ボイラー技士の呟き
日常から笑顔が消え
……いや、すべての顔色、微笑みも苦虫を潰した顔もあらゆる表情のバロメー
ターが消えてしまったコロナのなか、私は当然のように未だにほとんど満員に近い電車に乗り、大通りを人に揉まれて会社へ向かう。
一見すると、ボイラー技士の私は社の裏手のシャッターに姿を消えてしまい、誰の目にも触れない。ビルの正面からなかへ入ったことはない。そこは私の場所ではなくて、ずっと地下の超臨界ボイラーの横手のモニター質に座っているだけだ。超臨界ボイラーは常に臨界域を超えた超臨界……つまり、温度としては気体状の蒸気になっている水が狭いパイプのなかで凝縮されて、とてもとてもパワフルな状態にある臨界状態のさらに上……の蒸気を噴き出して、無駄にビルを温めている。空オフィスも多いなか、空調システムは多少の空間を暖房するだけでも回っている。もちろんボイラーシステムに無駄はなく、上昇した圧力が余れば出力を下げる。水室を持たないボイラーなので効率はいささか悪いものの……。
問題は私が顔を合わせる人がさらに減ったことである。私が一日に会う人の数はぴったり三人だった。一人は妻、もう一人はボイラー室の岡田さん、そして定食屋の朱美ちゃん。
朱美ちゃんは定食屋が閉まってしまったので、きっともう会えない。大学生のアルバイトで、まあ長くても二年くらいしか会えないとは思っていたのだけれど、私のような若輩の社会人ボイラー技士には癒やしと言えるアイドルだったのに。最後にあった一ヶ月ほどの期間は彼女もマスクをしていて、目では笑っているのに声はくぐもっているし、いつもは見える尖った犬歯を見せてくれることもなかった(糸切り歯という言葉がぴったりだった)。テレビニュースで流すように、路頭に迷う人もいるほどの状況なのだから、彼女所のことを考えると胸は痛い。もっとも、私はどうすることもできない。コロナが憎い。
岡田さんは安全上の問題からずっといるものの、目付きがとても鋭く、言葉を耳にしなければ感情がまるで読み取れない。怒っているのか楽しいのか、まったくわからない。一円を拾っただけでも大喜びなのに、パチンコで負けた日にはえらく虫の居どころが悪い。そばにいながらも、先輩の岡田さんにはいつもピリピリしなければならない。いつ蒸気を噴くともしれない。コロナが憎い。
妻は最近、とてもイライラしている。今までも怒りっぽかった。わざわざ大声を張り上げる必要もなのに、一つ一つきつい目をして私に叫ぶ。
「喧嘩をしているわけじゃないんだから、もうちょっと抑えめに……」
と私がいっても、抑えられるのは数分だった。いったい何が彼女を怒らせているのかずっとわからなかった。そして今、それに拍車がかかっている。イライラどころの話ではなく、髪をよくかき上げ爪でテーブルをカツカツ鳴らし、嘆息の連続。目は据わり、眉間に皺が寄り、舌打ちをする。超臨界ボイラーの方が大人しいほどだ。(考えてみれば、ボイラーとの付き合いの方が長い)。コロナの方がマシだ。
だから今私は、朱美ちゃんを失った毎日を送っている。朱美ちゃんを見て顔が超臨界の湯気を上げるほどではなかったにしても、毎日の癒やしというものは大切だった。
マスクが人のコミュニケーションを奪っていったのは本当の話だ。そして余計な負の感情を植え付けたのも事実。一介のボイラー技士である私には、ただマスクをして耐え続けるしかない。
……と、そんなことを、私は最近とても小さな声ながら、マスクの下で口を動かして独り言で言っている。私だけだろうか? 独り言を呟く口は見えないはずだが、声が聞こえていて不審に思われているかもしれないが、相手の不審に思う顔が見えないので、私は一向にこの癖をやめられそうにない。
朱美ちゃんが戻ってくる日を願っている。