第72回 てきすとぽい杯〈紅白小説合戦・紅〉
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終恋
白鯱
投稿時刻 : 2022.12.10 23:59
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終恋
白鯱


「好きじ初恋なんじ!」
 鈴木庫之介さんが、リーダーの橋本さんににたらこ唇を突き出して迫るが、彼女は、庫之介さんの額をペシペシ叩きながら、暴れ牛をいなすようにして、椅子や机の間を右へ左へと移動する。
 庫之介さんはそれに負けじと、橋本リーダーに追い縋るが、廊下からそれを見つけた石野さんに羽交い締めにされる。ラグビーをやていたという石野さんは、庫之介さんを引き摺りながら、部屋を出て行た。
「何万回目の初恋なんだか」
 橋本リーダーは、久本のおばあちんの笑顔に、そう言う。おばあちんは、楽しそうな顔をするけど、言葉を忘れてしまていて、手を叩いて、彼女の言葉に応える。
「霧野さん」
 不意に呼ばれて、あたしは、橋本リーダーの唇を見る。血色が良くて、まるで赤リプをしているような色をしていて、肌は白い。庫之介さんの初恋の相手に似ているのか、そうでないのか、庫之介さん自身にしか分からないけど、色々な人の初恋の相手だたのだろうと思う。
「聞いてるの」
 彼女が少しイライラした声を投げてくる。綺麗な顔をしている人は苦手だ。不細工ではないとは自分で思ているけど、綺麗な人に話しかけられると、どこか上から言葉が降てくるように感じる。
「はい、すいません」
 あたしは、萎縮してしまう。
「今日の散歩は、坂本さんを担当して」
 わかりましたと、答える。坂本さんは、意識がはきりしている時と、そうで無い時がある。今日ははきりしていると良いなと思いながら、坂本さんの部屋に向かた。
「良いところに来たね」
 坂本さんは、自室で、アールグレイの紅茶を入れていたようで、あたしにも飲んでいかないかと笑顔で誘てくれた。坂本さんはどこか遠くの海辺でジズを流す喫茶店を経営していたと言う話だた。
 窓の外の紅葉を見ながら、暖かい紅茶を白磁のカプで飲むと、身体が温まて、仕事の疲れが減るような気がした。
「最近は、よく見ますね」
 坂本さんが、青空の下の黄色や赤の葉に視線を移したまま、言う。
 あたしとよく会いますねということだと気付くまで少しかかて、
「パートタイマーなのですけど、最近お休みされる方が多いようで、シフトが多くなてるんです」
と、答える。
「新しい人が居ることは、僕らも新鮮な気持ちになれるから良いことだよ」
 坂本さんは、テプを撫でながら言う。
「妻が亡くなてから、ここに来たけれども、外の世界をあまり知らないから、近所のことがよく分からないのも新鮮でいいのかもしれないね」
 坂本さんはもう十年ほどこの施設にいる。記憶が途切れ途切れになたり巻き戻たり、蒸発したりするようで、あたしが、もと長くこの施設で働いていることは思い当たらないみたいだた。
 坂本さんは、ちと古めのコーロイのジトに、スラクスで、ラウンドトのフスター&サンの靴を履いている。グレンプリンスのチクのマフラーをして、白髪をなでつけると、まるで英国紳士のように見える。
 施設のジンパーに腕を通して、あたしは、不釣り合いな格好でごめんなさいねと、心の中で呟いて、玄関を連れ立て抜け、近所の川縁の公園へ向かう。
 春には、サクラ並木なのだが、今の季節には、葉も落としてしまい、その姿が、まるで血管が伸びているように見えた。
「霧野さんね」
 先を歩いていた坂本さんが、振り返てあたしの名前を呼ぶ。坂本さんは、歯を見せて笑た。
「鈴木くんの、初恋が橋本さんてのは、おかしいかな」
 鈴木さんと坂本さんは、終戦間近生まれで、二人とも八〇を優に越えている。橋本リーダーは、まだ五〇になているかどうかだたと思う。鈴木さんが橋本リーダーに出会うまで人を好きになることが出来なかたという可能性はゼロではないけれど、かなり可能性は低いと思います。と、素直にあたしは坂本さんに答える。
 坂本さんはうんうんと頷きながら、目を細める。
「この年齢になて思うんだけど、こんなおじいちんは恋なんてしないんじないかなと勝手に思てたんだよね。昔はさ」
 確かに、恋というものは、若者や中年のもので、老齢の人の恋というのは少し違和感がある。最近目尻の皺の気になるようになてきたアラフのあたしでも、恋をしていると打ち明けるのは憚られる気がする。
「大人になると愛することはできても、恋することはできなくなるのかね。恋とは、軽々しくて若々しい、どこかキラキラしている印象がある。愛するということよりも、きと気軽な感じだ」
 チク柄のマフラーを弄びながら、川縁を坂本さんは歩く。その背中を見ながら、あたしは、好きな人であれば、恋でも愛でもどちでもいいんじないかと思うけど、特定の相手は最近居ないなと思て、いつからだろうと思て、思い出せないなと思う。
「最後の恋は妻だたというべきなのだろう」
 どこか、畏また坂本さんの言葉に、『べき』だと言う必要はないと思いますと返す。
「鈴木くんは、きといつも新しい気持ちでいるから、橋本さんみたいな綺麗な人に恋をすることができるんじないかな」
 記憶の連続性が断ち切られている鈴木さんは、有り体に言えば痴呆の症状がある。坂本さんも、同じだ。施設の人は、たいていがそうだ。あたしの記憶は連続しているから、それがどこか変だと思うけど、毎日生まれるみたいなものだから、その時にした恋は「初恋」でいいのかもしれない。
「恋焦がれて、恋文を書いたりとか――そうだ、昔、喫茶店をやていた時にね。カウンターに毎週同じ時間にやてくる男女がいてね。彼らは一言も会話をしないし、目も合わせないんだけど、同じレコードの曲目を順にリクエストしてくるんだ。そういう焦れるようなのが、恋だたはずなんだよ」
 鈴木さんの追いかける恋と、坂本さんの話の中の男女の恋と、同じ恋話だけど、ずいぶん違う。
 坂本さんは、焦点の定まらない目をする。記憶の途切れが来たのかもしれない。
「僕は妻を愛していたんだ。だけど、遼子も好きだた」
 睨むような目をして、坂本さんがあたしを見る。
「君はいつだてそうだ。僕が離婚をすると言たのに、私にはもたい無いと言――
 曖昧に笑顔をつくり、視線を受け止める。
「許してくれ」
 それは、妻への言葉なのか、遼子という人への言葉なのか、あたしにはわからない。坂本さんは、いつも遼子さんという人の名前を呼んで、涙を流す。
 何回も同じ坂本さんを見守るあたしは、慣れこになてしまたけど、坂本さんは、何度も何度も、遼子さんとの結ばれなかた恋を繰り返している。
「鈴木くんが羨ましいよ」
 坂本さんがあたしの手を取り、目の奥をのぞき込むようにして、顔を近づけてくる。皺だらけの顔なのに、目の中の向こうには、きといつかの坂本さんがあたしを見ているのだと思う。
「遼子さんは――
 あたしが、彼女の名前を言うと、坂本さんの記憶の魔法が解ける。目の奥の向こうのいつかの坂本さんはどこかに行て、英国紳士の老齢の男性に戻る。
「岩淵遼子は、消えるみたいにして、居なくなたんだよ」
 神隠しみたいにして、遼子さんは居なくなたらしい。行方が分からない恋の相手を坂本さんはずと思い続けている。
「若い頃、ずと昔に好きだた。始またのか終わたのかも分からない」
 坂本さんは呟く。
 坂本さんの記憶が不連続になて、色々抜け落ちていく。鈴木さんは、毎日新しく生まれてきて、新しい恋をしている。
 坂本さんもたくさんの記憶が抜け落ちて、毎日生まれてくるようになたら、また、遼子さんに新しい恋をするのだろうか。
 風が吹いて、坂本さんのマフラーが揺れる。
 私達の横を、男の子と女の子が走り抜けていた。
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