第51回 てきすとぽい杯
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実験ナンバー009742
みお
投稿時刻 : 2019.06.15 23:34
字数 : 2152
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実験ナンバー009742
みお


 私には、しばらく前からの記憶がない。

「君の記憶の鍵とは、なんだ」

 目の前に座る男性は焦ているのか苛立ているのか、落ち着きなく歩き回る。
 彼は医師なのだろう。白衣と、眼鏡がよく似合う。
 少し動くだけで、彼の体から薬品の香りが、ぷんと匂いたつ。
 きと知ている人間なのだろうけれど、残念ながら私には記憶がない。
「さあ……車に……ぶつかて」
 私はかすれる声で、曖昧につぶやいた。
 私の記憶は、空を飛ぶシーンから始まている。
 車にぶつかたのか、それとも当てられたのか。
 体に何かがぶつかり、私の体は宙に飛んだ。そのとき、目の前には綺麗な青空が広がていた。
 ……私の記憶の中は空ぽだ。空梅雨の綺麗な青空しか残ていない。
 入道雲の白い色が、美しく映えるような青空だた。
「なんでもいいから思い出しなさい。記憶には鍵がある。それを一つ思い出せば、だいたいは上手く順繰りに思い出していくものだが……
 目が覚めると、私の前には彼がいた。
 体中の痛みと流れる血。
 そして、記憶のない自分自身に気がついたのだ。

……先生が私の記憶にこだわるのは」

 私は白いベドの上、体を起こしたまま掌を握る。それだけでぎ、ぎ。と音がした。
 ベドの白いシーツに置かれた私の手は血管が浮き出た巨大なものだ。色は赤と青が混じり合い、不気味なことこの上ない。
 鏡に映る私の顔はガマガエルみたいだ。腕も足も大きくて岩みたいにゴツゴツしている。
 先生は、私の体の半分くらいしかない。私が思い切り押し倒せば、きと先生はきうと言て伸びてしまうだろう。
 でも私はすかり意気地が折れて、しんとうつむく。

「私が実験動物だから?」

「そうだな」
 メガネを掛けた彼はまだ若い。不機嫌そうに眉を寄せ、めそめそと泣く私の腕を叩いた。
「そうだ。だから思い出せ。私の実験動物なんだ。お前には、大事な記憶を埋め込んでいる」
 先生の声は冷たい。
 私は醜い自分の手を見つめた。
 記憶がなくたて、わかる。この醜い手と顔。人間とは思えないこの体。
 私は先生の実験動物なんだろう。私が記憶をなくしたせいで研究の成果はパアになる。
 だから先生は怒ているのである。
 それが妙に悲して、私はホロホロと泣く。
「じあ記憶なんて、なくていいです。思い出したて不幸なことしかないもの。このまま、ただの醜い化け物で、ずといたい。不幸な記憶なんて思い出したくない」
「ああ。泣くな、泣くんじない。困たな」
 私が泣くと先生は心底困た顔をして、私の醜い手をとた。
 驚いて手を引き抜こうとしても、先生の力は思たより強かた。
「ずと言てるだろう、私は不器用なのだから、そういうふうに困らさないでくれと」
 先生の声がかすかに優しく聞こえて、私は戸惑う。
 車に当たた傷などもう痛くもない。
 怪我はすかり癒えた。この体は化物だから。
 なのにまだ、体の奥底に痛むなにかがある。
……私が焦ているのは時間がないせいだ。今夜、立たねば、もうチンスはない」
 先生が腕時計を見る。それは深夜の時刻をさしていた。
 そういえば、ここはどこだろう。真白な……綺麗な病室。実験動物が追いやられるにしては、綺麗すぎる。
 机の上には、一輪のきれいな花。
 私は身を乗り出して、花を眺めた。私の手だと、潰してしまいそうなほど、繊細な花だ。
 綺麗な……なんて綺麗な。
「綺麗な花」
「ああ」
 先生はぶきらぼうに花を摘みあげる。
「紫陽花だ。梅雨の花」
 外は、ようやく雨が振り始めたらしい。ぽつぽつと響く音が私の記憶を揺さぶた。
 先生はその花を私の手の上に落とす。
「ハイドレンジア」
 優しい声が響く。
 小さな花が散て、私の手を彩る。 
 赤と、青と白。綺麗な花弁は、私の手を、彩る。
 花嫁の、ベールのように。

 紫陽花の別名を、ハイドレンジアという。

 綺麗な言葉だ。
 雨を受ける、紫陽花の、綺麗な花弁。

 お前の手は、まるでハイドレンジア……綺麗な色をしてるじないか。

 耳元で、いつかの思い出が蘇る。
 それは先生の声で再生される。

……実験ナンバー009742」

 実験ナンバー009742。お前のことをこれからハイドレンジアと呼ぼう。

「今は……ハイドレンジア」
「しまたな」
 先生は驚くように目を丸め、そして私の顔を拭た。
「泣かないでくれ、ハイドレンジア」
 私が今、流す涙は喜びの涙である。
「まさか私の声が鍵だただなんてな」
 先生が耳まで赤くして、私の手に優しく口づけた。
「博士号を返さなくてはいけないな……こんな簡単なことに気づかないなんて」
 先生は私の体に優しくシーツをかける。それだけで、私の醜い体は隠された。
 ……いや私の体は、彼の前限定で美しくなる。
「さあいこう、ハイドレンジア」
 先生はベドの下から大きな荷物を引き出すと、私の手をとた。
 気がつけば外は大雨。しかしその雨の中を、不穏なライトを付けた車が行たり来たりを繰り返している。
「少しの時間ももうないぞ。外を出たら一気に港へ、そこから船で、世界の端へ」
 先生は、白衣を脱ぎ捨てる。胸についた社員証らしいバジを床に放り投げ、足で潰した。
 そして背伸びをして、私の頬に口づける。
……逃げるんだ。私のかわいいハイドレンジア」
 私の記憶は、紫陽花の色と先生の声で蘇た。
 そこにあたのは、不幸な記憶ではない。
 幸福な未来に続く記憶だた。
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