茜色ひとつ
世間から一拍遅れたような頃合いで、その町の夏祭りはや
ってくる。少女が初めて浴衣を着つけたのは、そんな祭りの夜だった。
鏡の前でくるくる回り、帯が崩れていないかどうか、入念に最後の仕上げをする。金魚の泳ぐ白地の浴衣に、きりりと締めた緋色の帯。練習の成果は出たらしい。
——意外に巧いじゃないの。
祖母に褒められて気を良くし、下駄を鳴らして家を出た。駅前で友達と待ち合わせ。小さな嘘をついたのも、たぶん初めてのことだった。
色とりどりに浴衣の咲く駅前を、少女は顔を俯けて、からころと足早に通り過ぎる。級友に見咎められるのも、来るはずだった少年の姿を眼にするのも、どちらも断じて避けたかった。
林檎飴の屋台の前で、ようやく顔を上げ周りを見る。夜店の連なる商店街は、提灯に照らされて異世界に見えた。
人波に流されるようにして、ぼんやりと屋台を眺めて歩く。綿飴、かき氷、とうもろこし。くじ引き、焼きそば、射的にお面売り。ヨーヨーを弾ませる少年少女が視界に入り、少女は慌てて顔を伏せる。その一瞬に気を抜いたせいか、人の流れから弾かれて、ふらり、一軒の屋台へ押し出される。
——いらっしゃい。
初老の店主は笑顔で迎え、小さな椀を差し出した。見下ろすと大きな池の中に、赤い金魚が泳いでいる。夢見心地で巾着を開き、少女は椀を受け取った。
裾を払ってしゃがみこんでも、隣で覗く人はない。膝を抱えてじっと水を見ると、一緒に泳いでいるような、そんな錯覚に捉われる。
浅い水の中に放たれ、紅い金魚は優雅な曲線をいくつも描く。遠目に見たら大きな器でも、中の彼らにはさぞ狭いだろう。
空の椀を抱えこんだまま、少女はぼうと魚を眺める。ぽちゃん、と傍で跳ねた音を追うと、膝に居たはずの金魚模様が、ひとつ水の中で泳いでいた。瑠璃色の渦だけが中途半端に、浴衣の生地に残される。
思いだしてポイを動かす。浴衣の金魚がどれかわからず、手前を横切った茜に狙いを定めてみたものの、薄紙を破られただけだった。
初老の店主は微笑んで、少女に金魚を一匹掬ってくれた。椀を使えば確かに容易く、綺麗な金魚が掬いとれた。
ビニールに入れられる寸前に、少女は首を横に振った。
——いらない。
店主は困ったように微笑んで、袋の一匹を水に放した。一点の茜は紛れて消えた。
遠くで花火が始まった。少女はゆっくりと立ちあがり、人波に飲まれて空を見上げる。花火の音にかき消えながら、紅い鼻緒の下駄が鳴る。