い草の穂に撫でられながら、同じ姿でとどまり続ける。街区が次々に流れるなか、丘がゆくりとせり上がてくる。樹木に覆われた斜面のいちばん右端が、あの娘の家だた。逆光のなか、斜めの屋根が茶色に佇んでいる。

 この時間、夕陽の差し込む二階の部屋で、あの娘はベドに横たわりながら音楽を聴いているだろう。羽毛布団の上に仰向けになて、ママに気づかれたら叱られるのに。
 そのママは一階の台所で夕食の支度を始めているはずだ。この季節は週に一度はカレーを作る。スパイスを組み合わせたりはしない。ハウス食品の「こくまろカレー」中辛だ。あの娘は辛口が好きだ。パパはいつも帰りが遅くて食べないけれど、痔があるので辛いものは嫌う。だからママは頑なに中辛を譲らず、あの娘と口論になる。自分のぶんだけに一味唐辛子や胡椒を振て辛くするあの子の姿が目に見えるようだ。
 いま、あの家の二階の窓に、あの娘の姿が見えた気がする。
 隣に居るのはぼくだ。
 でも、そんなことはありえない。
 なぜなら、ついさき、駅でぼくを見送てくれたから。ふたり揃て。
 それでも、夕陽に染また窓に映るふたつの影は、あの娘とぼくに違いない。
 ぼくはこうして電車に乗ているのに。
 プラトホームであの娘とママはぼくに向かて手を振てくれたのに。
 いくら目を凝らしても、あの娘の顔はよく見えない。いつもの可愛い目許に、ちんまりとした口。ちいさくて、すぼまている。そういえばママもそうだた。プラトホームに、ちいさな口をしたふたりが並んでいる。
 いや、そうだろうか。違う。
 あの娘は部屋にいた。ママは台所だ。ぼくが家を訪れたとき、いつもそうしていたように。
 あの娘はなんだか怒ていた。
 そう、ぼくを突き飛ばしたんだ。倒れた拍子にぼくは背中を本棚にぶつけたけ。
 上から目覚まし時計が落ちてきたんだ。ぼくが贈たやつだ。アンテク調の、上にベルのついた時計だ。カートに転がたそれは埃にまみれて、角のところに血がついていた。ぼくは自分の頭に手をやた。生え際のところに痛みが走て、指先が赤く染また。そう、とても痛かたんだ。
 思い出した。この時計を受け取たとき、あの娘は喜ばなかたんだ。スマホがあるからて。目の前のあの娘は、ぼくを見下ろしていた。ちうど逆光で、顔はよく見えなかた。ぼくはなにか言た。でも、あの娘には届かなかた。最初は肩だた。次に顔。庇た両手、そして脇腹と、たて続けに痛みが走た。とても痛かた。涙が出たけれど、ぼくは泣かずにただ謝り続けた。あの娘に許してもらいたかた。ぼくが悪くないことを知て欲しかた。いつの間にかあの娘はダンベルを振りかざしていた。なにか叫んでいたけれど、よく聞こえない。ダンベルが振り下ろされて、ぼくの左手小指に触れた。ぼくは歯を食い縛たけれど、ぐしと潰れる感覚とともにちぎれたみたいな激痛が走た。カートに転がたダンベルは目覚まし時計に当たり、文字盤のガラスが粉々に砕けた。ぼくは両腕で頭を庇いながらあとずさた。左手小指はだらんとして、手の甲に触れていた。小指が手の甲に触れるなんて、信じられるかい? あの娘はダンベルを拾い上げた。右に転がらなかたら、ぼくの脳天を直撃していたと思う。部屋の中は夕陽のオレンジ色に切り取られて、それ以外の部分は暗く沈んでいた。ダンベルがカートにめり込んでいた。怖かた。あの娘の悪意の重さが。不意に、キスター付きの椅子が飛んできた。左肘に当たて、開いたままのドアから廊下へと飛び出した。ぼくは呻き声を上げながら逃げ回た。わかている。逃げち駄目なんだ。あの娘にわかて欲しければ、甘んじて受け止めるべきなんだ。でも、とても痛い。ぼくの身体がこにあることそのものが、あの娘には許せないようだた。痛みがたて続けに襲い、激烈さを増していた。夕陽の中で、ぼくの涙が部屋の光景を歪ませた。とても痛いよ。許してよ。あの娘には届かなかた。カートのにおいに、錆のにおいが重なた。
 気がつくと、あの娘とママと、ふたりとも口をすぼめたまま笑ていた。ぼくはまた殴られるかと顔を覆て、指の隙間から窺た。なにも言わなかた。そのまま、駅まで送てくれた。
 また来てね。
 あの娘がそう言た姿はよく見えなかた。ぼくは血まみれの服を両手で抑えながら電車に乗り込んだんだ。プラトホームにはふたりの姿があた。でもほんとうは、よく見えなかた。うかり見ると、また殴られるかもしれないからね。だから電車が動き出したとき、ほんとうにほとしたんだ。
 車窓からあの娘の家が見える。
 ほら、わかるだろ?
 あれはぜたいにあの娘なんだ。
 よく見えないけどね。
 でも、窓に凭れている。
 おかしいな、ベドに仰向けに寝かせてきたはずなのに。
 やぱり、よく見えないや。

 窓枠に真赤な指の跡がついている。ちぎれかけた小指からぽたぽたしたたるしずくが床に落ちているけれど、車窓からの夕陽の当たらない部分だからよく見えないんだ。
         (了)
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