「トキタさんからお預かりした鍵ですが、お返ししておいてくださいませんか」
管理人の下川さんのところにや
って来たのは 品の良い白髪の女性だった。
お返しするも何も トキタさんは先月亡くなっている。片付けと退去の手続きをしに、遠方に住む息子さんが来るといいながら なかなか来ない。ベランダの物干し、廊下側のポーチには傘とステッキ、配達の人が置いていったコンテナ。枯れた草の残る植木鉢。部屋はまだトキタさんの居た気配を残している。
鍵を預かったなんて言うからには 親しかったのだろうと思うけれど、亡くなったことを知らないっていうことは、と下川さんは考える。
仕事上 いろんな家庭の事情を知りたくなくても知らされることは多い。守秘義務とかなんとか この頃特にうるさいので、あまり首を突っ込まないよう、詳しく聞かないように気をつけている。
同じ仕事仲間で親しくしている年上の油井さんは 年寄りに代わってゴミ出しを手伝ったり、夫婦喧嘩を仲裁したり
住人が引っ越した後も連絡取ったりしているらしいけれど、そういうのは下川さんはしない。この場合も、何も聞かず、何も教えず、鍵は自分で何とかしてもらうべきだと思う。退去時にはちゃんと最初に渡した鍵を本数揃えて返してもらわないといけない。誰かの鍵を預かるなんてことは 管理人でもしてはいけないことになっている。
「長い間お会いしていなくて、電話しても出て頂けなくて」
女性は言いにくそうに 少しずつ説明を続ける。
「持っている意味もなくなってしまいましたので、お返しに参りましたが、何度お宅に伺いましても 出て頂けないので」
身体を壊して入院したとか そういう経緯も知らないようだ。トキタさんは この人にそんな自分を知って欲しくなかったのかもしれない。ご家族に連絡先どころか、トキタさんの家族のことを彼女が全く知らないということも
彼女の話から知った。
封筒にでも入れてポストに入れておけばとか、そんな不用心な提案をするのも 仕事上差し支える。下川さんは心から済まなさそうな顔を見せて、自分は何もしてあげられないことを伝える。
鍵を持っていた女性の訪問を下川さんは トキタさんの息子に伝えない。それはトキタさんだけの秘密なのかもしれない。