仮面パンダー -序-
脳が発酵したかのようだ。細菌共が脳みそを喰らい尽くして毒ガスを頭蓋の内部に充満させてくる。
頭が痛くて、吐き気がする。どうしようもないほどに。
耐え難い苦痛に叫び声をあげて、コンクリー
トの壁を殴る。
拳の痛みのせいか、一瞬だけ痛みが和らいだような気がした。だが、すぐに引いたはずの波が押し寄せてきて、あっと言う間に安穏の町を覆い尽くすのだ。
「くそが」
胃の中身を吐き出すように発した言葉。
「くそがくそがくそがくそがくそが」
がんがんがんがんがんがん。
何度も壁を殴ると、拳の感覚は無くなってしまった。
頭の痛みは増すばかりで、どんどんそれは耐えがたくなっていく。
「罰だにゃん」
頭のなかで声がする。
「罰なんだにゃん」
声がするたびに頭蓋骨に響く。ガンガンと、ミシミシと。
「ぶっ殺してやる」
その声が頭のなかで響くものなのか、己の声なのか判別はつかなかったし、もはやどうでも良かった。
彼の心のなかには痛みと殺意しか残っていなかったから。
「でも、僕なら助けてあげられるにゃん」
彼の目の前に立っていたのは、奇妙な風体の男だった。男が何を言っているのか意味がわからなかった。
意味がわからず、訳もわからず、ただ、頭に響くその声が不快だったから、殴った。
何度も殴った。
何度も。
何度も。
ぐしゃぐしゃに。
血と肉と骨が混ざり合うぐらいに。
拳と相手の顔面の境がわからなくなるぐらいに。
ただただ殴り続け、殴り続け、殴り続けた。
その間は痛みが和らぎ、苦痛を感じずにいられたから。殴るごとに痛みが引くような気がしたから。
やっと彼が我に返ってみると、顔がぐしゃぐしゃに潰れた男の死体が転がっていた。
なんじゃこりゃ。気持ちわり。
彼は唾を吐いて立ち上がると、その場を後にした。手を洗いたかったから。
「どう?痛くなくなったでしょ?」
近くの便所で手を洗っていると、少年の声がした。顔を上げると鏡の前に猫がいた。
どうやら声の主は猫のようだ。
彼が興味なさげにしていると再びミシミシというような頭痛の気配が忍び寄ってきた。
「くそ」
「僕はそれを治せるわけじゃないんだにゃん。一時的に痛みをやわらげるだけにゃん」
「どうやったら和らぐ!」
「殺すにゃん」
「あ゛?」
「さっきみたいに殺すにゃん。悪いやつをぶっ殺すにゃん」
彼は頭に手を当てて、必死に痛みを抑えようとする。
「君は正義の味方になるにゃん。そうすれば」
彼女は逃げていた。
涙と鼻水が交じり合った必死の形相で、呼吸を乱しながらここ数年出したことのないほどの全速力で。
パンダの着ぐるみの頭の部分だけを被った奇妙な格好をした男はそんな彼女の必死さなど気にも掛けず悠々と追ってくるのだ。
パンダが歩くたびにバランスの悪い大頭は左右に揺れ、そのたびにガサゴソ、ガサゴソと音がする。赤いプラスチックフィルムを首に巻いているのだ。まるでバイクに乗った某ヒーローの赤いマフラーを模するかのように。
路地裏に逃げ込んだ彼女は、ついに突き当りに行き着いてしまった。袋小路。逃げ場はない。
叫ぼうにも恐怖で声が出ない。
カラン、コロン、カラカラ。
金属音が路地裏に反響している。
パンダが、鉄パイプを引きずりながら姿を表した。
ゆっくりと、女に近づいてくる。
「なあ」
パンダが篭ったような声を発した。
「お前、悪いやつなんだろ」
女は反論しようにも声を出すことが出来ない。
「知ってるよ。俺にはわかるんだ。誰が悪いやつか」
月明かりの下、パンダは鉄パイプを振り上げた。
「なあ」
「知ってるか?」
「悪い奴は正義の味方にぶっ殺されるんだよ」
ガンという一撃の音色に合わせるように、猫がにゃあと一声鳴いた。
「まだだ。まだ。頭が痛ぇ」
返り血を浴びたパンダが、猫に向かってつぶやく。
「悪い奴は、どこだ」
今宵の狩りは、まだ続く。