第9回 てきすとぽい杯
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ヒーロー見参
投稿時刻 : 2013.09.21 23:43
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ヒーロー見参
雨之森散策


 僕にとて父とは、二面性を持たちと名状し難い存在だ。夜はいつも酒で、前後不覚になるような飲み方しかできないだらしない男、そして昼の姿を僕が観たのはもう二十年ちかく昔の話だ。
 その父がまだ五十歳という若さで脳梗塞に倒れ、右半身不随となたのは僕がようやく社会人として自立した頃だた。母からの連絡によて急遽帰省し、駆けつけた病院で僕が眼にしたのは痩せ細り、顔の半分をだらしなく崩した夜の姿の父がいた。
「すまん」
 父はそれだけ言うと口をつぐんだ。もと話す事があるのだろうが、うまく発語できないもどかしさからか、父の唇が微かに震えていた。
 いいて、と僕は答えたものの腹の中では当て所のない怒りがあた。父は深酒のために身を滅ぼそうとしていた。
 父は五十歳になるまでスーツアクターとして数々のヒーローや怪獣を演じてきた男だた。父が陰ながら名演した映画は何度か僕も見ている。
 それが、結局は酒のために降りざるを得なくなた。身体を自在に動けない父はスーツアクターとして舞台に立つ資格を失たのだ。酒を飲む夜の父が、ヒーローであた筈の昼の父を打ち負かしてしまた。その事に、自分でも思いがけず僕は怒ていた。
 父の治療はリハビリへと移行し、入院期間は当初の一月からニ月に伸びた。その間、僕は見舞いのついでにちくちく実家へ立ち寄た。
 母は父に罹りきりだたので家には誰にもいない。その隙に僕は父の部屋へと忍び込んでいた。父の仕事道具の類は家には置いてないが、会社から譲り受けたというスーツが一着だけクロートに掛けられてあた。僕はそれを殴た。もうこの怒りをぶつけられる父は存在しない。病院にいるのは父とは全く違う人間だ。ならば僕が殴るべき相手はヒーローた頃の父が身につけていたスーツしかなかた。
 掛ける言葉もなくビニール製のスーツを殴ていると廊下の置き電話が鳴た。慌てて廊下へ出て、受話器を取ると相手は父の勤め先のプロダクシンからだた。新しい役が決またので出社して欲しいという内容だ。父が倒れた事など全く知らない様子だた。
 すぐに僕は違和感に気付いた。父が倒れたあの夜、父はヒーロー物のコスチム姿だたという。仕事中に倒れたのなら、なぜ会社の人間が気づかないのだろう。僕がその事に触れると受話器の声の主は気まずそうに真相を語た。
――お父上は一年前にウチとの契約を切られてたんですよ」
「もしかして、酒でですか?」
 間髪入れずそう聞くと、ええまあと男の声が言葉を濁した。僕は更に尋ねた。
「じあ、ここずとスーツを着る仕事なんてなかたんですね?」
 受話器の声は少なくともウチじありませんねと答えた。ややあて、僕は受話器を置いた。

「ヒーロー見参」
 父は理学療法室病室の片隅で足の運動をやていた。僕へ振り向いたその顔には驚きがあた。
「母さんから全部聞いた」
 父に付き添ているPTの先生が不審げに僕を見ていたが、構わず言た。
「本当は外傷性の硬膜下血腫だて事も、夜に自警団まがいをやてた事も全部ね」
――すいません」
 父が片手で先生に拝むとPTの先生が十分だけ休憩しましうと気を利かしてくれた。
 院内の休憩室で、僕はペトボトルのコーヒーとお茶を書い、キプを外して父へ渡す。
「隠すつもりはなかたんだが」
 父なりに一生懸命話そうとしてか言葉が乱れていた。
「バトマンじあるまいし――
 僕もこれ以上言葉が出ずに慌ててコーヒーを飲み込んだ。父が右手で左手を支えながらお茶を啜る。
「このままじダメだと、思てたんだ」
「それで自警団まがいかよ」
 またペトボトルを傾ける
「長いこと生きてるうち、大事なものが失くなていく感じがしたんだ」
 父はボトルを椅子に置き、左の掌を握りしめた。
「奮い起こしたかた。まだまだ俺はやれるて」
「ヒーロー見参!」
 突然の大声で休憩室内が静かになた。そこに居る人々の視線が注がれているのを感じる。父だけは僕から視線を外して俯いた。
――お前が小さい頃、よくやたな。あれ」
「言とくけど、後継いだりしないから」
 初めて父が僕の眼を見た、そんな気がした。
「リハビリ頑張てよ。ヒーローなんだからさ」
 ペトボトルの上をつまみ上げると僕は父の顔を見ないようにして、そのまま休憩室を出て行た。
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