第61回 てきすとぽい杯〈てきすとぽい始動9周年記念〉
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ボイラー技士の呟き
投稿時刻 : 2021.02.14 10:12
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ボイラー技士の呟き
浅黄幻影


 日常から笑顔が消え……いや、すべての顔色、微笑みも苦虫を潰した顔もあらゆる表情のバロメーターが消えてしまたコロナのなか、私は当然のように未だにほとんど満員に近い電車に乗り、大通りを人に揉まれて会社へ向かう。
 一見すると、ボイラー技士の私は社の裏手のシターに姿を消えてしまい、誰の目にも触れない。ビルの正面からなかへ入たことはない。そこは私の場所ではなくて、ずと地下の超臨界ボイラーの横手のモニター質に座ているだけだ。超臨界ボイラーは常に臨界域を超えた超臨界……つまり、温度としては気体状の蒸気になている水が狭いパイプのなかで凝縮されて、とてもとてもパワフルな状態にある臨界状態のさらに上……の蒸気を噴き出して、無駄にビルを温めている。空オフスも多いなか、空調システムは多少の空間を暖房するだけでも回ている。もちろんボイラーシステムに無駄はなく、上昇した圧力が余れば出力を下げる。水室を持たないボイラーなので効率はいささか悪いものの……
 問題は私が顔を合わせる人がさらに減たことである。私が一日に会う人の数はぴたり三人だた。一人は妻、もう一人はボイラー室の岡田さん、そして定食屋の朱美ちん。
 朱美ちんは定食屋が閉まてしまたので、きともう会えない。大学生のアルバイトで、まあ長くても二年くらいしか会えないとは思ていたのだけれど、私のような若輩の社会人ボイラー技士には癒やしと言えるアイドルだたのに。最後にあた一月ほどの期間は彼女もマスクをしていて、目では笑ているのに声はくぐもているし、いつもは見える尖た犬歯を見せてくれることもなかた(糸切り歯という言葉がぴたりだた)。テレビニスで流すように、路頭に迷う人もいるほどの状況なのだから、彼女所のことを考えると胸は痛い。もとも、私はどうすることもできない。コロナが憎い。
 岡田さんは安全上の問題からずといるものの、目付きがとても鋭く、言葉を耳にしなければ感情がまるで読み取れない。怒ているのか楽しいのか、またくわからない。一円を拾ただけでも大喜びなのに、パチンコで負けた日にはえらく虫の居どころが悪い。そばにいながらも、先輩の岡田さんにはいつもピリピリしなければならない。いつ蒸気を噴くともしれない。コロナが憎い。
 妻は最近、とてもイライラしている。今までも怒りぽかた。わざわざ大声を張り上げる必要もなのに、一つ一つきつい目をして私に叫ぶ。
「喧嘩をしているわけじないんだから、もうちと抑えめに……
 と私がいても、抑えられるのは数分だた。いたい何が彼女を怒らせているのかずとわからなかた。そして今、それに拍車がかかている。イライラどころの話ではなく、髪をよくかき上げ爪でテーブルをカツカツ鳴らし、嘆息の連続。目は据わり、眉間に皺が寄り、舌打ちをする。超臨界ボイラーの方が大人しいほどだ。(考えてみれば、ボイラーとの付き合いの方が長い)。コロナの方がマシだ。
 だから今私は、朱美ちんを失た毎日を送ている。朱美ちんを見て顔が超臨界の湯気を上げるほどではなかたにしても、毎日の癒やしというものは大切だた。
 マスクが人のコミニケーンを奪ていたのは本当の話だ。そして余計な負の感情を植え付けたのも事実。一介のボイラー技士である私には、ただマスクをして耐え続けるしかない。
 ……と、そんなことを、私は最近とても小さな声ながら、マスクの下で口を動かして独り言で言ている。私だけだろうか? 独り言を呟く口は見えないはずだが、声が聞こえていて不審に思われているかもしれないが、相手の不審に思う顔が見えないので、私は一向にこの癖をやめられそうにない。
 朱美ちんが戻てくる日を願ている。
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