おさない君へ
国語の授業には必ず雑談が組み込まれている。それはA先生の怠慢に他ならないけれど、不思議なことに授業で遅れを取
っているという感覚はなかった。遅れるもなにも、国語とはなにを学ぶ授業なのか、ぼくはまだ知りもしない。
黒板には「坊っちゃん」というチョークの文字。夏目漱石の小説のタイトルだ。てきとうに開かれた教科書にも同じ文字が書かれている。教科書の印字された文字はもちろん綺麗だけれど、黒板のチョークは薄汚れた路地裏を見る気分だ。
ある程度時間が経ち、おそらくキリの良いところまで板書を済ませた後、Aはどかっと椅子に腰を下ろした。教卓で頬杖をつく。
「宇宙って不思議だよな。壮大だ。おまえたちは宇宙について考えたことあるか? まだおまえらには早いか」
あーまた始まった。早速となりの席の子が、顔を伏せておやすみモードに入った。ぼくはシャーペンで教科書をつついて模様を作った。細かい虫の大群のような模様だった。
「月と地球をな、宇宙エレベータでつなぐんだよ」
なんの話だかは知らないけど、Aはしたり顔で胸糞悪い話を続けている。授業終了のチャイムが鳴るまでこれが続くのだ。というか宇宙エレベータってなんだよ規模が大きすぎるだろ軌道エレベータだよ。
この前は自然選択を思い切り無視したダイナミックな進化論を披露してくれた。どうせ難しそうな学術書でも読んで中途半端に理解した気になっているのだろう。取り入れたばかりの知識を子どもみたいにひけらかして、得意気になっている。『坊っちゃん』に出てきた赤シャツという人物が、釣った魚をロシアの文学者だとか言っていたシーンを思い出す。Aは赤シャツのような教師だ。
お昼ごはんの時間。二人のクラスメイトと机をくっつけておかずをつまむ。食べながらいつの間にか会話はAの悪口になっていた。Aってほんと子どもみたいだよね。体はオトナ、頭脳はコドモ! みたいな。あははなにそれー。
「Aは衒学的なんだよ。宇宙エレベータとかにわか感丸出しにして! この前『失笑』のもともとの意味とかドヤ顔で言ってたけどさ、辞書は作るのに時間がかかるんだよ辞書がすべてじゃないよ! 言葉も自然選択されるんだよ国語の先生は国語やっとけよ中途半端に受け売りの科学垂れ流すなってんだよ! だよ!」
うーん……。
あはは。Fは物知りだねー。
「まあね」
こういうとき無駄に照れたり謙遜したりしないのがコツだ。コツ。ぼくは最後の一口をくちに運ぶ。でもぽろっと落ちてスカートについた。
次の日も国語はあった。しかも他の教師が出張に行くということで特別今日は国語の授業が二度あることになった。そのメジャーな教科の担当教師は厚遇を受けて教卓で頬杖をついている。となりの子はやっぱりおやすみモード。板書は済んだのだからAが注意することはない。
今日のAは知識をひけらかすのではなくて数学教師の悪口のような陰言のようなものを言っている。いわく数学教師はデスクが隣で、よく話しかけてくるみたいで、彼は太ってていわゆるオタクみたいで、そいつの話に付き合ってあげていたら仕事の能率が下がって仕方ないのだそうだ。他の教師からは学校紹介の映像を作るよう頼まれているしまた他の教師からは生徒の成績を表にまとめるのを代わりにやってくれといわれている。みんなやり方がわからないとすぐ押し付ける。ネットで方法を調べればいいだけのことだというのに。……みたいな話が延々延々。自分が仕事のできる忙しい人間だとぼくたち生徒に主張したくてたまらないようだ。
「やりたいことがたくさんあんのに、みんな押し付けてくるんだ。Aさーん、これやってー。Aさぁん」
おそらく他の教師の真似をしただろう口調は、前の席の連中になぜかウケていた。ぼくは目を瞑ってシャーペンのノックのところを自分の額に押し付けた。芯が少し出たようだった。
赤シャツだ赤シャツだ……。芯が出るたびに繰り返される言葉が、暗闇のなかで跳ね返った。
「なんだF、眠いのか」
板書は終わって今は雑談の時間なのにAはぼくに話しかけてきた。目を瞑っている生徒はぼくの他にもいくらかいるのになんなんだこいつは。
ぼくは聞こえなかったふりをして両腕で枕をつくった。
――Fってぶっちゃけどう?
――うーん……。
――なんか自分物知りですーって感じあるくない?
――あー確かにあるよね。わざわざ難しい言葉使ったり。
――そうそう。
――読んだばかりの本に影響受けてそう。
――というか、「ぼく」って、ねえ……。
――おかしいよねー。たぶんアニメの影響だろうねー。
――えーFってオタクなの?
――たぶんね。
この世の中赤シャツばっかりだ。みんな一丁前に体裁保っちゃってきもちわるい。ドア越しの二人の会話はスカートについた残飯のシミだった。ぼくはそのまま教室に入らずに保健室に行ってそれで目を閉じた。軽く拳をつくって自分の額をこづく。こづく。
そうだぼくは「坊っちゃん」になって赤シャツを思い切り痛めつけてやろう。「山嵐」はいないけれど。ぼくが赤シャツをこらしめてやろう。知識をひけらかしてばかりで小心者で人の悪口を本人のいないところでしか言えないような本人の前では良い人ぶっている優しい声を出している赤シャツをぼくが痛めつけてやる。ぼくが。
どうやって痛めつけよう。ぼくに腕っ節はない。殴るなんてことはきっとぼくにはできないだろう。そうやってあれこれと考えているうちに、チャイムが鳴って保険医の先生が授業行かなくていいの、と聞いて、ぼくが答えあぐねている間にぼくは教室に行かなくてはならなくなった。次は今日二度目の国語だ。
あ、F。どこ行ってたのー。
「別にー」
二度目の国語の授業は、要するに余分な時間なわけだから、Aは端から授業をする気がなかったようだ。最初からチョークを掴むことなく椅子に座って、いつものように教卓に頬杖をつく。今日は自習。Aの声を聞いて早速となりの席の子は机に突っ伏した。
あはは。女のくせにだらしないなー。
となりのとなりの男子が、そう言う。おやすみモード状態の子のことを指して言っている。
「おいおい。それはジェンダーだ」
Aが、男子の発言にちょっかいをかけてきた。
「女じゃなくてもだらしないだろ。自習しろ自習」
ジェンダーだ、というときのあのしたり顔。ぼくはぎゅっと目を閉じて開けた。ぱちぱちと白いもやが走る。虫唾が走った。なにがジェンダーだ。むやみやたらに言いがかりつけやがって。この男子が「山嵐」になってくれるだろうかと少し期待したがどうやらAの指摘になんとも思っていないらしい。自習しろよ自習、とAの口真似をしながら突っ伏したままの彼女の頭をつついている。なんだこいつら。拳を握る。目を瞑って額をこづいた。もう一度こづく。味のない感触が跳んで落ち着く。
「おい、F。おまえ具合わるいのか?」
今度はぼくにちょっかいをかけてくる。
「いいえ。ぼくは大丈夫です」
大丈夫じゃないのはおまえのほうだ。皮肉を込めて言ったつもりが、Aはきょとんとした様子で、
「F、女が『ぼく』って言うものじゃないぞ」
と言っ