甘い涙 ~ 手の魔法 ~
「『くろい』を治す方法を、知らんですか」
木立の陰や草むらで、そんなことを聞いてまわる鳥がいた。
現れるのは、決ま
って夜分や夕暮れ時、雨催いの薄暗い日にだけ。茶色の羽根を斑模様で染めた、それはあのヨダカだった。
「『くろい』を治す方法を、知らんですか」
「知るかよ、よそで聞きな」
まともに応えてくれるやつなんか、ほとんどいない。
けれどもヨダカは、来る日も、来る日も、しつこくしつこく、聞いてまわった。獣にも、虫にも、魚にも、聞いてまわった。
「『くろい』を治す方法? そんなもの、あたしにわかるもんか」
夜歩き中の雌ダヌキに出会ったのは、探し始めてから二十日余りも経ったころだった。
「けどさ、あんた、イシガメには会ったかい? そういう難しいのは、あいつの専門だろ」
雌ダヌキはちょうど退屈していたと見えて、イシガメが昔、人間に飼われていたとか、それは『イシャ』という家だったとか、いろんなことを教えてくれた。
イシャというのは、とにかく何でも治す人間だという。
「イシガメに会うなら、朝早くがいいよ。気温が上がると出掛けちまうから」
「『くろい』を治す方法を、知らんですか」
いよいよ、詳しい、偉いひとが相手となって、ヨダカの声はいくぶん上擦っていた。
イシガメは静かに、ふん、ふん、とヨダカの話を聞いていたが、やがて、ぱくっと口を開いた。
「そう、さ、の」
たいへんな高齢で、ひどくゆっくりした話し方なのだった。「『テアテ』、じゃな」
テアテ。ヨダカは復唱した。
「さよう。これを、の」イシガメは、ヨダカに見せるように、前足を揃え、地面をギュッとする。
「こう、するのじゃ。その、猫の、体の、悪い所に、の」
手本とばかりに、ギュッ、ギュッ。イシガメが前足を押し付けるたびに、軟らかい沼地の泥が沈み、窪みを作る。
「『テ』とは、人間の、手……、つまり、獣なら、前足、かのう」
「『アテ』は、この動き、じゃな。これが、『アテ』」
言いながら、また、ギュッ。
いつの間にか、泥の窪みがずいぶんと広がって、イシガメの頭はすっぽりその中に収まってしまっていた。
「よいか、『テ』と、『アテ』じゃ。忘れるでないぞ」
窪みから声がした。
テ、と、アテ。テ、と、アテ。
耳慣れない言葉を頭の中で唱えながら、ヨダカは丁寧に礼を言って、イシガメの住処を後にした。
ルリネコは、今夜もヤツの所へ向かう途中だった。
呼びかけると、暗い暗い、闇そのものみたいな瞳をして、ヨダカを見た。ヨダカのことが分からないようだった。
「ルリネコ、行くな」
ヨダカは、爪を立てないよう慎重に、ルリネコの背中へ舞い降りた。毛筋の、黒の濃い所を狙って、足先を押し付けてゆく。
ルリネコが、イヤイヤと身をよじったが、ヨダカはその背にしがみついた。
「ルリネコ、ルリネコ、帰ってこい」
ここか。それとも、こっちか。
足先をいくら動かしても、ルリネコの毛色は変わらない。
それでも、ヨダカは諦めきれない。もがくルリネコを追って、再びしっかりと、足先を押し付ける。
毛色に変化はない。
ふっと、イシガメの言葉が頭をよぎった。「『テ』とは、人間の手、つまり、獣なら、前足かのう」
獣で前足ならば、鳥の自分は、もしかして翼なんじゃないか?
急いで翼を大きく広げ、ルリネコを包むように抱きついた。その様はまるで、鳥が猫を無理やり抱卵しようとしているみたいだった。
しばらくは何も起こらなかった。
ルリネコは、もう暴れなかった。ヨダカは祈るような気持ちで、ルリネコの体を包み続けていた。なあ、ルリネコ。帰ってきてくれ。行ってしまわないでくれ。せめて、お前だけでも。
――月がてっぺんに昇るころ、ようやく、翼の下から声がした。
「ねえ、これ、何してんのよ、ヨダカ」
ルリネコが、すっかり自分を取り戻すまでには、ずっとずっと時間がかかった。
そのたびごとに、何度も何度も、ヨダカは『テ』を『アテ』た。
するとしばらくの間は、元々の、なんでもない頃のルリネコが戻ってくる。けれども少し経つと、たちまち人が変わったようになって、ヨダカを強くなじった。聞くに堪えない言葉を並べ、責め立てた。
かと思えば、急に消沈して、涙を恋しがっては鳴くのだった。
「ねえ、涙を、涙をちょうだい。アンタのでもいいから」
「だめだ。アレが少しも欲しくなくなるまでは、我慢だ」
ヨダカが言うので、ルリネコも懸命に堪えていたが、ある夜、とうとう、ねぐらの神社を抜け出して、あの人間が暮らすアパートへと駆けて行ってしまった。
やっぱり、だめなのか。オレでは引き止められないのか。
消えそうになる希望を必死に手繰り寄せ、ヨダカはルリネコの後を追った。
アパートのすぐ前で、ルリネコはあの男の部屋の窓を見上げ、足を畳んで座っていた。
ヨダカはルリネコの隣に、そっと着地した。
「入らないのか」
「アタシだってね」ルリネコはそっぽを向いた。「わかってるのよ。もう少しで、アタシが消えてしまうところだったってのは」
ヨダカはただ黙って聞いていた。
「それでも、逆らえないの。あの涙の味には」
ルリネコも、そう言って、黙ってしまった。泣いているのかもしれない、とヨダカは思った。
満月になりかかった月が、二匹の足元に小さく影を作っていた。たまに、昼夜を間違った蝉が鳴き出すほかは、静かな夜だった。
「入らないのか」
ヨダカはもう一度、聞いた。ややあって、ルリネコは立ち上がり、
「だって、こんなちぐはぐな毛色じゃあ、ね。とても見せらんないわ。あーあ、自慢の瑠璃色の毛が、だいなし」
ルリネコの毛は、もうほとんど、元の美しいブルーグレーに戻りつつあった。それでもただ一箇所だけ、ヨダカの羽根が覆いきれなかった足首から先だけは、今も黒い毛のままなのだった。
「そんなことはない。今のそれだって、なかなか悪くないぞ、靴下のようで」
そう言ったら、ルリネコは顔をしかめたが、ツンとポーズを取って、仕方ないわね、という風に、神社に向かって歩き出した。もう、いつものルリネコだった。