第7回 文藝マガジン文戯杯「COLORS」
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紫陽花メタモルフォセズ
投稿時刻 : 2019.04.22 19:44 最終更新 : 2019.04.28 10:49
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- 2019/04/22 19:44:30
雨と孤独と紫陽花
金銅鉄夫


 長い間、独りぼちだた。
 無視されることにも慣れてしまて、いつからか、それが自然な状態だと感じるようになていた。他の人にもそれが日常なのだろう。これからも、ずと。
 そう思ていた……


 しばらく、梅雨らしい天気が続いていた。
 今もまだ小さい雨粒が落ちているが、今日の降水量は少ないとの予報だた。晴れていれば、それほど時間のかかる距離ではないらしいが、念のために余裕を持て出発する。なんとか、明るいうちに峠を越えたいからだ。
 昨日、休憩所で一緒になた熟年の夫婦に、これから歩く山の幽霊譚や、人間の食べ物を狙う野生動物の話を聞かされ、正直怯えていた。悪気はなかたのだろう。人が良さそうな二人は、僕が明日そこに登ることを知ると、何度も詫びた。おかげで反復学習も完璧だ。そんな場所、昼だて怖いが、夜と比べたらずと良い。

 舗装された道路から、狭い山道へと入る。もともと自然の多い地域ではあるのだけれど、周囲をぐるりと木々に囲まれていると、時間や時代という感覚が薄れてくる。大昔の人と同じ道を歩いているということが、さらに不思議な気分にさせた。
 森全体に霧がかかて、進むべき道も乳白色へ溶けていく。雨が、枝葉や自分のレインウアに当たる音。それと、自分の足音と杖に付いた鈴の音が聞こえるだけだ。徐々に心細くなてきた。
 ここのところ、ほとんど一日中歩いていたから、疲労が溜まていたせいもあるのだろう。雑草のない、整備されている道でも、連日の雨でぬかるみ、何度も足を滑らせた。その都度、旅支度で買た山吹色の靴に、土や落ち葉が張り付いていく。普段よりも足元に注意を払ているために、ザクがいつにも増して肩に食い込んだ。
 疲労と単調な世界で、次第に、意識がぼんやりとしてきた。

 どれくらい歩いただろう。いつの間にか雨は上がり、僅かに明るくなていた。辺りの傾斜が緩やかになていて、視界がひらけた。
 路肩の切り株に腰掛けた人の姿が見えた。離れていても、緑と茶系統ばかりの森では、身に付けている躑躅色のウアがよく目立ていた。女性は、漆器のようにつややかな長い黒髪を後ろで結び、背中を丸め、物思いにふけた様子で、一点を見つめている。
 近づくと、その横顔の異様なまでに白いことが気になた。
 いつものように挨拶をしてみた。出立してから、人とすれ違うたびに交わしているはずなのに、知らない人に声をかけるときはいまだに緊張する。発声するタイミングにも、毎度戸惑ていた。
 僕の存在に気が付いていなかたのか、その人は体をビクつかせると、目を見開いてこちらを向いた。それから一拍おいて、か細い声で挨拶を返してきた。
 綺麗な人だと思た。思たからこそ、余計に、すぐ視線を逸らした。そんな短い時間でも、正面から見た美しい顔は、ますます蒼白な印象を残した。
 ただ疲れて休んでいただけなのか、それとも体調が悪いのか判断できない。
 このまま去るのは気が引けたので、空を見上げ。
「久しぶりに晴れ間が覗きましたね」
 と話しかけてみた。今度は、さきよりも短い間で返答があた。
……見えるんですか?」
「ええ、ここからだと、ちうど枝がなくて、青空が見えます。かすかにですけど」
 彼女は、ほんの少しだけ不思議そうな顔をしたあと、同じように仰ぎ見て、確かに見えますねと言た。
 言葉を聞いてから理解するまでに、一呼吸あることに懸念を抱いた。何年か振りで、勇気を奮い起こす。掌に爪が食い込むほど拳を握る。
「僕も、ここで休憩していいですか?」
 彼女の返事を待てから、四五歩間隔をあけて、腰を下ろすことにした。警戒しているのか、ずとこちらを見ている。やはり迷惑だたのだろうか?
 以前の自分ならば、他人に深入りしないように、関わらないように、間違いなく、挨拶だけでこの場から離れていた。そうして、あとで尚更不安になるのが常だた。臆することなく向き合えたのは、自分が、この土地に来て、短期間うちに、少しだけ変われたからかもしれない。否、正確には、ここの自然や文化に変えてもらたのだろう。

 よく知らない人同士での定番の話題と言えば、天気の話になる。僕もその話を続けるしかなかた。
「夏の暑い中を歩くよりは楽かと思て梅雨の時期にしたんです。なので、それなりに覚悟はしていましたけど、こうも毎日雨だと、さすがに落ち込みますね」
「私、雨女なんですよ。小さい頃から、いつもイベントの日は雨ばかりで」
「でも、今晴れてるから、あなたのせいじないですよ」
「このあとも降らなければいいのですが……
「そうですね」
 会話に区切りがついてしまたので、僕はザクから紺青色の水筒を取り出し、水分を補給した。ついでに、ステク状のチコレート菓子を取り出すと、赤い箱を開け、彼女に一袋すすめてみる。
「もし、よかたら……
「いいんですか? 懐かしい。前は、よく買てました」
 僕は、なるべく距離を保ち、どうぞと言て、そと手を伸ばす。袋を、彼女の華奢な指が慎重に掴んだのを見届けると、後退りするように、ザクの位置に戻る。明らかに挙動不審だが、他にどう渡せばいいのかわからなかた。
「久しぶりに食べました。美味しいです」
 彼女が微笑んだことで、僕は少しだけ安堵した。
「よかた。実は、あまりに青白い顔をしていたので、心配していたんです」
「親切な方ですね」
「こちに来て、多くの人に助けてもらいましたから。その人たちと比べたら、僕なんて、全然たいしたことしてませんよ」
「ここは、地元の人がみんな親切で、余所から来ると、ビクリしちいますよね」
「そうなんです。ご馳走してくれたり、僕みたいなのを、家に泊めてくれたり。そんな人たちに感化されたのか、とんだお節介を……
「とんでもないです! こちらこそ、ご心配をおかけしました」
 二人して、小さく頭を下げた合たあと、彼女が、照れ臭そうに続ける。
「こんなに会話らしい会話をしたのは、いつ以来だろう」
……僕も同じようなものです。特に女の人と話をしたのは」
 それを聞いた彼女は、明らかに当惑していた。
「リアクシンに困りますよね。ごめんなさい」
「気にしないでください。ほら、みんな、いろいろありますから。……私の場合は、よくある恋愛のゴタゴタで」

 そう。彼女の言うように、この道を歩く人は、大抵、他人に興味本位で詮索されたくない物を抱えている。それは、すぐにでも捨て去てしまいたい物であるはずなのに、ときに、それが綺麗さぱり消えてしまうと、自分ではなくなてしまうのではないか、という自己喪失感を煽る、否定と肯定、消極性と積極性が混在する代物だ。僕にもある。だから、彼女の事を聞く前に、恐るおそる自分のことを切り出した。実際には、僕のことを知て欲しかただけかもしれない。とにかく、自分語りをしはじめた。

 昔から、まわりが難なくこなしている課題でも、一人だけできないことが多かたこと。そのため仕事が遅く、しかも、ノルマが厳しい職場だたので、毎日残業を繰り返していたこと。入社した頃はたくさん怒られたが、そのあとは、上司からは能無し、後輩からも疫病神だと、無視されることが増えたこと。自分が我慢すれば済む、そう考えて、なんとか勤めていたけれど、しまいには、体調を崩して辞めてしまたことなどを、しどろもどろになりながら喋た。
 中盤以降、段々と情けなくなて、涙が溢れてきた。うなだれて、見られないようにしたが、最後は、鼻をすするだけで、喋ることができなくなた。
 一方的に話していたのに、彼女は、邪魔にならない程度の相槌を打ちながら、真面目に聞いてくれていた。

 しばらくして、先に声を出したのは彼女だた。
「大丈夫ですよ」
 その声音に、思わず顔をあげた。真剣で、真摯な目をしていた。
「あなたなら、今からいくらでもやり直せます!」
 ありふれた台詞のはずなのに、説得力があた。硬化した殻を通り抜けて、内側を直接撫でられたような感触に、泣き顔を見られる恥ずかしさなど忘れて、見つめ返すことしかできなくなていた。

「また雨が降りそうですね。やぱり私は雨女なんです」
 空を見上げた彼女が言た。
 僕は、ここで終わてしまう予感がしたので、再び自分を奮い立たせた。
「あの……よかたら、峠を越えるまで、一緒に行きませんか?」
 泣いていたせいで、うまく声が出なかた。彼女は少し困たような、悲しいような顔になり、そして、何かを決心したように口を開いた。
「見ず知らずの方に頼むのは、心苦しいのですけれど、お願いがあるんです。それも、あなたにとて、なんの報いもない。それどころか、嫌な思いをさせるだけの依頼なんです」
「一体なんですか? 僕にできることであれば協力します」
「私のあとについてきてくれませんか?」
 出会たときのように、彼女の白くて固い表情に、当然不安はあた。しかし、好奇心、そして下心が勝た。僕は諾了した。
 起立した彼女は、ありがとうございますと言て、深々頭を下げた。それから背を向け、道を進みはじめた。
 僕も、あとを追いかけようとしたが、体が全く動かない。木像にでもなたかのように硬直した。どうにか目だけは動かせるが、大いに慌てた。
 こちらの様子を気にする素振りもなく、やがて、彼女は振り返ると、森の中を静かに指差し、その木立へ消えていた。

『待て!』

 思わず発した自分の声で、目が覚めた。
 全身に響く鼓動。荒い息と汗。思考が停止したまま、すくと立つと、せわしなく見廻した。先程まで彼女が座ていた場所には、未開封の菓子袋があるだけで、周りに人の姿はない。

 雨が降り出した。急いでザクを背負うと、彼女が示した辺りへ駆ける。

 そこには、どうにか大人が一人通れるくらいの道があり、両脇に薄紅色の紫陽花が咲き並んでいた。
 紫陽花たちは、雨粒を受け、しとりと濡れて波打ている。眼前の濃艶な光景に、まだ夢の続きを見ているような心地にさせられた。
 僕は、なにかに誘われるように、あるいは本能的に、紫陽花を掻き分けながら這入り込んでいく。
 すぐに、少しひらけた場所に着いた。樹齢数百年と思われる大木がある。椋木だろうか。近づいて手を触れてみる。湿てザラついていたが、じわりと暖かく感じられた。
 偶然に、奥の斜面に目が行た。連日の雨で崩れたのだろう。土がむき出しになている。

 汚れた、躑躅色のウアと頭蓋骨が見えた。
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