3月うさぎの「スイーツ感想」お茶会
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ただひとときのノスタルジア
投稿時刻 : 2019.03.30 21:45
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ただひとときのノスタルジア
ポキール尻ピッタン


 わずかにしなた水色の柄杓がバケツの水を掬い出すと、縁から溢れた水流がカーテンみたいに広がり落ちた。こんもり盛り上がた波のコブがぶつかり合て、水の塊はまるで寒天のように弾む。重みで傾いた合の内側は海に似ていて、大きな波が縁まで押し寄せては雫を宙に飛ばしている。
 手の甲に浮かぶ血管。お婆ちんが、手首を返した。
 円弧の軌道を描き柄杓は空気を払う。細長い水の糸が束となり、独楽を投げた紐みたいに波打ちながら踊る。しざざ、しざざ、舞いの形そのまま、アスフルトに黒く刻みつけられた痕跡。土埃か、蒸気か、細やかな粒子が昇華し消えていく。
 8月も下旬、日差しが空気を焼く朝。木陰の私、門の前で打ち水をするお婆ちん。頬を撫でる優しい風、遠く蝉の声。水が空気に溶けていく。すうと確かな存在を残して、私の心から去ていく。
 これは小学校へ上る前の忘れていた記憶。特別大事にしていなかたけれど、心の奥底へ刻まれていた風景。

 有名レストランがプロデスをしている13階の社員食堂で、私はやたらとヘルシーさを謳た薄味の定食を食べていた。量が多いわけでもなく値段が安いわけでもない。盛り付けが綺麗で美味しいのかもしれないが、その満足感はあくまでも精神的なもので肉体が欲しているものとは違う。インスタに料理の写真を上げていそうと興味が無い男性から言われることもあるが、女性がすべてそういうタイプではないだろうと、いつも笑顔で不満を隠している。正直、自分にとて味や見た目なんてどうでもいい。おさん臭いとカレシに咎められようが、安価で腹持ちが良いものならば私は充分に満足できるのだ。同じ部署のマネーに声を掛けられなければ、わざわざこんなところで昼食を済ませなかた。
「いつも独りでご飯を食べているけど、みんなとは馴染めない?」
「そんなことないです。ただ生活がキツキツなので倹約したいんです。みんな平気でランチにお金を使うじないですか」
 それが馴染めないということだと、私は話しながら気づいた。苦笑いを浮かべたマネーは続ける言葉に迷ているようだた。
「そういた事情なら分からなくもないな。まあ、馴れ合ても別にいいことはないしね」
 理解を示すような言い方だが、どこか歯切れが悪い。なんとなく私が同僚から疎まれていると察した。
「仕事は問題なくやてくれているからいいんだけれど、もう少し、くだらないことでもいいから周りと会話するとかさ、チームプレイじない? 雰囲気も大事だと思うんだよ」
 覚悟を決めたのかやんわりと苦言を呈する。取りまとめる立場なら当たり前の忠告だと納得できても、私は不満が顔に出てしまう。
「ひとりひとりが仕事に集中すればチームとして結果が出るものじないですか。和気藹々とした雰囲気なんて、集中力を乱すだけじなく、頑張る人の足を引張るだけだと思います」
 私を宥めるように何度も頷いたマネーは、お茶をひと口含むと寂しげに目を細めた。
「誰よりも努力して頑張ているのは知ている。疲れていても泣き言を言わないのも知ている。だけど気を張りすぎて、周囲が見えなくなているんじないか? 雰囲気が悪くなれば効率も落ちるんだ。みんなの頑張りを期待しても、士気が落ちて覇気をなくす原因にもなる」
「私がみんなの足を引ている原因だと言いたいんですか?」
 後に引けなくなて気持ちと言葉を吐き捨てた。私は料理を写真に撮るような女じない。自分だけが譲歩する理由が分からない。違うのだから、お互いの違いを尊重して欲しい。
「甘いものは好きか?」
 腕時計に目を送たマネーがトレイを持て立ち上がた。気がつくと昼休憩が終わていて社員食堂は閑散としていた。
「食べることは食べますけど、大好きてほどではありません」
 たぶん、スウツは好きじない。コンビニに並んだ様々なプリンを見ても味の違いに興味なんかないし、特定の商品を選ぶ理由も見つからない。スウツとは単に糖分を摂取する手段であて、大切なのは砂糖の量だと思ている。疲れたら食べる、ただそれだけのものだ。
「このまま仕事してもすきりしないからな。サボるの付き合てくれ」
 自分のためといいながらマネーは私に気を遣う。まるで私の欠点がそういうところだと言いたげに。

 気温はおそらく30度を超えている。歩道の敷石が日差しを反射して目が痛い。汗で肌にブラウスが吸い付いて、少し気持ちが悪い。
 Bizタワーを出て右、タリーズコーヒーがあるT字路を山王下方面へ真直ぐ進むと、緩やかな下り坂の先に、遠く日枝神社の白い鳥居が見える。マネーは2つ目の十字路で立ち止まり、振り返て私を手招くと、そのままセブンイレブンを右折して店舗の看板を指さした。
「ここの水羊羹がおすすめなんだ」
 看板には塩野と書かれていた。筆のような字形がいかにも和菓子屋ぽい。
「あまり食べ物に興味がなさそうだから、あえてここに連れてきた」
 意味ありげに微笑むマネーから目を逸らし思わず俯いた。自分が自分である理由に踏み込まれたようでなんだか怖い。
「私、そんなに水羊羹は好きじないです」
「まあ、騙された思て食べてみなよ」
 街灯に寄り掛かり私はマネーを無視して黙ていた。支柱が熱い。後頭部もジリジリと焼けるようだ。
 ただの和菓子になんの意味があるのだろう? 意図が分からない不安に包まれ、私はここから逃げたくてたまらなくなる。店内へ入たマネーを横目で確かめて、次に自分の足元を凝視した。
「お待たせ」
 ビニール袋から小さな四角いケースを取り出したマネーはそのまま私に水羊羹を差し出した。熱を帯びた手のひらにひんやりとした感覚が広がる。
 マネーは隣のマンシンの植え込みに座り、封を開けて食べ始めた。
「いいんですか?」
「いいから、冷たいうちに食べちおう」
 つま先を日陰に踏み入れると頬が火照ていることに気づいた。血管が広がるほどモヤモヤした心の乱れを抱えていたと自覚する。
「疲れたから甘いものて訳じないんだよ。優れたものにはその本質以外にも価値あるものが含まれているからさ、それを感じて欲しいて言うか、仕事でも周りを見て欲しいて言うか、まあ、さきの説教の続きだな」
 溢れた笑みが妙に優しくて、私は釣られて笑顔を作る。膝の間に置いた水羊羹が冷たくて気持ちいい。
「たまにはサボるのも悪くないかもです」
 同僚に負けたくないと私は思う。こんな風に仕事から逃げるのは負けだと思う。それでもいま安心しているのは、心のどこかで逃げたかたからなのだろう。
「性格を直せとか俺は言わないけれど、気を抜く場所をどこかに作りなよ。余裕があれば、なにか変わるかも知れないから」
 プラスチクのスプーンの上で水羊羹が震えている。片手を添えて口元へ運ぶとほのかに小豆の香りがした。
 私が逃げたい場所。
 寒天が口の中で弾けて餡の甘さが広がる。しかりとした甘さだがしつこくはない。上品な味と言うのだろうか? 鈍感な味覚の私には判断ができないし、なにかに例える知識もない。美味しいと言うより自分に丁度いい、そんな味。
 不意に口内から味が消えた。すうと確かな甘みを残して私の感覚から去ていく。記憶のどこかで覚えている情景。
 お婆ちんの顔が脳裏に浮かんだ。


御菓子司 塩野
港区赤坂3-11-14(作中は旧住所)
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