顔
よく晴れているがうだるほどの暑さでもない。時折吹く心地よい風がしまい忘れの風鈴を鳴らす。
夏は大風が運び去り、秋の虫達が一際騒々しくな
った時分である。
そうはいっても町人たちが騒がしいのは夏も秋も関係がない。
今日も暇そうな町人連中が立札の前でがやがやと騒いでおり、町人どころか浪人の姿もぽつぽつと混じっている。
人相書之事。
膳蔵は編笠のヘリをくいっと持ち上げ、立札に描かれた罪人の顔に目を凝らす。
似ちゃいねえ。
つり上がった目に、しわの寄った眉間。いかにも悪人でございと言った調子の面構えだ。
俺はこんなに凶相じゃねえ。
再び編笠を目深にかぶると、その場を後にした。
三日前、一際明るく輝く半月の晩のことであった。
熱気のこもった空気の重くのしかかる中で、一人の男がしっかりとした足取りで歩いてゆく。
明かりも持たずに、月明かりの中をすたすたと歩む。
梟のごとき眼光が、暗闇の中で鋭い光を放つ。
膳蔵である。
前に歩く男は酔っているのか、膳蔵の気配には気づいていない。
ふらふらと揺れる提灯と調子の外れた歌。
二人の間がだいぶ縮まったところで、やっと男は振り返る。
振り返ってみても誰もいない。
膳蔵は既に男を追い抜いていた。
追抜きざまに、斬っていた。
その結果も気にならぬかのように、調子を崩さずすたすたと歩き去っていく。
背後で男のうめき声と崩れる音が聞こえても、それは一向に変わることはなかった。
誰かに見られていたか。
膳蔵は土手に咲いた彼岸花を見て立ち止まる。
注意深さには自身があった。人を斬るときには場所を選び、人のいないことを確かめた上で斬っている。
だが、似てはいないとはいえ人相書である。
誰かが、俺を見た。
彼の柄の上に蜻蛉が止まる。
いや、法螺吹きか何かが役人に嘘っぱちを吹き込んだに違いねえ。
膳蔵は嫌な考えを打ち消すかのように首を振り、再び歩き出した。
驚いた蜻蛉が再び舞い上がるが、その首はぽろっと落ちて転がった。
膳蔵は、人斬りである。
人に頼まれて斬ることもあれば、腕を鈍らせぬため人を斬ることもある。
仕官の望みはなく、安定した収入もないのだが、時たま入る殺しの金で日々の困ることもない。
金を使うのは刀の手入れぐらいで、大して良くもない膳蔵にとっては苦のない生活であった。
長い間、そうして暮らしてきた。
また、人を斬った。
風はあるが風鈴の音はない。
残暑は消え去り、やってきた秋が山を色づかせる気配も見える。
そしてまた立札の前に人だかりができていた。
その中には膳蔵の姿もある。
気にかけるほどのことではないと思いつつも、ついつい見に来てしまったのだ。
この間とは違ってやがる。
人相書は以前のものとは様子が違った。
いかにも凶悪な顔つきであった人相はいささか柔らかくなり、そこらにいそうな浪人風の顔つきに変わった。
だが、俺には似ちゃいない。
膳蔵は人を斬ろうと思い、闇の中に身を溶かした。
この前二人を斬ったのは仕事だったが、今度はただの殺しだ。
だが、その夜、結局人を斬れなかった。
目星をつけたものを負っていると、何故だが見られているかのような気配が感じられて足を止めてしまうのだ。
振り返っても誰もおらず、あたりを見渡せば気配は既にない。
似てきていやがる。
立札に貼り付けられたその顔は、膳蔵の顔に似始めている。
やはり誰かに見られていたか。
そんなはずねえ。見ていやがったら少しずつ似せていくような周りくどい真似するわけがねえ。
じゃあ、これは何だってんだ?
気のせいだ。季節の変わり目で頭が風邪ひいちまったんだ。
だが、また人が斬れなかった。
そして人相書である。
その顔はますます膳蔵の顔に似てきており、このままゆけば膳蔵の顔を知るものが番所に駆け込みかねないほどである。
流石にこれには膳蔵も気のせいでは済ますわけにはいかない。
その日、膳蔵は夜に紛れた。
夜逃げではない。
殺しの仕事でもない。
人を斬るためである。
なぜだかよくわからないが、人相書を膳蔵に似せている者が現れそうな気がしたのだ。
寒気がするほどの夜であった。月は雲に隠れ、頼るべき明かりもない。
それでも膳蔵は提灯も持たずに闇夜を歩いた。
あてがあったわけではないが、歩くのは止めなかった。
ふと、背後に気配が感じられ、ほぼ反射的に刀を抜いていた。
手応えはあり、黒い影が足元に倒れたのがわかった。
その影が犯人だと膳蔵の直感は言っていた。だから、そいつの顔を拝んでやろうとうつ伏せになった男の体をひっくり返したのだ。
なんだってんだ。
こりゃ。
どうなってんだ。
そこにあったのは膳蔵の顔であった。
影はにやりと笑ったかと思うと、一陣の風が過ぎ去り影は消えた。
膳蔵は咄嗟に川を目指した。
雲が晴れ、月が出る。
川の水面に映し出されたその顔は―。