森の中で人が死んでいる
森の中で人が死んでいるという話を、私は最近確かに聞いたのだが、いつどこで誰に聞いたのか、どうしても思い出すことが出来ない。その死体が誰のものであり、発見者は誰なのか、森のどの辺りで見つか
ったのか、具体的なことは何一つわからない。わからない尽くしで手の打ちようがないのだが、だからといって、このまま何もしないわけにもいかなかった。なぜなら私は駐在員として、この村の治安を一身に担う立場にあるからだ。
とりあえず私は村の主立った人物一人一人に声を掛け、話を聞いてみることにした。事件の手がかりが何もない以上、私に出来るのはそれくらいだ。
しかし村人何人かに尋ねてみた反応は、まるで判で押したようにどれも同じだった。
「そんな話は聞いたことないわ。駐在さん、居眠りして夢でも見たんじゃろ」そう言って笑うのである。
私がこの村に赴任して、まだ半月ほどだが、よく駐在所の椅子に座ったまま居眠りをしているところを既に多くの村人に目撃されており、そのことで何度かからかわれてはいたのだが、それにしても皆がみな同じ答えを返してくるとは、いささか奇異ではないだろうか。彼らは示し合わせて何かを隠しているのではないか、だから皆同じような返答になってしまったのではないかと、私の中で村人たちに対する疑念が芽生え、静かに育ち始めた。
これ以上村人に訊いて回ってもらちがあかないと判断した私は、次に役場に行って村の住民基本台帳を調べることにした。
森の死体がもし村人のものだとすれば、最近村人の誰かが行方不明になっているはずだ。書類上は存在しながら、現在村にいない人物が被害者に違いない、そう考えたのである。現実に村人の誰かが行方不明だとわかれば、村人の中から希望者を募って捜索隊を組織する事も可能になるだろう。
小さな村とは言え、全世帯の家族構成を調べ、一人一人の所在を確認するのは、とても一日で済む作業ではない。私が連日役場に通い詰めて何かを調べているという噂は、たちまち村中に広まったようだ。村人の不審げな視線を感じながら、それでも私は通常業務の合間を縫って、名簿作成に没頭した。
考えてみれば、そもそもこれまで駐在所に住民名簿がなかったこと自体がおかしいのだ。住民全員の所在を把握するのは駐在員として当然の責務ではないか。歴代の駐在員たちは揃いもそろって怠慢だったというしかない。確かにこんな僻地では仕事に対するやる気も起きないのだろうが、それにしてもだ。
そういえば、この村に赴任する辞令を受け取ったとき、上官は私に、この村に駐在員を配置するのは二十五年ぶりだと言っていた。が、実際に私がこの村に来てみると、つい最近まで駐在員がいたことが村人の話でわかった。その駐在員、つまり私の前任者は退任の挨拶もせず、ある日突然村を去って行ったそうだ。一体どうしたんだろうと皆で心配していたが、すぐに新しい駐在員つまり私が赴任してきたのだと、村人から話を聞かされたのである。
村人の話を裏付けるように、駐在所は二十五年間も放置されていたとは思えない奇麗な状態だったから、おそらく二十五年ぶりというのは上官の勘違いだったのだろう。
毎日役場での名簿作成を続けながらも時折、全ては私の思い込みに過ぎないのではないだろうか、森の中の死体など存在しないのではないだろうか、そのような疑念が私の脳裏をよぎることがあった。
それでも私は止めようとは思わなかった。少なくとも、はっきり私の思い過ごしだという確信が持てるまでは調査を続けるつもりだった。
ようやく作り上げた住民名簿を元に、各戸を訪問して住民の所在確認を始めた私に対し、村人たちの反応は意外に協力的なものだった。
いささか拍子抜けしながらも、数日掛けてすべての村人の住居を訪問し終えた。その結果、一人の若い女性の所在だけが確認できなかった。
その女性は農家の父親と二人で暮らしていることになっていたが、不機嫌そうに玄関に出てきた父親は私に、娘は旅行に行っている、いつ帰るか分らないとだけ告げると、バタンと戸を閉めてしまった。
私は彼女の家の周辺の村人何人かに、最近彼女を見かけたか訊いてみた。数週間前から見かけてないというのが彼らの一致した証言だった。
私は確信した。
森の中の死体は彼女だ。
薄暗い森の奥、緩くうねった細い踏み分け道を、私は一人歩いていた。密生した木々の、生い茂る葉に遮られた五月の陽光は、光の細片となって、宝石のように辺りに散らばっている。
私は周囲に目を配りながら、ゆっくりと歩いた。この森のどこかにあるはずの彼女の死体を捜しているのだ。
駐在所の黒板には「しばらく留守にします」と書き置きしてきた。日が暮れる前には戻るつもりだが、果たしてどうなることか。
私は歩きながら考える。彼女は何故死んだのか、と。
殺されたのか自殺なのか。あるいは病死か事故死か。
近所の人々の話からすると、彼女は妊娠していたらしい。大きなお腹を抱えた彼女を目撃した者がいるというのだ。だが彼女は独身だ。いったい子供の父親は誰なのか。
ある村人は声を潜めて囁いた。
子供の父親は、父親ではないかと。
つまり彼女の父親が、彼女のお腹の子の父親だというのだ。
もしそれが本当なら、実に忌まわしい。
実父と関係してしまい、子まで宿した彼女は誰にも相談できず、悲観の末、自ら森に入り死を選んだのだろうか。あるいは父親自身が娘を殺して森のどこかに棄てたのでは。
私はため息をついた。現段階でいくら考えてもわかることではない。とりあえず今は死体を見つける事に集中すべきだった。
もちろん、たった一人で闇雲に森の中を歩き回っても、死体が見つかる可能性は低い。それはわかっていた。もし今日の日没までに死体が見つからなければ、いったん駐在所へ戻り、村人から希望者を募って捜索隊を組織するつもりだ。だが、その前にどうしても一度、私一人で森の中を探してみたかった。
なぜなら私とその死体との間には、何か強い絆のようなものがある、そう思えてならなかったからだ。その死体は、他でもないこの私に自分を見つけて貰いたがっている。どうしてだかわからないが、そう強く感じたのだ。
しばらく歩いていると森の小道は小高い山の際に差し掛かり、緩く傾斜した山道を、私は少し息を荒くして登っていった。道の片側は草の生い茂る急な斜面になっていて、鬱蒼とした谷底の方から水の流れる音がする。小さな川が流れているようだ。深閑とした山道を進みながら、私はいつの間にか再び虚しい推測に引き戻されていく。
村人の話によれば彼女は妊娠していた。そして彼女には村の中に恋人らしい付き合いのある若者はいなかったという。父親との近親相姦というおぞましい想像がなされたのもそのせいだ。
もちろん人知れず村人の誰かと交際していたのかもしれないし、相手が村外の人間である可能性もないではなかった。
そこまで考えたところで私は、はっ、と気がついた。彼女自身は既に死んでいるとしても、彼女のお腹の中の子はまだ生きているかも知れないではないか。
私が森の中で誰かが死んでいるのではないかという疑念を抱いてから今日までの間に、既に何日もの時が過ぎ去っている。常識で考えれば、彼女のお腹の中の子がまだ生きている可能性はほとんど無い。だが、私はこれまで、ずっと死者の数は一人だけだと考えていたし、その死体が赤ん坊や子供のものでは無く、大人のものだということもまた自明の事としていたのだ。であるなら、赤ん坊はまだ生きているかもしれない。赤ん坊を出産した後で彼女が死に、産み落とされた赤ん坊だけが、この森の中で、たった一人で何日もの間生き続けている可能性は限りなく低い。しかし絶対にあり得ないとも言い切れないのではないか。
だとしたら、赤ん坊だけでも何とか助けなければならない。こんなふうに一人で悠長に死体を探している場合ではなかった。一刻も早く駐在所に戻り、本格的な捜索隊を編成すべきだ。
私は急いで来た道を引き返そうとしたのだが、余りに慌てていたせいか、乾いた落ち葉の堆積に足を滑らせ、急な斜面に自らの身を投げ出してしまった。
意識を取り戻したとき、私は幸運にも斜面の途中にある窪みに上手くはまり込んで、谷底まで落ちずに済んでいた。斜面を転げ落ちてから果たしてどれだけの時間が経ったのだろう。私は首を回らして辺りの様子を探った。やがて谷底に人が俯せに倒れているのを発見した。既に日が暮れかかっており、木立に囲まれて薄暗く、顔も服装もよく見えないが、どうやら私と同じくらいの年格好の、若い男のようだった。背中から尖った木の枝が飛び出していて、死んでいるのはあきらかだった。気の毒に、私と同様、山道を踏み外して転げ落ち、串刺しになったのだろう。
では、この男こそが、私が何故か強い絆を感じていた森の中の死体というわけか。いったい何者なのだろう。私が調べた限りでは村人の中に行方不明の若い男などいなかったのだが。私は不安定な足場から恐る恐る身を乗り出して、改めて目をこらし、死体を検分した。依然として顔の判別は出来なかったが、服装は我々駐在員が着ているものとよく似ていた。もしかするとこの男は、数週間前に村を去ったはずの、私の前任者ではないだろうか。だとすれば私が森の中の死体に感じていた絆は、私と彼が共に駐在員であることから来るものだったのかも知れない。しかし彼が前任の駐在員だとして、いったい何故こんなところで死んでいるのか。ただの事故ならいいが、もしも殺人なら厄介なことになる。いや、そんなことは明日、村人の手を借りて、この死体を回収した後でゆっくり調べればいい。
とにかく森の中で死んでいたのは子供を身ごもった若い女性では無かったのだ。よかった、と言っては目の前で死んでいるこの男に申し訳ないが、私は何だか肩透かしを食らった気分だった。
私は苦労して斜面をよじ登り、山道を下って暗い森を出た。
夕日に照らされた村道を歩いていると、道の彼方から若い男女がこちらに向かって歩いてきた。男のほうは驚いたことに私と同じ駐在員の服を着ていた。女のほうは赤ん坊を抱えているようだ。二人とも初めて見る顔だが、どこか見覚えがあるような気もする。二人とも私にとって他人とは思えないのだ。
彼らは前から来る私をまるっきり無視して、とぼとぼ歩きながら会話を続けていた。彼らがいよいよ近づいて私とすれ違うとき、二人の声が耳に届いた。
「とにかくもう一度お父さんに許して貰えるよう、二人で頭を下げるしかないよ」
男がそう言うと、むずかる赤ん坊をあやしながら女が答えた。
「そうね、この子のためにも、そうするしかないわね」
私はその場に立ち尽くして、徒労感と安堵の入り交じった奇妙な気分に浸りながら、しばらく彼らの背中を見送っていたが、やがて気を取り直して駐在所へと向かった。
歩きながら、これまでの一連の出来事を思い返していると、ふいに閃きがやってきた。そして全ての糸がひとつに繋がったのである。
あの二人はこれから彼女の父親に結婚の許しを乞いに行くのだろう。しかし父親は村の外から来た駐在員との結婚を許さず、男を殺して死体を森の中に捨ててしまう。いっぽう娘のほうは赤ん坊をつれて村を逃げ出す。そして二十五年後、そのときの赤ん坊が成長して若者になり、この村に駐在員として赴任してくるのだ。その若者というのはもちろん私のことだ。私が森の中の死体に強い絆を感じていたのも当然だ。何しろ実の父親なのだから。私は父の後任として赴任してきたのだ。確かに時間的な矛盾はあるが、この村では時間が奇妙な流れ方をしていると考えれば説明できる。おそらくこの村での数日間は、外の世界での数年分に相当するのだろう。まるで竜宮城のように。そして時には今のように既に死んでいるはずの人間と出会うこともあるのだろう。この村ではきっと時間がメビウスの輪のようにねじれているのだ。そう考えれば何もかも辻褄が合うではないか。
いや、待て。本当にそれが真相なのだろうか。すべて私の妄想であり、狂気の産物に過ぎないかも知れないではないか。それに先ほどから私自身の存在が次第に希薄になっていくのを感じてもいた。もしかしたら森の中の死体は私自身の死体で、駐在所に向かって歩いているこの私は、その亡霊なのかも知れない。何だか頭が混乱してきて、いったい何が真実なのか分らなくなってきた。しかし、もうすぐ駐在所に帰り着いてしまう。これ以上考えている時間はない。
ついに道の先に駐在所が見えてきた。今の私に出来るのは、これから最後の仕上げをして、この物語を終わらせることだけだ。
ようやく帰り着いた駐在所の中では、私の予想通り、一人の若い男が机に突っ伏して居眠りをしていた。
私は眠っている息子に近づくと、耳元に口を寄せ、囁いた。
森の中で人が死んでいる。