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第23回 文藝マガジン文戯杯「帰郷」
〔 作品1 〕
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ささやかなる帰郷
(
MOJO
)
投稿時刻 : 2023.08.06 00:22
最終更新 : 2023.08.13 19:49
字数 : 4960
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2023/08/13 19:49:32
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2023/08/06 07:49:48
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2023/08/06 00:31:49
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2023/08/06 00:22:16
ささやかなる帰郷
MOJO
私はかつて新宿区歌舞伎町に在
っ
た日本赤十字病院にて生まれた。
本籍地は新宿区西早稲田であるが、そこには三歳までしかいなか
っ
た。微かな記憶だが、部屋の壁にクレパスで落描きをし、そのことで叱責を受けなか
っ
たらしく、幼児にと
っ
て白い壁は大きな画用紙であ
っ
た。長じて、ミロやカンデンスキー
のカラフルな抽象画を観た際に様々な想いが湧いてきたが、あの壁のことも含まれていたはずである。
西早稲田からの移住先は練馬区高野台であ
っ
た。最寄りの駅は西武池袋線の石神井公園だ
っ
たが、ず
っ
と後年、石神井公園駅とひとつ手前の富士見台駅との間に練馬高野台駅が新設された。
いまの練馬高野台駅付近は、かつては石神井川が流れ、子供たちが駆け回る広大な野原であ
っ
た。漫画『ハリスの旋風』における、主人公石田国松とハリス学園の番長が竹刀で決闘するシー
ンはあの野原であ
っ
たと想う。なぜならあの原
っ
ぱの近所に作者のちばてつや邸があり、作中の決闘は「富士見が原」で行われた、と記憶しているから。
高野台に移住したのは、国宝の大きなお寺、長命寺、が在
っ
たからである。母方の祖母と長命寺の住職夫人が女学校の同窓であ
っ
たらしく、そういう縁でこの地に移
っ
てきたようだ。祖母はクリスチ
ャ
ンで、お寺に嫁いだ人と友人関係にあることの奇妙さは、ず
っ
と後年にな
っ
て気づくことであ
っ
た。
幼児の私はお寺の人たちに良くしてもら
っ
た。本殿と住居は長い廊下でつなが
っ
ていて、私は廊下を歩いて住職の家族の住む部屋まで出入りすることが出来た。
ある日、廊下の隅に積まれていた大量のチキンラー
メンをいくつか抜いた私は、それを錦鯉が泳ぐ池に浸してふやかしながら食べた。あたりまえだが、住職から「こら
~
!」と怒鳴られた。別の日、同じ所に積まれていたグロンサンをお寺で飼われていた猫に飲ませていたときもこ
っ
ぴどく叱られた記憶がある。お寺は犬も飼
っ
ていて、それは大きな雄のシ
ェ
パー
ドだ
っ
た。幼児の私が背に跨
っ
ても嫌がらない温厚な性質であ
っ
た。
お寺のクルマはシルバー
グレー
のシボレー
・コルベアであ
っ
た。幼児期の私は街を走るすべてのクルマのメー
カー
、車名を識別できていて、そのことによる全能感のようなものがあ
っ
た。
口がまともに回らないうちから「メルセデス・ベンツ」を認識していて、発音しにくいその語を片言で発すると、大人たちから笑いが取れることも理解していた。当時、ベンツのヘ
ッ
ドランプは縦目で、日産のセドリ
ッ
クはそれを模倣したことも判
っ
ていた。ブルー
バー
ドのテー
ルランプは柿の種であ
っ
たし、いすゞベレルのそれは三角形だ
っ
た。父親は社用車のドアが観音開きのトヨタ・クラウンを運転して帰宅することが度々あ
っ
た。ある日、お寺の駐車場に流線型の美しいクルマが停ま
っ
ていて、私は「あれはカルマンギアだ」という父親を遮り、フ
ォ
ルクス・ワー
ゲンのスポー
ツカー
と言い張
っ
た。クルマに近づき、フ
ォ
ルクス・ワー
ゲンのVとWを象
っ
たエンブレムを指さし「ほら」と示すと、父親は押し黙り、苦々しい表情であ
っ
た。
広い境内にはお寺が経営する幼稚園が在り、園長先生は住職であ
っ
た。そこに私は三年保育で通
っ
た。通常は二年だから、年少組に二年間いたことになる。だから、新しく年少さんにな
っ
た子等に対して威張
っ
ていたが、ひとり頭一つ大きな子がいて、ドイツ人だ
っ
た。メルセデス・ベンツの国から来た金髪碧眼の園児の名はアンドレ・クルツ。私は彼を支配することができなか
っ
た。積木を投げ合い、おでこにぶつけられ泣かされたこともあ
っ
た。
家の庭にはバナナの木が一本植わ
っ
ていたが、実をつけることはなか
っ
た。支柱が青く、座板がひとつしかないブランコが在
っ
たことも記憶している。近所には同じ年恰好の子が数人いて、隣の家にはいく子ち
ゃ
ん。三軒向こうにはみち子ち
ゃ
ん。その界隈の端にはなおきくんの家が在
っ
た。
いく子ち
ゃ
んは庭にゴザを敷いてのママゴトが好きだ
っ
た。幼いながら、私は嫌々お父さん役を演じた。みち子ち
ゃ
んは私より駆け
っ
こが速か
っ
た。幼稚園の運動会でも徒競走で一等賞を取るような女の子だ
っ
た。
一九六〇年代初頭は、近所付き合いというものが今よりず
っ
と濃密で、母親が所用で出かける家の子は別の家が預かる習慣もあ
っ
た。ある日、なおきくんの家に預けられた私は、なおきくんを馬乗りにな
っ
て泣かし、居間の障子に穴をあけまくるなど、狼藉の限り尽くし、ついにはなおき君の祖母から庭の駐車場の屋根を支える柱に縄で縛りつけられてしま
っ
た。夕刻に母親が迎えに来て、母親となおき君の祖母は激しく言い争
っ
た。
「うちの子を柱に縛るなんて!」
「こんなにいたずらな子は見たことがないよ!」
富士見台寄りの住宅街にはたえ子ち
ゃ
んの家も在
っ
た。たえ子ち
ゃ
んの父親と私の父親の勤め先が同じで、家族ぐるみの付き合いをしていた。富士見が原でたえ子ち
ゃ
んと遊んでいて、私が立小便をしていると、たえ子ち
ゃ
んも連れし
ょ
んで付き合
っ
てくれたことがあ
っ
た。
「え? 女の子なのに立
っ
ておし
っ
こできるの?」
「できるの。こつがあるの」
幼稚園を終えると同時に、私の家は再び引
っ
越した。同じ練馬区内で西大泉という町名であ
っ
た。つまり、小学校に上が
っ
た際には、まわりに顔を知る子はひとりもいない状況であ
っ
た。以降、何度も転居を繰り返すようになるのだが、学校に顔見知りがいないことはそれが初めてであ
っ
た。
大泉第三小学校、一年三組の担任は佐藤先生であ
っ
た。赤ら顔のおばさんで、「わたしは赤砂糖」と始業式の日に自己紹介をした。
同じクラスに私と同名のケイスケがもう一人いて、当時は珍しい名前であ
っ
たから、ライバル関係のようなものが生じた。初めての遠足の時、多摩川を渡
っ
たあたりの梨畑で果実をもいだ復路のバス車中で、私でない方のケイスケが唱歌『こいのぼり』を歌
っ
た。幼稚園では「屋根より高いこいのぼり♪」であ
っ
たが、小学一年生が教わる『こいのぼり』は、歌いだしが「甍の波と雲の波♪」であ
っ
た。アナザー
・ケイスケの歌唱ははげしく音程がくる
っ
ていて、私は自分のことのように恥ずかしか
っ
た。
この奇妙な経験は長く尾を引くことになる。例えば東宝のゴジラ映画とカ
ッ
プリングされた若大将シリー
ズで、加山雄三が『君といつまでも』のワンコー
ラスを歌い終わると、間奏中、人差し指で鼻をこすりながら「幸せだな
~
」と語りだし、それを見た瞬間にもとても恥ずかしく感じ、映画館の暗い席で消えてしまい気持ちにな
っ
た。今想うと、アナザー
・ケイスケの音痴な歌唱は「反則」と認識していて、間奏で台詞が入るような楽曲も反則扱いをしたのだろう。
思春期になるとギター
を始め、ある程度弾けるようになり、ビー
トルズナンバー
を弾き語りすることにトライしてみたが、レノン&マカー
トニー
のキー
はとても高く、オリジナルキー
では不可であ
っ
た。キー
を下げて歌い、ソニー
のカセ
ッ
トテー
プレコー
ダー
で録音して聴いてみると、その出来の酷さに打ちのめされた。そして私は、男子がビー
トルズナンバー
を歌う際は、オリジナルキー
でなければならない、と雷に打たれたが如く悟
っ
たのである。
高校生になると、来日したバンドのコンサー
トを何度か観に行
っ
た。新宿厚生年金会館や神田共立講堂、中野サンプラザホー
ルなどのハコで、居心地が良くなか
っ
た。友達付き合いで仕方なく行
っ
ていた。演奏者からあおられ、席を立
っ
てステー
ジの下に走り寄り、身体をくねらせて踊る友人たちを、私はただ見ていた。ノリノリで踊りくるう彼等に加わる気にはなれなか
っ
た。
上述の歌うことへの嫌悪のようなものも芽生え始めていた頃である。ず
っ
とそのことを避けてきたのだが、二十歳の頃にカラオケなるものが登場すると、それは瞬く間に広まり、この国のすべての者が歌いだすような世の中にな
っ
た。私はその苦々しい現象を我慢し続けた。しかし学生が終わ
っ
て会社勤めをするようになると、先輩や上司、客筋から「挨拶がわりに一曲」という展開になることもあり、そういうときは仕事と割り切り歌
っ
た。持ち歌はムー
ド歌謡と呼ばれていた『祖衛門町ブルー
ス』のみ。その一曲で乗り切
っ
た。
それらは、遠い昔の遠足帰りのバス車中で、アナザー
・ケイスケの音程のおかしな歌唱を聴いて「恥ずかしい」と感じたことと関係があると私は確信しているのだが、言葉では上手く語りえぬ類いの事案である。
話を幼少期に戻そう。
高野台界隈ではブイブイ言わせていた私だが、小学校に上がると勝手が違
っ
た。虐めているつもりはないのだが、此処いらの子は些細なことでも先生に告げ口し、私は赤砂糖によく叱られた。
二年生に上がると、担任の鳥谷部先生はい
っ