チリンチリン
あんな夢を見たのは、台風が近づいているのに風鈴をしまい忘れたせいだろうか?
荒れ果てた荒野をただ一人。どこまでも、どこまでも歩く夢だ。聞こえるのは吹き抜ける強い風と、杖に付けた小さな鈴の音だけだ
った。
夜半過ぎに目を覚ますと、すでに暴風域に入っているらしく、風鈴はチリンチリンを通り越してチリチリチリと十六ビートを刻んでいた。
慌てて窓を開けたら短冊部分(舌というらしい)が雨風に煽られて、陸上された魚のようにビタンビタンと跳ねている。取り外すために伸ばした腕は、あっという間にびしょ濡れになった。
「風、凄いね。水路、大丈夫かな?」
律子がベッドサイドの淡いランプを灯けながら言った。寝起きでカタコトになっているのが可愛い。
「警報は出てないな」
スマホをチェックして応えると、律子が両足を天井に向けて上げ、それを下ろす勢いで立ち上がった。
その動作をはじめて見た夜はそれなりに驚いたが、今では愛嬌すら感じてしまう。我ながらベタ惚れで困ったもんだ。
「キッチン行くならビール持って来て。一番小さいやつでいいから」
「えー、今から飲むの?」
律子は、言葉の割にたいして嫌そうでもない顔で寝室を出て行った。可愛い。
吹き荒れる風の音を聞きながら、さっきまで見ていた夢を反芻する。時間がたつにつれて、どんどん鮮明になっている気がする。普通は夢って、起きた瞬間からどんどん忘れていくものなのに。
僕は元々、リアルな夢を見ることが多い。夢の中で音を聞けば耳に鼓膜が震えた振動が耳に残り、ものを食べれば舌に味が残り、何かに触れば感触が手に残る。
これはいわゆる『思い出している』状態で頭に浮かぶ記憶とは一線を画していて、煮詰まったスープみたいに純度の濃い感覚だ。
その純度で見るエロい夢は、それはそれは凄かったりする。うん、凄い。
「その代わりと言っちゃ何なんだけど、ストーリーがあやふやなんだよなぁ」
物想いに沈んでいたら、律子が戻って来たようだ。階段を上がる音がする。
軽く飲んだらまた寝るとしよう。それとも久しぶりに朝までたっぷり愛し合うか?
ニヤニヤと緩む顔を律子に見られたくなくて、手で口もとを覆う。
あれ? さっき雨でびしょ濡れになったパジャマの袖がすっかり乾いている。そういえば、窓枠から外した風鈴はどこに置いただろうか。耳にはチリチリと鳴る音が、確かに残っているのに。
ふと、思い出す。
そういえば僕は、明晰夢だけは、一度も見たことがない。