第67回 てきすとぽい杯〈てきすとぽい始動10周年記念〉
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母と卵と私の春
みお
投稿時刻 : 2022.02.19 23:34
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母と卵と私の春
みお


 大きな卵を平らな机に、コン。と叩きつける。
 小さなひび割れにくと指を押し込めば、透明の白身がこぼれて重みのある黄身が指のすぐそばを通り抜けていく。
 蛍光灯が照らす白い皿の上に、こぼれ落ちた一つの卵。
 それを見ると私はいつも、『誕生』という言葉を思い出すのだ。
 
 
 卵料理は世界各国に存在するという。その数は数千、数万、数十万、数百億以上。
 世界の人の胃を満たして、世界の人々を幸せにする。
 それが卵料理だ。
 ……そんなことを教えたのは私の母である。
 
「すかり卵を割るのも上手になたじない」

 その母は、今日も台所の椅子に座て、真白な煙草をふかして笑う。
 その目は楽しそうに私の手元を見つめていた。
「希美。あんたさ、昔は卵が怖いて言て、冷蔵庫開けるたびに泣いてたの覚えてる?」
「話を盛らないでよ。泣いたのは一回だけ。それにもう私は25歳だし、料理くらいは当たり前にできるんです」
 口を尖らせながら私はコンロに火を付ける。冷え冷えとした空気に、ぽと温かい空気が流れる。
 そうだけ。と母は言て白い輪かを宙に飛ばした。
 母はいつも大げさなのだ。1つのことも10や100に引き伸ばす癖がある。
「なんで卵なんて怖がるかねえ」
 フライパンに踊るほどの油を落として、ふつふつと熱が広がれば冷たいバターを一欠。
 熱されたフライパンの上、割た卵をつるんと滑らせると白身が一気に真白に染また。かと思えば、段々と周囲から焦げていく。
 揺らして、ゆくりと、油に泳がせるようにフライパンを揺り動かして、熱が均一に伝わるように……幼い春の日、私は人生ではじめて目玉焼きの作り方を母に学んだ。
「そりあ、お母さんのせいだよ。卵に落書きしたじない。目と口書いてさ。早くこれをやつけて食べなき、化け物になるぞなんてさ。小学生にいたら本気にするに決まてる」
「食育てやつよ。あんたも、化け物をやつける。なんて鼻水垂らして卵握りつぶしてさ。じりじりだたなあ。あの目玉焼き」
「お母さん、それはもう耳タコです」
 出来上がた目玉焼きには、ケチプとたぷりの胡椒。
 それを白い皿に移し終えると、私は続いて卵を三つ、かしりと割て、柔らかく混ぜる。
「希美。蜂蜜ちとだけだよ。それと」
「だし醤油。味の素……マヨネーズ」
「そちは、たぷりで」
 目玉焼きを焼き終えたフライパンを軽く拭て、続いて落とすのはごま油。かんかんに熱して、卵液を落とす。膨らんでくる所を、潰す、混ぜる。懸命に。
「忙しいのよねえ、卵焼きて」
「ちと黙てて」
 箸の隅こを当てて、くと息を吸い込む。
 目を見開いて、一気に手を動かせば卵はくるりとフライパンの中で折りたたまれる。急いで第二弾の卵液を流し込んで、黄色く輝くそれを、くるりくるりと巻いていく。たためばたたむほどに、黄色のきれいな塊になていく。
 ただし、丸いフライパンなので形はまるでオムレツ。でもこれが、我が家風だ。
「四角いフライパンにしたらさ、お店ぽく作れるのに。お母さん絶対四角いフライパンを買てくれなかた」
「丸いフライパンのほうがいいのよ。だて四角いフライパンだと、端この尖た切れ端ができないじない。卵焼きは、尖た端こが美味しいんだから」
 母は大切なことを告げるように、言た。
 とがた爪には真赤なネイルに、金髪に近い茶髪。母はいくつになても、自分なりの美意識を崩さない人だた。
「お母さん、本当に卵料理好きだよね」
 卵三つ分のふわふわ卵焼き。
 たぷりの油で揚げるように仕上げる目玉焼き。
 2つを台所の机に置いて、私はしみじみ呟いた。
 真白な殻の内側に、こんなにも美しい色が閉じ込められている。
 外からは見えない。聞こえない。
 それは命だ……と、小学生の私に向かて彼女は言た。
「あんたが卵食べたことないて言うんだもん。お母さんも必死だたのよ。なんたて子育てなんて人生ではじめてだたし」
「まして、小学生の子どもから育てるなんてはじめて?」
 私は思わず笑てしまう。
 私と母は小学生のときに出会た。私はまるで養鶏場から出荷される卵のように、生まれ落ちた家から放り出されてあちこちの家を旅することになる。
 最後に拾われたのは、小学校1年の終わり。冷たい雨の降る春のはじめ。
「ガリガリのやせちで、腕なんてあたしの小指くらいしかなくて。何食べさせたらいいのさてヤブ医者に飛び込んだら、卵食わせろて言われたもんだから」
 その日、彼女は私に卵を与えた。
 卵に書かれた化け物は、お前を捨てた両親だ。お前をいじめた養父母だ。
 そういて、化け物の絵が書かれた卵を私の前で堂々と割てみせた。
 真赤な爪で割られる卵のことを私はいまでも覚えている。
「医者がさ、卵食べさせれば大きくなる。なんていうから、こちはすかり信用するわよね。だから名前まで……
「希美……きみ。に、したんでし。1万回は聞いた」
 私は思わず盛た数字を言てしまて、少し照れる。すかり母の口癖がうつてしまた。
「ね? 名前の通りに立派に育たでしう?」
 机に突伏したまま、彼女は笑う。その顔を見ていると、私もなんだか笑えてしまう。
「おかげで、週に1パク以上食べる卵好きになたけどね」

「希美ちん! ここにいたの」

 突如、私の背後から声が響く。
 はと振り返れば、台所の入り口に叔母さん夫婦が立ているのが見えた。
「何してるの……料理なんて今、しなくても」
 叔母は机の上にある皿を見て目を丸くする。
「昨日から気が張てたから、お腹が空いたんじないか」
「もう、始まるから。それはあとにしなさい。ほら、はやく……
 ふたりとも目元は赤く腫れている。手には数珠、体には笑えるくらい真黒の……喪服。
「あの子よ」
「ああ、養子の」
 叔母たちに誘い出されて私は仏間に足を運ぶ。しばらく見ていない間にそこは様変わりしていた。黒と白の垂れ幕に白い棺桶。いぱいの花。その真中で、大口を開けて笑う母の写真。
 
「本日は、母のためにお集まりいただきありがとうございます」

 皆の前に立て、私は息を吸い込む。
「母は……
 あふれかえる弔問客の向こう、赤い爪が見えた。
 真赤な爪の先、掴んでいるのは白い卵だ。優しく掴んだその手がゆくりと揺れて、段々と薄れていく。
 春の青空に、卵みたいな白い雲が浮かぶ。きと彼女は、あそこの一つに消えていたのだ。また次の命になるために。
 それを見て、私は少しだけ微笑んだ。
……最高の、私のお母さんでした」
 今夜は卵を沢山食べよう。
 これまでの、思い出の数だけ。
 私はそう思いながら、静かに頭を下げた。
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