吾輩は猫ではない
七面鳥である。名は覚えていない。
なるほど鳥頭である。
そういうわけでどこで生まれたか見当もつかず、薄暗いじめじめしたところでぎ
ゃーぎゃー泣いていたという記憶もない。人間を初めて見たときの記憶もなければ、いつの間にやら人間に飼われていたというのが吾輩のぎりぎり覚えている記憶である。その時の記憶というのが、ご主人の御嬢さんにスコップを持って追いかけられたというものである。御嬢さんとしてみれば特に悪意があったわけではなかろうが、記憶にある真新しいスコップの輝きがとても鋭利な刃物のように感じられて、とても恐ろしかったのである。そうそう、話す順番が逆になってしまったが吾輩の飼い主はご主人の細君を頂点として、御嬢さん、ご主人といったパワーバランスのご家族である。そろそろこの吾輩もご主人を抜いて家の中で三番目の地位を得ることができるのではなかろうかと思っているのだが、やはり人と獣の溝というのはなかなか深いもので、今のところは食卓の御主人の席を時たま占拠するという長期戦に出ているところである。吾輩が言うのも変であるが、七面鳥を飼っているだけあって家は一軒家。立派なものである。家のローンを抱え、さぞかしご主人の気苦労も絶えぬのであろうとは思うのだが、どうやら細君の方が収入は多いようである。なるほどご主人の立場がないわけである。
そもそもなぜ吾輩がこの家で飼われているのか。友人が拾った雛鳥をご主人が貰い受け、ひよこだと思ってもらって貰い受けたものが成長してみれば成長してみれば七面鳥だったというわけである。ひよこにしろ七面鳥にしろ何も考えずにもらってきたご主人は細君にこっぴどく叱られたものの、御嬢さんが吾輩のことをいたく気に入りそのまま住んでいるのである。
何もせずとも食事には困らないこの上なく楽な生活である。かといってぶくぶく肥るわけではなく、御嬢さんに追い掛け回されるのはそこそこいい運動になる。かといって追い掛け回されるのはあまり気分の良いものではなく、恐怖のせいで顔の色が変わる。興奮して顔の色が変わるのが七面鳥たる由縁なのであるが、吾輩としては平穏が一番、顔の色など変えたくない。しかし顔の色が変わるのが御嬢さんとしてはたいそう面白いらしく、余計に追い掛け回される始末である。
もう辛抱たまらんと思って、くるりと向きを変え、翼を広げて威嚇すると、御嬢さんは泣き出してしまうのである。居候の身としては家主に逆らうのはあまりよろしくない。よろしくないがただ黙っているのも癪である。どうせ御嬢さんも次の日にはけろっと忘れてまた吾輩を追い掛け回す。たまには反撃もしなければやっていられない。
そんなある日のことである。ご主人がテレビを見ていると、クリスマスの料理という番組が始まった。なるほど世間はクリスマス。人間の作った暦の上では今年ももうすぐ終わりというわけだ。吾輩も窓越しに奇妙な風習の日に振る舞われる料理の数々を見ていた。すると吾輩と同族の姿が現れたではないか。七面鳥である。ターキーである。格調高きブロードブレステッドホワイト種である。が、次の瞬間驚愕の映像が映し出される。丸焼きにされた仲間たちの姿。それをうまそうに食らう人間たち。恐ろしさにがくがくと震えていると、何か嫌な予感がした。ご主人の方を見ると、こちらの方を見ている。それは肉食獣が獲物を見つめるような目だ。
食われる。
吾輩は食われてしまう。
そうだ。本来七面鳥はクリスマスか感謝祭の日に食われる宿命にあるのだ。
そして今日はクリスマス。
食われる。
そう思った瞬間、吾輩は家を飛び出していた。
駆けに駆けて立ち止まってみればそこは全くの知らぬ場所であった。これはしまった帰り道はわからないと思うが、よくよく考えてみれば帰ったらご主人に食われてしまう。このまま進もうと意を決して、歩き出すのである。思えば家の外に出たのは初めてだ。アスファルトから公園、車。言葉には聞いていたが初めて見る珍奇なものばかりでなかなか楽しいものであった。やがてたどり着いたのは堤防である。それを超えれば河原があり、ちょうどいい高さの草木が生い茂り姿を隠すにはちょうどいい具合である。この季節は草の種も虫も少なくなってきているが、いざとなったら公園のごみを漁りに行けば何とかなるのではなかろうか。まあ、先のことを考えても仕方がないとほっつき歩いていると奇妙な毛むくじゃらの生き物にしゃべりかけてきた。
「おぬし、何もんじゃ」
「吾輩か。吾輩は七面鳥である」
「ほう。始めてみる鳥だな」
どうやらその生き物は猫というらしい。確かそんな生き物も窓越しで見ていたテレビに出ていたような気がする。どこから来たのかと問われ、元々は飼われていたのだという。何故、逃げてきたのかと問われ、食われそうだったのだという。
「おめえはペットだったんじゃないのか?なんで食われるんだ」
「吾輩は七面鳥だぞ」
「つまり、ペットだろ。ふつうペットは食わんだろ」
「ならばペットでは無かったのであろう」
「普通、食うか飼ってるもんを」
「いやいや、世の中には家畜というものがあってだな」
「けど犬や猫は食わないぜ」
「犬や猫は家畜ではないからな」
「じゃあ犬や猫と家畜の違いってのはなんだよ」
「うーん。そうだな。食用に品種改良されてきたか否かではなかろうか」
「ん?つまり美味そうか、不味そうかの違いってことかい」
「そう言えなくもないな」
「へえ、するってえとおめえさんは、食用品種ってわけかい?つまり美味いってことか」
「そうだな。吾輩は誇り高きブロードブレステッドホワイト種だからな」
「へえ、そいつはそいつは」
その時、猫の目の色が変わっていくのが分かった。これはご主人のあの時の目と同じである。
「まあ、落ち着け。吾輩を食っても美味くはないぞ」
「さっき美味いって言ったじゃないか」
「いやいや、そうだ。あれだ。腹を壊すぞ」
「でも、美味いんだろ?」
これはどうにも説得することは困難を極めそうである。猫の敏捷性も鑑みれば走って逃げることも難しいだろう。ならばここは、あれを試してみるしかない。もはや一か八かである。
猫が狙いを定めて飛びかかろうとした瞬間、吾輩は羽根を広げて地面を蹴った。思いっきり羽根をはばたかせ一気に上昇する。
飛べた。
これには自分も驚いた。
飛べたのである。
一度飛び立ってしまえば意外と飛べるものである。眼下には悔しそうな顔の猫。そんな猫を尻目に、ぐんぐんと高度を上げていく。
気付けば傾きかけていた日は沈み、街には明かりが灯っている。
煌びやかに輝く、地上の宝石。色とりどりの輝きが地上には満ちていた。
今日はクリスマスイブなのである。街の明かりは普段より一層明るくなっているのだ。
シャンシャンシャンシャン。
そんあ音が振り返ってみれば赤い服に身を包んだ老人がトナカイを従え、微笑んでいる。
「メリークリスマス」
奇妙な怪人そんな呪文を言い放つとそのまま通り過ぎて行ってしまった。
今日は奇妙なことばかり起こる。空を飛び、見たこともないような情景を目にすることができた。
満ち足りた気分である。
が、腹も減った。色気より食い気、花より団子である。疲れもあってだんだんと高度は下がっていく。
気がつけば見慣れた庭が目に入った。
あれは、我が家か。
我ながら見事な着地を決めると、庭から家の中を覗き込む。ちょうど夕食の時間のようだ。吾輩を認めた御嬢さんが駆け寄ってきて、吾輩を抱きしめる。いささか苦しい。まあ、食事にさえありつければそれでいい。今日はクリスマスということだけあってきっと豪華な飯に有り付けるのだろう。
それにしても吾輩は何故家出などしたのであろうか。
覚えていない。
なるほど鳥頭である。